第82話 マドレーヌをもういちど
春のぽかぽか陽気が気持ち良い、晴れの日。
空にはふんわり、おいしそうな白い雲がいくつも浮かんでいる。
わたしの足取りは自然と軽くなって、すいすいと目的地に向かう。誰も見ていなければスキップしそうなくらいだ。
なんといったって、今日のわたしの目的地は桜庭先輩の新居なのだから、テンションだって上がるというものだ。
桜庭先輩の結婚披露パーティーから早いものでもう数か月。
家族が増えればひとり暮らしの住まいからは当然引っ越さなければならない。
そんなわけで引っ越したファミリー向けの新居に、今回お呼ばれしたというわけだった。
前に先輩のおうちにお邪魔した時より更にドキドキしている気がする。
ドキドキもそうだけどワクワクもしている。
道案内の連絡を見ながら、わたしは自分の手元に目を落とした。今回も手土産はまれぼし印の紙袋。中身は……着いてからのお楽しみ!
時間どおりに着いたマンションは、以前の住まいより大きそうで、新しめで綺麗な感じだった。
先輩はといえば、マンションの前でわたしを待っていてくれたようだ。
「よく来てくれたわね。迷わなかった?」
「全然です! 先輩がくれた道順のメッセージが分かりやすかったおかげです!」
「お天気も良くて良かったわ。駅からちょっとだけ歩くから」
雑談をかわしながら、飾り気のないドアを開いてお邪魔する。
玄関先にはお花のアロマディフューザーが飾ってあり、良い匂いを漂わせている。
家具は見覚えのあるものもあれば、新しく増えたものもあるみたい。クラシックであたたかい雰囲気はそのままに、遊び心もプラスされてるという感じだ。たぶんそれは旦那さんの趣味なんだろう。
誰かと一緒に暮らすって、こういうことなんだなあ。
「先輩、これ、おみやげです。どうぞ!」
素敵なソファに座らせてもらう前に、わたしは先輩にまれぼし印の紙袋を差し出した。
「ありがとう。中は何かしら、楽しみ」
「ふふふ、とっても良いものですよ!」
「もったいぶるわね?うふふ」
ゆっくり丁寧に紙袋を開けた先輩の目が丸くなり、その後優しく笑み崩れる。
「……マドレーヌ。懐かしいわね」
「はい。〝二つの顔〟のマドレーヌ。一番はじめに先輩とお茶したときのお菓子です。まれぼし菓子店でお菓子を選んでいたら、つい食べてほしくなっちゃって」
「あの頃はお互い、少し緊張気味に話してたわね」
「そうですねえ! 今ではお恥ずかしいくらいリラックスさせてもらってますけど」
二人で貝の形をした焼き菓子を眺めながら、つい微笑みあってしまう。
仕事上がりに一緒にパフェを食べたり、試写会を見に行った後にチーズケーキを食べたり。おうちにお招きしたり、招いてもらったり。結婚披露パーティーにまで呼んでもらって。
そんな思い出の始まりがこのマドレーヌだと思うと、なんだか胸がいっぱいになるのだった。
「せっかく持ってきてくれたから、一緒に食べましょうね。今コーヒーを淹れるわ」
「ありがとうございます! あ、マドレーヌはいっぱいあるので、後で旦那さんとも一緒に召し上がってくださいね」
「ありがとう。喜ぶわ、あの人も甘いもの大好きだから」
そう言う桜庭先輩の横顔はとても嬉しそう。
大切な人が幸せそうなのって自分のことのように嬉しくなる。その気持ち、わたしにもわかる。
コーヒーの良い香りがリビングに漂い始めた。
少し経ってから、トレイを持った先輩がキッチンから戻ってくる。トレイの上には二人分のコーヒーと、お皿に乗せられたマドレーヌ。
お皿は鮮やかな青色が目を引くもので、貝殻の形のマドレーヌが乗っているとなんだか海みたいだ。
そんな感想を言うと、先輩も同じことを思っていたことがわかって、また話が弾む。
焼かれてから時間が経って落ち着いたマドレーヌは、さっくりと言うよりはしっとり。
香ばしさやバターの良い香りは残りつつも、焼きたてとは食感が違う。
卵の風味の効いた生地が口の中でじっくりと溶けていくようだ。
その
思わずため息が出そうになるほどなのだ。
「前は焼きたてのマドレーヌだったわね。あれもとても美味しかったけど、今日のマドレーヌも美味しいね」
「まさに二つの顔、って感じですよね。雰囲気が違ってても、どっちも良いです」
そういえば以前、『二つの顔』が桜庭先輩のことみたいだと思ったことがあったっけ。
今になってみれば、先輩の顔は全然二つだけでは足りないなあと思う。まあ当たり前といえば当たり前の話だ。
先輩としての、お茶飲み友達としての、誰かの家族としての、誰かの妻としての、もしかしたらそのうちお母さんとしての顔も追加されるかもしれない。
いろんな側面があるのだ。
そしてそれは先輩だけじゃない。誰しもにいろんな顔がある。
課長も、綾瀬さんも、まれぼし菓子店のみんなも、それにわたしだって。
「先輩」
コーヒーの水面を見ていた目線をあげると、先輩が少し不思議そうに首を傾げた。
「これからも……良かったら一緒にお茶してくださいね」
「どうしたの、改まって」
「えへへ……。希望をつたえてみました。突然だけどそう思ったので」
面食らったような顔をした先輩だったけど、その後小さく吹き出して、丁寧に一礼してくれた。
「もちろんよ。私の方こそよろしくね」
「よろしくお願いします!」
わたしも合わせてぺこりと一礼した。
わたしは先輩の全部の顔を知っているわけではないし、先輩もわたしの全部を知っているわけではない。
でもわたしはわたしの知っている先輩が大好きで。そんな先輩とこうしてたくさんの時間を過ごせたらいいなと、心の底から思ったのだ。できるだけで構わないから。
もしかしたら遠くに引っ越してしまうことがあるかもしれないし、事情が変わってこんな風にお茶をするのは難しくなってしまうかもしれない。
それでも――。だから――。
できる限りは今こうして過ごせる時間を大事にしたいと思ったのだった。
「今日はありがとうね。わざわざ電車乗り継いできてくれて。久しぶりにお茶できて楽しかったわ」
「わたしの方こそ! いっぱいお話できて楽しかったです!」
「また遊びに来てね。それにまた遊びにも行っていいかしら?」
「もちろんですよ、喜んで!」
夕暮れに名残を惜しみながら先輩の家を後にする。
見送ってくれる先輩に、時々振り返って手を振る。
やがて先輩が見えなくなってしまう頃には、青空は夕焼け空に変わり、丸い雲も家も人も……辺り一面がオレンジ色に染まっていた。
楽しかったな。でもいつまでも同じじゃないんだろうな。ただ、それでも……。
今一緒にいられる幸せと、見えない未来のことを考えたときのちょっとの寂しさ。
二つを抱えて、わたしは家路につく。
夕日が眩しくて。その朱色がやけに目に染みたのだった。
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