こぼれ話 うつろい、コーヒーフロート
暑さの盛りが過ぎた。
桜庭美月は、その日ふとそう感じた。
太陽の光はまだまだ強く照りつけている。
アスファルトは熱でゆらゆらしているし、湿気を含んだ空気は肌にまとわりつくように重苦しい。
それでも、夏の盛りは確かに過ぎ去った。
すっかり聞かなくなった蝉の声と、それとは反対に聞こえてくるようになった夜の虫の声。少しずつ見かけるようになってきた羊雲。短くなってきた昼間。
気づけば秋の気配がそこここに佇んでいる。
「どんどん一年が過ぎるのが早くなる」
桜庭は思わずぽつりとひとりごちていた。
社会人になってからは飛ぶように時間が過ぎるようになった気がする。
結婚を決めてからは特に早く感じた。それぞれの両親への挨拶や顔合わせ、式の手配の諸々に各種手続き。お互いの仕事の合間を縫って行っていたのもあって、目が回りそうなほどの忙しさだったからだ。
披露宴を終えたあとは引越しもあったし、二人暮らしという新しい環境に最近ようやく馴染んできたところだ。
ひと息をついたら、もう一年はとっくに半分が終わり、季節が変わろうとしている。
久しぶりのひとりで過ごす休日。
桜庭が足を向けたのは馴染みのまれぼし菓子店のカフェスペースだった。
座り心地のよい木の椅子に腰かけると、メニューを開く。
桜庭がここを訪れる時はいつも大体何を注文するか定まっていて、メニューが運ばれてくるのと同時に頼んでしまうことさえある。
しかし今日は、どうしてかなかなか定まらなかった。
首を傾げながらグラスの水を口に含んだところで、さきほどメニューを運んできてくれた星原と目が合う。
歩み寄ってきた星原が笑顔を向けてくれたので、少し困った顔で見つめると察してくれたらしい。
「珍しいですね。今日は色々と試してみたいご気分ですか?」
「なんだか決めきれなくて。こんなこともあるんですね……」
うんうんとうなずいたあとで、星原はまたにっこりと笑顔で桜庭に尋ねた。
「では、宜しければオススメをご用意いたしましょうか?」
オススメ。
そういえばまれぼし菓子店では、あえてたまにスタッフのオススメを頼むことがあると、桜庭を初めここに連れてきてくれた後輩も言っていた。
そういうのもありなのかと思った。
どこかふわふわとした気持ちの今日の自分には、ちょうど良いのかもしれない。
「じゃあお願いします。星原さんのオススメで」
「かしこまりました!」
任せろとばかりに返ってくる元気な答え。
その勇ましさと頼もしさに、思わず顔がほころんでしまう。
注文の用意をすべくカウンターに引っ込む星原を見送ると、桜庭は窓の外に目を移した。
早くも西日になった太陽光が、あちらこちらに長い影を作っている。
今年の夏の終わりと、いつかの――もっと幼かった頃の夏が重なる。
遠い記憶の中の風景を思い起こしていると、いつの間にかそれなりに時間が経っていたらしい。
気がつけば、星原が注文の品を今まさに運んでこようとしているところだった。
「お待たせいたしました! 〝苦くて甘い童心〟コーヒーフロートです。夏季限定なんですよ」
背の低い大きめのグラスに、たっぷりの氷と冷たいコーヒー。丸くくり抜かれた大きめのバニラアイスが乗せられ、そのてっぺんを鮮やかな緑のミントの葉が飾っている。
「ありがとうございます」
「どうぞごゆっくり! 夏の名残、楽しんでくださいね」
自分の前に置かれたコーヒーフロートと、長くて細い銀の匙、そしてストローとガムシロップ。
それらをまじまじと見つめながら、桜庭はまた首を傾げる。
(星原さんはどうして、今日の私にコーヒーフロートを選んでくれたのかしらね)
ともあれせっかく選んでもらったのだ。
アイスクリームと氷が溶けてしまう前に、しっかり味わうことにしよう。
桜庭はコーヒーフロートの水面にストローを差し込んだ。
うっかりグラスから溢れないように、まずはコーヒーを吸い上げる。
心地よい苦味が口の中に広がり、冷たさが身体に染み渡っていくのを感じる。
そうして下準備を終えたあとで、アイスクリームに取りかかる。
バニラの風味がしっかりと効いたアイスクリームは、苦味から濃厚な甘みへと口の中の雰囲気を一新していく。
コーヒーは大人の飲み物というイメージが強いのに、子どもも大好きなアイスクリームと合わせるとこんな風な一面を見せるのが、なんとなく意外で面白く感じられた。
(〝苦くて甘い童心〟か。なんだか、少しわかるかもしれない。その気持ち)
幼かったあの夏。
夏休みになれば、毎日が本当に楽しみで仕方なかった。ラジオ体操。友達とプールに行くのも良い。花火をしよう。スイカを食べよう。やりたいことは数え切れないほどあって、明日が来るのが待ち遠しい気持ちで眠りにつく。
大人になってからは、そんな感覚は忘れがちになってしまった。
でも――。
大人になって見えるようになった現実は、時に苦い思いを湧き上がらせるかもしれない。
それでも今の自分にだって、大切な人はいて、そんな人たちと過ごす時間はかけがえのないものだと感じている。
夏の終わりの夕日の中。
過ぎ去った夏の景色を思う。
子どもだった頃の自分は、今も胸の中でちゃんと生きている。
たくさんの思い出だって、決して色褪せない。
「お水、おつぎしますね」
「ありがとうございます。あの……コーヒーフロート、選んで下さって良かったです。きっと私は選ばなかったと思うから」
「またそんな気分の時はおっしゃって下さい。この星原が腕によりをかけてお似合いの品を選んでみせますから。あ、そうそう。コーヒーフロート、ガムシロップを入れても美味しいですよ」
「オススメに従ってみます、早速」
いつもは入れないガムシロップを入れたコーヒーフロートは、ほろ苦くて甘くて。
とても珍しい宝物を、そっと教えてもらえたような気持ちになった。
結局桜庭は、薄暮に差しかかる頃に家路に着くべくまれぼし菓子店を後にした。
肩にかけたカバンにそっと触れる。
せっかく文庫本を持ってきたものの、カバンに眠らせたままになってしまった。
でもその代わりに、今日はじっくりと思い出たちと向き合うことができた。
いつも通りに過ごしがちな自分の、いつも通りが少し崩れた先にあったのは、懐かしい自分とそれを構成していた大事なものたち。
だから、良いのかもしれない。たまには、こういう日があっても。
不意に吹きつけた風は思いのほか快く、秋の色を思ってはっとする。
残照、夏の名残。
今も、これからも、時は流れ続けていく。
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