番外 長い一日とクロワッサン
一日の始まりはとびきり早い起床だ。薄暗いうちから起き出して、菓子作りを始めるからだ。
昔は朝は弱かったが、菓子職人になってからというもの、すっかりこの生活に慣れてしまった。
手早く身支度を整えると、早速店におりていくのが決まりである。
木森は今、まれぼし菓子店の店舗の二階に住み込んでいる。
仕事柄、朝早いし、夜も遅くまで試作をしていることが多いからだ。
通勤時間ゼロ、というのは、体力には自信がある彼にしてもかなり嬉しいことなのである。
トントントン、と階段をおりていくと、もうすでに明かりのついている一階から声がかかる。
「おはようございます、木森さん」
「……おはよ、手嶌」
朝からニコニコと上機嫌そうなのは同僚の手嶌。
手嶌もこのまれぼし菓子店に住んでいる、和菓子づくりの職人なのだが……。
手嶌は謎の多い男だ、と木森は思っている。
というのも、木森は手嶌が自分より遅く起きてくるところを見たことがないのだ。同じように、自分より早く寝ている様子もない。
それだけでなく、手嶌の仕事は早い上に質が高い。和菓子職人といったが、それだけでなく洋菓子すら難なく作り上げてしまうところがあるのだ。
……まるで魔法でも使っているよう、というとありきたりの表現になってしまうが、店のオープンからの付き合いにも関わらず、この男に関しての謎は日々深まるばかりなのである。
「どうしました?」
「……いや」
「?変な木森さんですね」
「変なのはお前の方だと思うけどな……」
「唐突ですね。それは良いことにしましょう。今日のその感じだと、特別メニューを作るんでしょう?何にするんですか」
だから、なぜそのつもりということが分かるんだ。という言葉を飲み込んで、腕組みをしてエプロンを身につける。
特別メニュー。
たまに数を限って店に出すメニューのことだ。
この店では採算が取りにくかったり、定番化はしにくい、季節のものでもない……ただ作りたい、というものを特別メニューにして出すことがある。
「……クロワッサン」
「昨日は確かに見事な三日月でしたね。“まれぼしの三日月”クロワッサン。素敵じゃありませんか」
「……まあな」
夕べの三日月の美しさで、パンを思い出すのは、ロマンチストなのか食いしん坊なのか微妙なところだなと木森は苦笑する。手嶌の手にかかれば、一気に風情のある枕詞がついてしまうが。
朝、これも同僚の星原がやってくる頃には、こんがりとしたクロワッサンが焼きあがっている。
バターをたっぷり使った生地のクロワッサンは、皮はさっくりパリッと、中身はふわっと仕上がって、我ながら良い出来だ。
バターの香りの良さというのも際立っている。この香りが食欲をそそってくれるだけに、やはり良いものを使わなくてはならない、と職人としては思うのだ。
毎朝の日課の、三人での朝食にも、今日はクロワッサンだ。星原のいれてくれたコーヒーで食べる。
「んん、おいしい!これで原価さえなんとかクリアできれば定番にしたいのよね」
「そこが一番の問題ですね、クロワッサンは」
「バターがどうしてもな……」
バターを極めつけに大量に使うクロワッサンは、なかなか店に優しいとは言いにくいパンなのだ。
だからこそ贅沢な食べ物とも言えるし、特別メニューになっているとも言える。
キビキビと仕事をこなしつつ、昼。
手嶌に呼ばれて店の方に顔を出すと、なんと姉が来ていた。木森には姉がいる。それも、彼とはだいぶ、性格が違う……あまりにもタイプが違いすぎて、大人になってからは避けがちなのだ。
きゃあきゃあと騒がしい姉に、クロワッサンを供すると更にかしましくなって、でも喜んでくれているようだった。喜んでもらって悪い気はしない。
その後、急に忙しくなって、三人全員でホールに出ることになった。客あたりの良い他のふたりと違い、木森はできれば厨房から出てきたくないのだが、小さな店ではそうもいかない。
忙しく接客をしているうちに、ケーキはもちろんクロワッサンもどんどん姿を消していく。なんだかんだ売れ行き上々なようで嬉しい。
忙しい昼間をすぎて、夕方。
常連のあいつがやってくる。
とびきり美味しそうになんでも食べる、なんともわかりやすい客。人見知りの木森だが、彼女とはずいぶん馴染んできた。
「木森さん!珍しいですね、お店に出ていて。今日のおすすめは……もしかしてクロワッサンですか?」
「……まあな」
「じゃあ、わたし今日はクロワッサンとカフェオレをお願いします!」
彼女には、不思議と今日のおすすめをわかってくれるとか、悩んでいる時に寄り添ってくれるとか、そういう面がある。優しいいぬみたいなやつだな、と木森は最近思うようになった。
クロワッサンを大喜びで(表情がまたわかりやすいのだ)食べた後に、カフェオレを飲んで、ご満悦というふうだった。
「ごちそうさまでした!また木森さんのクロワッサン食べたいですね」
「タイミングがあえばな」
「ますますまれぼしに通わなきゃいけませんね!」
何ともくすぐったい気持ちにさせられながら。
小さく告げたありがとう、は聞こえたかどうかわからない。
夜。閉店準備をして窓の外を見たら、細い三日月が光っていた。
まれぼしの三日月。
クロワッサンはきれいに売り切れていた。
長いようで短い一日の終わりが近づいている。
あの笑顔がふと、思い出された。
「……よし」
「仕込みですか?」
気づくとまた、手嶌が立っている。
無言で頷くと、では、と手嶌も隣の作業台に立つ。
「華がなくて申し訳ないですけど、今日は私もおともしましょうかね」
「……誰のことを言ってるんだ」
「そろそろ残暑も落ち着いてきましたね。秋の新作はどうしましょうか」
「まったく……」
心の中を読まれたようでドキリとしながら、次の瞬間にはもう作業に集中している。
木森の長い一日は、もう少し続くのだった。
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