第83話 願いを見つめるほうじ茶

 小鳥のさえずり。名前もわからない鳥だけど、とても綺麗な声をしている。

 空は青い。雲がひとつ、ふたつ……ぽっかりと浮かんで。

 ――気がつけば、わたしは緑の中に立っていた。


 ぽつりぽつり、遠くに点在する家々。

 あぜ道をたどって歩いていくと、新しく植えられた稲が行儀よく並んで水面に頭を出しているのが見える。

 それが過ぎれば畑。これからぐんぐん育つだろう野菜の苗や、その支柱の姿。


 馴染みのある場所ではないのに、懐かしい気持ちになる場所。

 ここがどこなのかわからないはずなのに、何故かどこへ行くべきかはわかっているみたいに、わたしは歩き続けていた。


 土手をさらに進んでいき、目線をあげれば濃い緑をたたえた緩やかな山が見えてくる。

 不意に吹いた強い風。揺れる新緑の中に、古そうで立派な鳥居が佇んでいた。

 そして鳥居の前には一人、背の高い男の人の姿があった。黒い着流しを身につけて、目鼻立ちの整った極めつきの美青年。

 夜の闇よりずっと真っ黒な瞳が、わたしを映す。


「よう、ポチ公」

「ジンさん! どうしてここに……というかどうしてわたしはここに?」

「さあな、迷子か? ……なんてな。今日は俺が呼んだんだ」


 そう言うといつものように悪戯な表情をして笑う。

 ジンさんが「呼んだ」なんて言うのは初めて聞いたかも。大体わたしのことは迷子のポチ公呼ばわりだ。

 何か用でもあったのだろうか?

 そう思って彼を見つめていたが、答えは返ってこず、代わりに手を差し出された。と言ってもエスコートしてくれるわけではなく。


「その大福はもらっとくぜ。代わりに茶を振舞ってやろう」


 言われて見下ろしてみると、いつの間にかわたしの手元には大福の包みがある。

 ……あっ。これは、わたしが今日まれぼし菓子店で買ってきたいちご大福ではないか。

 おやつに夜食にと豪勢に食べる予定だったのに……。


 一瞬釈然としない気持ちになったけど、ジンさんがすごく嬉しそうなのでまあいいか……と気を取り直した。彼のあんこ好きは筋金入りなのだ。あんこ好きの仲間としては、勝手に親近感も抱いている。

 ジンさんにいちご大福の入った包みを渡すと、満足そうにうなずいて歩き出した。ついてこいという風に、歩調はゆっくりだ。


 鳥居をくぐり石段を登って、森の中へと入っていく。前に見たことのあるお社の裏手までついて行くと、日当たりの良い縁側がある。

 座布団が二つと火鉢が置いてあった。


「ま、そこ座ってちょいと待ってな」

「ええと、はい。お邪魔します」


 ふかふかの座布団にちょこんと座る。

 絵に描いたような、昔の日本の風景という感じだ。ぽかぽか陽気と火鉢のおかげでとても居心地が良い。

 ジンさんはいったん奥に引っ込んで行って、ほどなく戻ってきた。手には大きめのお盆があり、いちご大福を乗せた皿や急須と茶筒のほかに、なにか見慣れない形の陶器がある。なんだろう?

 ジンさんはわたしの視線の行先にすぐに気づいたらしい。


「そんなに珍しいか?」

「はい。これって何に使うものなんですか?」

「ああ、これは焙烙ほうろくって言ってな。茶葉をってほうじ茶にするための道具だな。煎ろうと思えば胡麻ごまや豆も煎ることができようが」

「初めて見ました。へえー。なんだか可愛いですね、まるっとしてて」

「そう言われればこいつも喜ぶわな」


 そう言ってつるりと焙烙をなでる。ひょいと火鉢のそばにあぐらをかいたジンさんは、少しの間焙烙を火で温めているようだった。

 それからおもむろに茶葉を入れ、慣れた様子で焙烙を揺すりながら煎っていく。見ている分には簡単そうに見えるけど、炭との距離のとり方なんかたぶん絶妙な加減なんだろうと思う。焙烙だけでなく火鉢にももちろん縁がないので、物珍しくて食い入るように眺めてしまった。

 茶葉が茶色くなってきて、あの甘く香ばしい良い香りが漂ってきたところで焙烙は火から下ろされる。

 かかった時間は十分に届かない程度だっただろうか。あっという間だった。


 そのほうじてくれた茶葉で、ジンさんはお茶を淹れてくれる。

 お湯を入れればふわっと湯気が上がり、香り立つほうじ茶。とてもいい匂いだ。

 青い唐草の模様の湯呑み茶碗に注いで、いちご大福とともにわたしの前に出してくれた。


「ほうじ茶だ。叶芽かなめみたいな気障ったらしい枕言葉はつけないがな。大福にはよく合うだろう」

「ありがとうございます! ジンさんも大福をどうぞ。結果的におもたせになってますが」


 おう、と返事をしてすぐさまひょいぱくりと大福を食べるジンさん、やっぱり大福好きなんだなあと微笑ましくなる。


 わたしはというと、まずはせっかくなのでジンさんが淹れてくれたほうじ茶からいただくことにする。

 湯呑みを持ち上げると、鼻先に漂う香ばしさがたまらない。熱々のところを慎重にすすれば、口の中に広がる優しい甘さ。

 焙じたばかりだからなのか、行程をよく見ていたからなのか、いつもより深く味わいを楽しめる気がする。

 これは美味しい!


 そして大福もいただく。甘さと酸味が良いコントラストになっている。柔らかくて、しっとりしていて……うーん、やっぱり絶品だ。この季節ならではの楽しみに思わず笑顔がこぼれそうになる。

 ほうじ茶と一緒にいただくと無限に食べられちゃう気がするくらいだ。


 しばらく美味しいお菓子とお茶に舌鼓を打っていたが、ふと最初に抱いた疑問が蘇って、わたしはジンさんにたずねた。


「ジンさん、今日はわたしに何かご用だったんですか?」

「いんや。久しぶりに大福が食べたくなったし、ちょうど良いと思ってな」


 あまりにもお気楽な答えが返ってきたものだから、わたしはコケた。拍子抜けしてしまった。

 わざわざこの不思議な場所に呼び出すんだから、もっとこう、大事な理由でもあると思うじゃないか。


「年が明けてからついこの頃まで忙しかったからな。さすがの俺でも、息抜きのひとつもしたくなる」

「繁忙期、あるんですねえ……」

「ある。特に年明けなんかは酷いもんだ、人が山のように押しかけてくるからな」


 神社の前に押しかけてくる人波のことを想像してみる。

 初詣の参拝客のこと……だろうか? 春先の入学試験の合格祈願とかもあるかもしれない。確かに願いごとには事欠かないシーズンだと思う。

 まあ、とほうじ茶の湯呑みを置いて、ジンさんは続ける。


「願掛けみたいなことをするのは、いかにも人間らしい動きだと思うぜ。人には大なり小なり願いがあるもんだから。老若男女問わず、必ずな。願いはちっぽけな人間が生きる支えになる。だからこそ神にでも仏にでも祈りたくなることはあるんだろう。そしてそれは叶う時もあれば、叶わん時もある」


 ジンさんの言葉はなんだか深かった。人間と大きな隔たりを持っているようでいて、どこか優しい眼差しも感じるのだ。でも酷く冷たい雰囲気を感じることもある。不思議だった。

 とてもとても長生きな、仙人か賢者か……そんな人の話を聞いているような気持ちになった。


 願いは叶う時もあるし、叶わない時もある。その言葉を反芻はんすうする。

 ――わたしの『願い』は叶った。

 偶然だったのだろうか。それとも……。結局頼りはしなかったが、前にジンさんが言ってくれたように、本当に叶えてくれたのだろうか。……まさかとは思うけど、これまで起きた不思議なことを考えると有り得てしまう気がする。


「叶ったんだろう、願いは」

「ひゃっ!? は、はい、まあ……」

「さっきも言ったが、叶うこともあれば叶わんこともある。それでいいじゃねえか。せいぜい幸運と思って、感謝しておけばいいのさ」


 わたしの心を読んだように言い当て、ジンさんはカラカラと笑っている。

 幸運と思って、か。彼の気まぐれで、もしくはオマケで叶えてくれたのかもしれない。

 たずねてみてもきっと、はぐらかされてしまうだろうけど。


「それで。一難去ったお前の、新しい願いはなんだ?」


 空になった湯呑みの縁をなでながら、ジンさんがたずねてきた。面白い出し物が始まるのを楽しみにしているような、そんな顔をしている。

 この人のこういうところが、いい性格なんだなあ……とちょっと呆れながら、わたしは考える。


 わたしの新しい願い。

 確かにあの時は、みんなと離れたくないという気持ちがいっぱいで、それが強い願いだったと思う。

 今は……。

 少しだけ残したほうじ茶の水面が、ゆらゆらしている。


『せっかく出会えたみんなとのご縁が素敵なものになりますように』。


 強いて形にするのなら、そんな風に表すのが適当だろうか。

 一度しか訪れない色んな時間を、大切に過ごしていきたいのだ。素敵な人たちと一緒に。

 ……わたしはちゃんと願いを持っているけど、からかうような顔でのぞきこんでくるジンさんにはひと言、こう答えた。


「『秘密』です! ジンさんにはないしょ!」

 ジンさんは一瞬意表をつかれて、まばたきを二、三度。

 その後ニヤニヤ笑いになって、わたしの髪の毛をめちゃくちゃにかきまわしてきた。


「なんだぁ? 生意気を言うねえ、ポチ公のくせに」

「ポチ公じゃないですってば。……この願いは、ちゃんと自分で叶えます、わたし」


 真面目に答えるとジンさんはすうっと笑顔を消した。

 笑みが消え黙っていると、あまりに整った彼の顔は人間離れしていて、少しだけ怖くなる。神聖な深淵の縁に立っているみたいな気分にさせられるのだ。

 そして何もかも見透かしてしまうような目は、手嶌さんを思い出させた。

 一瞬にも長時間にも思える沈黙の後で、ジンさんはまた笑って言った。


「面白い奴。だがこれがあればこそ、向こうに顔を出すのはやめられん。こちらに連れてきてもいいが、恨む奴があまりに多そうだからなあ。……ま、これからも面白くあれよ、ポチ公」

「へっ? はっ、はい!」


 ちょっと怖いことを言われたような気がするが、考えすぎだろうか。

 とはいえ、あとは難しい話をすることもなく、気楽なおしゃべりとお茶を楽しんで時間が過ぎて行った。

 そして最後には立ち上がった背中をトンと押されて、気づけばわたしは自分の部屋でぼんやり椅子にかけていた。日はとっぷり暮れていて、電気もついていない部屋は真っ暗だった。

 いちご大福はもちろんちゃんと消えている。


「いい人なんだか、悪い人なんだか……」

 不思議な人……人といっていいかもわからないが、不思議な存在だ、ジンさん。

 親しみがあって、面白くて、頼もしい。……頼りすぎたら絶対にいけない気がするけど。

 これからも彼に会うことはあるんだろうか?

 いやきっと会える。そんな気がする。


 明日の朝になったら、ほうじ茶を飲もう。

 そして新しい一日を、普通の毎日を大事にまた一歩一歩進んでいこう。

 不意にわたし以外誰もいない部屋にほうじ茶の香りが漂った。

 さっきまで目に映っていた鮮やかな緑と、お茶の清々しい甘みが蘇る。

 明日も平凡だろうけどそんなに悪い日にもならないはず。不思議とそう信じられる。

 窓を開けてみれば、春の柔らかくて穏やかな空気。

 夜は、更けていく。

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