第二章 懐中時計に刻まれていたのは(三)


 ボーン……ボーン……。


 丑三つ時。


 昨日と同じように彼女は俺の枕元に立ち、泣き始め、ついにはその手を伸ばしてきた。しかしその手は俺の首に届くことはなかったのであった。


「はい、ちょっと待ってねー」


 暢気なこと極まりない声と共に、暗がりからにゅっと手が伸び彼女の手を止める。そして、もう片方の手で俺を布団の上からポンポンポン、と三回叩いた。


「神崎、動ける?」


「うん、しっかりと」


 俺は難なく起き上がり、布団の上に座る。


「ってか、もっと早く助けられなかったのかよ」


「まぁいいじゃん。気にしない気にしない」


 いや、気にするし。しかし、弓削はそんな俺の心のうちなど気にもかけずに彼女に向き直り


「どうもこんばんは。僕はこちらの神崎の友達の弓削司といいます。お嬢さんは?」


 などと話しかけている。しかも、人好きのする極上の笑みと共に。……このスケコマシめ。


「宮川、菖蒲あやめ……です。…………どうして私の邪魔をするんですか」


 その子はどうやら最初は弓削の調子に流されたらしいが、すぐに立場を思い出したらしくきっと弓削を睨みつける。昨夜などは緊張と暗さ、雰囲気のため彼女のことがかなり年上に見えていたが、実際のところ俺や弓削と同い年かいっそ年下にさえ見える。まだ幼さの残る顔で弓削を睨みつける様子は余裕を持ってみれば少し微笑ましかった。……幽霊を目の前にして余裕を持つ俺もどうかと思うが。


「うーん。話は長くなるんですが、まぁ彼から相談がありまして。僕も昔から幽霊とか妖怪とか見える類の人間だったんで、こうして来てみました」


 にこにこと何の含みもなさそうに話しているが、これも向こうの安心を誘うためなのだろう。……地かもしれないけど。


「それで、何をしに来たんです?」


 今度は弓削の笑顔にも流されず、刺々しい口調で返してきた。


「彼の依頼の内容としたら『あの懐中時計をまた売れるような状況にすること』と、『貴女に成仏してもらう』ってとこですが……何か望みはありますか?」


「……その条件は同時には叶えられませんよ。だって、私はその時計を返してもらいたいのですもの」


 びしっと言い切ってくれる。かなり気が強いらしい。


「返して欲しいってことは、元々貴女の物だったんですよね? 参考までにどういった物なのか教えて頂けませんか?」


 のらりくらりと彼女の責めるような口調をかわしつつ、弓削は質問を重ねていく。そう言った時に人当たりのいい笑みの中に、悪戯をする時のような笑みが混じった。……こいつがこんな笑い方をするときは、誰かをめようとしている時だ。


「どういったって……とても大切な物ですよ。あれがないと……」


「あれがないと……?」


 弓削はニコニコと笑ったままそう尋ね返す。彼女の元々青白かった顔色が更に青ざめた。倒れるんじゃないかと思った程だ。


「あなたが返して欲しいのは、本当に時計なんですか? いや、時計も返して欲しいんでしょうが、一番欲しい物は別にあるんじゃないかな?」


 囁きかけるように、さっきの少し意地悪そうなのとは打って変わった優しい声が響く。


「思い出せない。何で? 大切なことのはずなのに。記憶が……。そう、私の記憶を返して……一番大切な記憶を……」


 潤んだ瞳を弓削に向けて必死で頼んでいる。しかし……いくら弓削でもそんなことは可能なのだろうか?


「神崎、時計貸して」


「うん……ほれ」


 俺は布で包んだ時計を差し出す。弓削は両手で包みを受け取るとる。流石に昼間散々言ったのでいい加減に扱うのはやめたのだろう。両手で包み込むように持ち、彼女にも見えるようにする。そして昼間していたようにじっと見つめた。


「僕は、今からこの時計と共に見えるものをそのまま言います。貴女の大切な物ではないかもしれませんが……」


 一度言葉を切り、目を伏せた。


「夕暮れ時のどこか狭い部屋。机の上にこの時計が置いてある。まだ真新しい。その時計を前にして、女性……恐らく貴女でしょう、と、背の高い男性が何か喋っています。何を喋っているかは分かりませんが、本当に楽しそうに。でも、男性が何かを言ったとたん、貴女の表情が突然変わります。驚いたように……それから……」


「もういいです」


 弓削の言葉を遮った彼女は耳を塞いで震えていた。そして、泣いていた。大きな目を見開いて、そしてそこから大粒の涙をボロボロとこぼしていた。


「思い、出しました。この時計は、彼の、私の婚約者の、最初で、最後の作品でした」 


 切れ切れと、搾り出すように言葉を紡ぐ。そのあまりに苦しそうな様子に俺は、


「別に言わなくても……」


 と、口を挟みかけたが弓削に止められた。


「こうやって気持ちを昇華させてしまうんだから、言わせてあげた方がいいよ」


 弓削に言葉に頷いたものの、やはり止めたくなってしまう。


「彼は、ずっと自分だけで時計を作りたがっていて、職人さんの下に通って一生懸命勉強していました。私は難しいことは良く分かりませんが、一生懸命に楽しそうに時計を作っている彼が好きでした。私も彼も決して裕福ではなかったけど、それでもきっと幸せだったんです……あの日までは。露西亜ロシアとの戦争が始まる日までは……彼が行ってしまうまでは……そして、二度と帰らぬ人となってしまうまでは……」


「日露戦争か……」


 今から十年近く前の話だ。ようやく話が読めてきた俺は思わず眉をひそめた。


「彼が残したのはたった一つの時計だけでした。骨も何も残さずに。だから、私は死んでしまってからでも、その時計を返して欲しかった。彼が唯一私に残していったものですから」


 大きな瞳から涙が溢れ、青白い頬を伝っていく。声も出さずに泣いて、俺のことを見据えていた。


「だから、お願いします。返してください。大事な物なんです」


「えーっとー……」


 話を聞いた以上返してあげたいのは山々だったが、それではこっちが冗談にならないぐらい損をしてしまう。助けを求めるために弓削の方を見たら、彼はただ頷いた。


「でも、貴女はこれを所有することはできません。これを持ってあの世に行くことはできません。それに……」


 一度言葉を切って、弓削は柔らかく微笑んだ。


「大事だったのは記憶だったんじゃないですか? 幸せだった思い出じゃないんですか? その婚約者さんのことだったんじゃないんですか?」


 それを聞いて彼女は一層激しく泣き出してしまった。俯いて小さな手で顔を覆い、嗚咽を漏らす。


「……逢いたい。あの人に逢いたい……」


 しゃくり上げながら、そう繰り返した。まるで最後に残ったのはそれだけだったように。


「その願いなら叶えられますよ」


「……本当ですか?」


 顔から手を離して驚いたように弓削の方を見る。


「はい」


 弓削は安心させるように微笑んで、涙に濡れた手をそっと取った。


「あの世で望む人に会えることと、来世でのあなた方の幸せを祈って、僕が案内します」


 ゆっくりと、彼女の姿が透けていく。


「ありがとうございました」


 先程の泣き顔とは一転変わり、花のような笑顔とその言葉を残して彼女は消えていった。弓削は彼女が消えてからもしばらくそのままの姿勢でいた。膝をついて少し俯き、指を組んで目を閉じている様子は、どこか西洋の祈りの姿に似ていた。



    * * * *



「しかしもったいないよなー。あんな腕のいい未来の職人を戦争で殺しちまうなんて」


 あの夜から二、三日後。あの懐中時計が売れた次の日、店番の俺と遊びに来た弓削は取り留めなく喋っていた。


「戦争ねー。何か欧州ヨーロッパの方もキナ臭いらしいね。そういえば徴兵ももうすぐか……」


 弓削は何か考えるように目を泳がせた。


「そういえば俺は長男だから徴兵は避けられるけど、お前なんか手打ってるのか? 末っ子とか言ってただろ。暇な時にでも、戸籍探しといてやろうか?」


 長男でもないし背丈も足りている弓削は、明らかに徴兵されるはずだ。しかし弓削がおとなしく徴兵されるとも思えず、逆にそんなことも気にかけずに忘れているのではないかという一抹の不安があった。


 参考までに、家督を継ぐ子供がいない家に養子に入れば徴兵は避けられる。


「うーん……もしかしたらそんなことしなくっても避けられるかもしれないしなぁ……」


「ん? お前って目とか悪かったけ?」


 妙に歯切れの悪い言葉に、俺はそんなことはないはずだと首を傾げつつも訊いてみる。


「いや、目は両目ともすごくいいよ。ただ、家の事情でその辺は大丈夫かもしれない。……こんどおばあさんにでも訊いてみるよ」


 ……何で父さんでも母さんでも兄ちゃんでもなく、いきなりばあさんなんだ? こいつの家も良く分からない。母方の実家が大きな神社の神主をやっている家で、父方の実家が古くからの陰陽師の家系とか言っていた。それを聞くだけでかなり濃い。しかも、確か婿養子に入る形の結婚だとか言っていたのに、よく考えてみたら何でこいつの苗字が弓削(父方の姓)なのかが分からない。……というか、もっと早く気付けよ俺。


「ところで神崎。牛鍋が食べたい」


 話を突然変えられてしまい、思わず思考が止まってしまう。


「はぁ? 何で急に。しかも俺に言うな。どんな条件出されたって奢ってやらねぇからな」


 ただでさえ、弓削には報酬を払ったところなのだ。懐が寂しくって仕方がない。


「ふーん。神崎クンそういうこと言うんだー」


 不気味なクンづけに、あからさまに『何か企んでます』と言っている笑みを付けてきた。……思わず後ずさる。こんな顔をした弓削に何回騙されたり嵌められたりしてきたことか。


「実は……史香さんについて新しい情報手に入れちゃったんだよねー。しかも内容は…………聞きたい?」


「聞きたい」


 内容が内容だったので、思わず即座に肯定してしまう。


「好みのタイプについて」


 それを聞いたとたん、俺は帳簿代に突っ伏して呻き声を上げてしまった。聞きたい。すごく聞きたい。すごくすごく聞きたい! だけど……牛鍋二人分なんて金は逆立ちしても出てこない。


「……もうちょっと安いのにして?」


 癖で値段交渉に走ってしまう。が、


「やだ。僕も最近お金なくて、食生活偏ってたんだよね。たまには栄養価の高いものを食べたい。ほら、育ち盛りだし」


「俺だって育ち盛りだよ! しかもこの前金払ったろ? 今なら絶対お前のほうが金持ちだし」


「この際、どっちの方が金があるとかそんなことはどうでもいいんだよ。それより、情報聞きたいの? 聞きたくないの?」


 俺に値段交渉の極意を教えてくれたじいさんに訴えてみたい。


 あまりにもこちらが不利すぎて、値段交渉にならない場合はどうすればいいんでしたっけ? おまけに値段交渉の相手は絶対悪魔なんですが。と。





      「第二章 懐中時計に刻まれていたのは」了

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