第二章 懐中時計に刻まれていたのは(二)

 寝不足でげっそりしながら俺は大通りで人を避けて、弓削のうちに向かっている。一応生きていたことにほっとしたものの、これが毎晩続くんじゃあ身体がもたない。今までの時計の持ち主が売り飛ばしたのも良く分かる。


 弓削の家に行くには大通りを通らなくてはいけないのだが、精神的に疲れ果てているこの身では、人を避けるのも難しい。大体俺は人ごみを歩くのは苦手なのだ。風呂敷包み片手にぼけーっと歩いていたら、人力車にぶつかりそうになった。


「坊主、気をつけろ!」


 車夫が荒々しい言葉を投げたが、表情はさほど険しくない。しかし、


「坊主って……」


 ……そろそろ坊主と言われるのは避けたい年なのだが。


 大通りを外れて、脇道にそれると急に人通りが少なくなる。そこをまっすぐ歩いていったら、弓削の住む長屋が見えてきた。今日は史香さんはいないらしい。正直言うと、ちょっと残念。


「弓削、いるか?」


 戸を叩きながら呼びかけると、弓削はすぐに出てきた。今日は占いの仕事には行っていなかったらしい。


「あ、久しぶり。どうしたの? あがる?」


「うん。ちょっと頼みたいことがあってな。話し長くなるだろうから」


 中に入ると相変わらず部屋は汚かった。静物画の勉強をしていたらしく、畳の上に敷かれた布の上にビンやら毬などが置いてあり、その脇にはスケッチブックと鉛筆が転がっている。……案外上手い。


「で、何の用?」


 流石に俺が座る場所は作ってくれたが、お茶などを出す気はさらさらないらしくそのまま話に移る。


「この前みたらし団子十本で買うと約束した情報。そろそろ揃ってんだろ?」


「えー、まさかそのためだけに来たのー? やらしー」


 弓削は例の人の悪いニヤニヤ笑いと共に言ってくる。わざわざ『だけ』を強調しているのがまた性格が悪い。だが、他にこのことに関して頼れる人間がないので仕方がない。


 情報。それは弓削の住んでいる長屋の大家さんの娘である史香さんのことだ。いや、別にやましいことじゃないぞ。好きな子の基本的なことは知っておきたいって言うのは人情だろ?


「煩ぇ。他にも用事はあるけど、まずはそれから」


「んじゃあ、基本的なことから。更級史香さらしなふみか。誕生日は三月九日。よかったな。まだまだ先だからそれまでに自然に贈り物を渡せる間柄になってりゃいいねぇ。んで好きな色は桃色かな。食べ物は甘い物。友達と甘味所に行くことは多いらしいよ。あ、でも神崎って甘い物嫌いだっけ? うん。難点一つ目」


 ……頼んだは頼んだが、本当にこんなに情報を集めてくるとは思わなかった。


「で、現役女学生。今、一年生だって。なんと桜塚女学院の学生さんだ。おぉ! 神崎には高嶺の花かな?」


 いちいちコメントつけんでいい。だが奴のいうことにも一理ある。桜塚女学院と言えば、この辺の名門じゃあないか。ただの長屋の大家じゃあなかったのか?


「では当然の疑問に答えるべく僕が調査したところのよると、確かに史香さんのお母さんはここの長屋の一人娘で後を継いでるんだけど、お父さんは何と今をときめく貿易商。何とお金持ちのお嬢様だったのです」


「げっ」


 お嬢様だったとは予想外だった。一介の古道具屋の跡継ぎ(一応老舗らしいけど)にはちと荷が重い条件だ。第一、貿易商っつったら古道具屋の敵だし。新しけりゃいいってもんじゃねぇんだぞ。


「意気消沈するだろう神崎君のために、とっても親切な弓削君は更に調べて君に都合のよい情報を手に入れてきました。貿易商と大家さんは二十ウン年前に大恋愛の末、親戚の反対を押し切って結婚したそうで。そんな経歴だもんで娘に関しては自由恋愛主義だそうですよ」


 一人、心の中で万歳。弓削に見せるような愚は犯さなかったが、顔はにやけてしまったと思う。その証拠に、弓削は俺が喜んだ瞬間、抜群の呼吸で


「ただし、父親は娘を溺愛中。敵に回しちゃ駄目だよ?」


 とか、言ってきた。……やっぱりなかなか難しいかもしれない。


「ところで」


 喜んだり驚いたりしている間はそれほど気にならなかったのだが、一応気持ちのほうが一段落すると気になることが一つある。


「どうやってそんなに調べたんだ? まさか本人に直接尋ねたなんていわないだろうな?」


「いやいや、そんなことはしてないよ。ただ単に占いに来た史香さんの同級生たちに大半を尋ねて、あとは大家さんにちょこちょこっと。……同級生さん達の連絡先も付けようか?」


「……いらねぇ」


 要のところはまたもたらしこんだらしい。脱力してうなだれていると、


「遠慮しなくってもいいんだよー」


 と、弓削が目の前で連絡先を書いているであろう紙を振っていた。とりあえずその手を払い、気持ちと話題を切り替える。


「で、今日のもう一つの用件なんだけど……」


 俺は風呂敷袋から箱に入った懐中時計を取り出した。


 生きていたことにほっとしつつ、夢見心地で鏡を覗き込んでも首には何の痕も付いていなかった。あれだけ強い力で締められていれば何か残っていそうなものなのに。それで夢かとも思ったのだが、あの細く冷たい手の感触があまりにも生々しく思い出されたので、気になって弓削の所まで来たのであった。


 まずは蓋の模様をしげしげと眺めながら弓削が口を開いた。


「ふぅーん……確かに何か憑いてる気もするけど……綺麗な時計だね。菖蒲あやめかな」


花菖蒲はなしょうぶじゃないか?」


「神崎、違い分かるの?」


 思わず押し黙る。この年の男で花菖蒲と菖蒲あやめ杜若かきつばたの違いが分かる奴っているのか? いやどこかで見分け方を聞いた気がするぞ。どこで見分けるんだったか。


「神崎ったら古道具屋の跡取りとしてそんなことでいいんだ?」


 俺のことをからかいながら、弓削は鉛筆の墨がついたままの手で無造作に取り上げようとする。俺は思わず叫んで弓削の手を掴んで止めた。


「洗って来い」


「そんなに汚れてないよ?」


「いいから洗って来い」


 俺の強い語調に弓削は渋々手を洗いにいく。あー、心臓に悪い。


 手を洗ってきて改めて弓削は時計を手に取った。今度は先程とは違い、両手でそっと持ち上げる。どのような心境の変化があったかは分からない。


「説明」


「へ? ああ、はいはい。えーっとだな、近頃古道具屋や骨董店で流れてる噂があって……」


 与吉に噂を聞いたところから、じいさんがその時計を手に入れた経路を順を追って話していく。その間弓削はじっと懐中時計を見ていた。蓋を開けるでもなく、かといって外蓋の細工に見惚れているようにも見えない。強いて言うなら、その時計を見ることによって見えてくる、更に奥の物を見ているような目だった。この世の物に焦点を結んでいないように見える鳶色の目を見ていると、弓削がよくできた精巧な人形のようにも見えてくる。じっと動かず、呼吸すらしてないのではないだろうかと疑われるその姿に俺は思わず声をかけた。


「弓削、ちゃんと聞いてるか?」


 すると弓削は一拍の間の後こちらを向いてゆっくり瞬き、ようやく俺に焦点を合わせて微笑んだ。まるで、今までどこか遠くに行っていて、ようやく帰ってきたような表情だった。


「大丈夫、ちゃんと聞いてるよ。それより続きは? まさかそれで終わりじゃないだろ?」


「……うん。で、ここからが問題なんだけど、与吉の話通り丑三つ時に……」


 そうして話を幽霊の方に流していった。今の不自然な雰囲気を追求することはなく。


 話を聞き終えた弓削は二、三度一人で意味もなく頷く。


「うん、話は大まか分かった。現物もここにあることだし解決法も朧げながらも浮かんでいるよ」


 その言葉に俺はほっと安堵の溜息をつく。これで今晩は幽霊に首を絞められることはなさそうだ。だが、そんな俺とは反対に、弓削は珍しく無表情で話を続けた。


「ただね、実はそれよりも簡単な方法があるんだ。僕も何もしないわけだから……相談はされたけど、それだけで金は取らないし……タダで解決できる方法が」


「へぇ、そりゃ思いつかなかった。どうやんの?」


 金はかからない方がいいに決まってる。俺は軽い調子で聞いた。


「……他の店でもやってるだろ? 転売」


「……転売?」


 言われてみれば確かにそうだが、実際のところ、考えてもみなかった。『怪奇現象が起これば、とりあえず弓削のところの持ち込めばいい』と、考えていた。


「それ以上の噂が立っていないところを見ると、時計を手放しさえすれば幽霊は回避できるみたいだね。……どうする」


 金がかからないという点に関して言えば、すごく魅力的な提案だ。が、俺はほとんど考える時間もなく反対の答えを出していた。


「転売したくないから、お祓いしてくれ」


「……お金かからないよ」


 弓削は不思議そうな顔をしてみせる。


「しつこい。ヤダったらヤダ。大体別の骨董店に売るとなると、いくらうちのじいさんが交渉上手だって言っても、儲けは高が知れてるし、第一………幽霊の子はいつまでもこの時計と一緒にさまようことになっちまうだろ」


 古道具屋や骨董店を巡っている間に、弓削のような霊能力者に会える確立なんてないに等しいはずなのだ。だったら……ここで何とかしてあげないと、俺の枕元で泣いていた女の子はいつまでもまた別の人の枕元で泣くことになってしまう。


 俺の答えを聞いて弓削は苦笑した。


「まぁ……そう言うとは思ってたけど……神崎って本当に損な性格してるよねー」


「…………もしかして、からかってた?」


「もしかしなくてもからかってた。神崎って親切だからねー。こうなることは分かってたんだけど、どういう風に言うかなぁと」


 性格の悪いにやにや笑いを浮かべ、近くの卓袱台に頬杖をついて、こちらを見てくる。さっきの無表情も不思議そうな顔も演技だったらしい。とたん、真剣に理由を言ってしまったのが馬鹿馬鹿しく且つ恥ずかしく思えてきた。


「まあまあそう恥ずかしがらなくっても。美点なんだか」


「うるせー。人のこととやかく言う前に、まずはお前がそのねじり曲がりまくった性格を直しやがれ!」


 半ばやけくそ、半ば照れ隠しで俺は怒鳴った。



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