こぼれ話 仲直りのクリームティ
その日の彼女は正しく不機嫌の塊だった。
怒気のただならぬこと甚だしくて、不穏なオーラが漂っている。出迎えた手嶌が珍しく驚くほどだった。
それでも手嶌はいつもの笑顔を崩さず、彼女を席へと案内する。
「いらっしゃいませ、奥様」
「ええ、ご機嫌よう、手嶌」
『奥様』。
彼女は、まれぼし菓子店の常連客のひとりだ。
欧州人らしく、彫りが深くて透き通るような白い肌に長く美しい髪の毛。整った姿かたちの妙齢の美女。
優雅な雰囲気の彼女は、普段その雰囲気に違わず淑女らしい立ち居振る舞いを忘れない。
そんな彼女が不機嫌を露にしているなどということがそうそうあるはずもなく。
幸いにしてその夜のお客はそう多くなかったが、彼女を知る常連客は少なからず動揺していたし、店の隅の妖精たちなどは怒りの気配に震え上がってしまい我先にと退散して行っていた。
なかなか影響力の大きい人なのだ。
とはいえ店の一スタッフとしては、立ち入らない方が良い個人の事情というものがある。
こういう時はそっとしておくのも大事なことだろう。
そう割り切ると、水のグラスとメニューを運んだ。
「そうね……温かいコーヒーをお願いしようかしら。まれぼしブレンドで」
メニューを閉じた奥様はため息まじりにそう言った。
注文を聞いた途端に、またしても首を傾げた手嶌である。
奥様は日頃は大の紅茶党。
まれぼし菓子店をもう長いこと利用してくれている彼女だが、実はコーヒーを頼んだことがない。手嶌が知る限り一度もなかった。
「かしこまりました」
素直に応じてメニューを下げようとしたところで、奥様はふっと口元を緩めた。
「あなたは何も聞かないのね、やっぱり」
「僕が伺っても宜しいことだったでしょうか?」
「ええ。今日はね、冷戦中なのよ。あの人と。だから紅茶を見ると腹が立つの、あの人の顔が浮かんできて」
苦笑気味に奥様が言うのを聞いて、なるほどと得心が行った。
あの人と言うのは、奥様のパートナーである『旦那様』のことだ。
手嶌の頭の中に浮かんだ旦那様もまた、相当の美丈夫である。彼はいつも仕立ての良い服に身を包んだ、いかにもシャレた感じのする英国紳士なのである。
旦那様と奥様は実にお似合いの夫婦だ。
二人は本当に仲睦まじくて、揃ってまれぼし菓子店にやってくることもしばしばだし、どちらかしか来店しない時も必ず連れ合いのために手土産を求めて帰る。
そんな二人でもどうやら喧嘩をすることがあるらしいと言うのだから――。
手嶌としてもまあ、彼らが大喧嘩をした有名な話を知ってはいるので、夫婦喧嘩がないわけではないだろうことは理解できる。
「それはなんとも、お珍しいですね」
ただ、実際目の当たりにすると意外極まりなかった。それで思わず率直な感想を述べたのだった。
奥様はそれを聞いて苦笑を返す。
「そもそも何が原因だったのかはもう忘れてしまったのよね。取るに足らないようなことがきっかけだったはずなのだけど……。この歳になっても、いったん意地を張ってしまうとなかなか引けなくなってしまうのだから」
「お気持ち、お察し申し上げますよ。些細なことだからこそ、なのかもしれませんね」
「そうね。こんなことで譲るのも癪に障るって思ってしまうのかもしれないわ」
微笑みながらの手嶌の言葉に、奥様の周りの空気がやっと少し緩んだ。
断ってメニューを下げ、コーヒーを淹れに戻ろうとしたところで、ふと店の扉が開く。
夏の夜の香り。
なんとなくそんな気はしていたが、開いた扉の向こうにはやはり旦那様が佇んでいた。
まだ熱のある夜気とともに、彼は店内に入ってくる。
奥様が背後ではっとする気配を感じながら、手嶌は普段通りに旦那様を迎えた。
「いらっしゃいませ、旦那様」
「ああ、良い夜だね。手嶌君」
旦那様は穏やかな笑みを浮かべ、静かに奥様の席まで歩み寄って行く。
彼を見つめる奥様の視線が少しきつくなったかならないかのうちに、すかさず旦那様は言った。
「私が悪かったよ、ティターニア」
「さあ、何が悪かったのか覚えていらっしゃるのかしら」
そんな奥様がわざと意地の悪い物言いをしているのは、誰の目にも明らかだったろう。
それでも旦那様はあくまでも穏やかだった。
「細かいことにこだわりすぎたんだ、私が。意地を張っていた。悪かったよ。……君と一緒にお茶を飲ませてもらっても構わないかい?」
「……お好きになさったら」
「ありがとう」
最初の一瞬だけ空気がひりついたが、旦那様が奥様に謝罪を述べてからは一気に柔らかなムードになった。
奥様の不機嫌は、どうやら無事に解決しそうだった。
手嶌ばかりか、遠巻きに見ていた常連客や妖精たちもほっと胸を撫で下ろしているように思える。
長年の付き合いと言えども、喧嘩をすることはある。
二人とも怒っているようでも、話の落としどころと仲直りのタイミングをはかっていたのかもしれない。
ささやかなティータイムが和解のきっかけなるのであれば、それは幸いなことだった。
「手嶌、メニューの変更はまだ大丈夫かしら」
「ええ。お待ちしておりました」
「お見通しなのね、何でも」
こんなこともあろうかと、まだコーヒーは淹れていなかった手嶌である。
奥様は旦那様と顔を見合わせると、改めて注文をし直した。
「ではクリームティを」
「二人分でお願いしよう」
クリームティと言うのは、紅茶とスコーンの組み合わせで供される。
ふっくらざっくりと焼けたスコーンを、たっぷりのクロテッドクリームといちごのジャム、そして香り高い熱々の紅茶とともに。
英国ではポピュラーなスタイルだ。
奥様と旦那様が夫婦で来店する時は、このメニューを選ぶことがほとんど。
だからこそ、仲直りの証も『いつもの』を選んだのかもしれない。
注文の品をテーブルに並べた手嶌は、ひと際親しみを込めて二人へと笑いかけた。
「どうぞごゆっくり。楽しいひと時をお過ごし下さい」
すると二人は顔を見合わせてから、笑顔を返した。
その顔は少し照れくさそうだった。
「ありがとう。ゆっくりさせてもらうよ」
「恥ずかしいところを見せてしまったわね」
それからの奥様と旦那様は時間が経つほどに自然に打ち解けて行き、皿の上のスコーンがなくなる頃にはすっかりいつも通りの仲の良い二人が戻ってきていた。
そして、まれぼし菓子店にも、やっとのんびりした空気が帰ってきた。
狂騒とはほど遠い、穏やかな晩。
こんな夏の夜も悪くないだろう。
やや空いてきた店内。手嶌は片付けものを進めながら、いたずらな妖精たちの相手をしてやる。
夜は更けていく。静かな夢のように。
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