こぼれ話 夜の闇と水ようかんと
今年の夏の試作にと、水ようかんを作ってみた。
甘みはどちらかというと控えめかもしれない。すっきりとした味わいで、暑くてもくどく感じずに食べられるようにとの工夫である。
静まり返った深夜の店内にひとり。
閉店作業をほとんど終えたあと、手隙の時間に作った水ようかんの味見をしてみた手嶌である。
悪くない出来にひとつうなずく。
明日の朝になって星原と木森がやってきたら、味を見てもらおうと思いながら冷蔵庫の蓋を閉めた。
そうしてバックヤードから店に顔を出した手嶌は、露骨に嫌そうな表情になった。
明かりをほとんど落とした店のカウンター席に、彼の天敵とも言うべき青年の姿をみとめたからだ。
「今日はもう店じまいですよ、ジン」
「客じゃなくて友達だから良いだろ?」
「余計に御免ですね。だいいち、友達ではなく腐れ縁というのです、あなたのようなもののことは」
「相変わらず可愛くないねえ」
お互い様ですと切り捨てる。
さあさっさと出て行ってくださいといよいよつれない気配をまとう手嶌を前に、あくまで悠然と構えていられるのはさすがジンというところだろうか。
のんきに足など組みかえながら、こうのたまう。
「あんこが食べたい。こしあんが良い」
「今日は閉店と言っておりますに」
「奥の銀の入れ物の中にだな、あんこの気配がするぞ」
「そういうところは目ざといのですから始末に負えない。仕方ない、少し待っていなさい」
千里眼をおやつ探しに使うな、と苦々しく思いながら、手嶌は冷蔵庫からさきほどしまったばかりの水ようかんを取り出してきてジンへと供した。
「そうそうこういうやつがね、良かったんだよ。やるね、叶芽ちゃんよ」
「試作品ですから、あげられるのはそれきりですよ。ゆっくり食べなさい」
「はいはい」
ジンの甘いもの好きは、特にあんこ好きは筋金入りのものだ。手嶌にとっては気も合わない上に苦々しく思うところの多いこの男だが、甘味好きというところにだけは可愛げを感じる。
今も大福を三つも四つも食べる男にはかなり物足りないであろう水ようかんを大事そうに食べている。
その姿は日頃横柄なくらいに態度の大きいジンとはかけ離れていて、どこか愛嬌すらある。
温かい煎茶を用意しながらその様子をやれやれと眺めていると、不意にジンが口を開いた。
「で? お前はいつまでそうやって人間どもに構っている気なんだ?」
「……唐突ですね」
ジンの話は大体彼の好きなように話題が選ばれる。野球に例えるならキャッチボールなんてものではなく、暴投もいいところなスタイルだが、今夜は特に脈絡がなかった。
あまりに突然すぎて、いつものように噛み付くゆとりもない。
動きを止めてしまった手嶌の手元から煎茶を勝手に奪っていきながら、ジンはしれっとした顔で続ける。
「この店にもこの店に関わる連中にも、ずいぶんと入れ込んでいるのがなあ。お前、人間には懲りたんじゃねえかと思ってたけど、そうでもなかったか」
「……これも何かのご縁なのでしょうから、と言ってもあなたは納得しなそうですね」
「自分でどうにでもできるお前が言うんじゃ、ねえ」
笑ったジンの眼が、薄明かりを弾いて妖しく光る。
「お前の物好きってやつはさ、人間に関わって一喜一憂して、酷い目にもあわされて? それでもまた関わってを繰り返して。そりゃあもう面白くて見ものだから、観客の身分としては一向に構わんのだが。いつまでやってんのかなあとは思ってね」
「つくづく無礼な男ですね」
氷のように冷たい手嶌の一瞥にも、ジンは軽く肩をすくめただけである。意に介さずに煎茶をすすっている。
「事実を並べてみただけだぜ。で、実際のところどうなのよ、叶芽」
のんきな風を装っていながらも、ジンの視線は鋭い。
手嶌はしばらく黙り込んだまま急須の蓋をなぞっていたが、やがて深く嘆息する。そして手を止め、口を開いた。
「さきほどの問いへの答えですが、いつまでか、それは僕にもわかりません。ただ、この店や皆さんとのご縁が続く限りは、僕はきっとここにいるでしょうね」
「少なくともその間は、俺の大福は安泰か」
「自分で聞いたくせに茶化さないでください」
「手厳しいねえ」
夜風が窓を軽く叩いて吹き抜けていく。
街路樹が揺れる音を聴きながら、手嶌は言葉をつぐ。
「……それに僕は片手間や遊びでこのまれぼし菓子店と、その周りの人々に関わっているわけではありませんよ」
「俺とは違って、か?」
愉快そうに笑い、ジンは立ち上がった。
悪かった悪かった、と手を振りながら手嶌に背を向ける。
「俺はお前のその真面目なところが好きだよ。いやあ、めちゃくちゃ怒ってんなー? からかい過ぎたか?」
「……僕は。あなたのそういうところがとても嫌いです」
「容赦ないねえ」
うまかったよ、また来るわ。そう言って笑い声を残しながら、ジンは闇に溶けるように姿を消した。
あとに広がるのは夜の闇。
今夜は月もないのだ。
雲が閉ざしている空のようにもやついた気持ちになりながら、手嶌は深く息を吐き、中断していた片付けの続きを始めた。
それでも――やがてこの気持ちすらも晴れることだろう。
朝が来れば。
自分が大切にしている人間たち。自分のことを大切に思ってくれる人間たち。
彼らのその笑顔を見れば、また。
夜の闇は静かに満ち満ちている。
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