番外 たそがれの水だしコーヒー
星原音子のたそがれ時は、忙しい。
この時間帯は、帰宅ついでに来店する客が多い時間なのだ。
少し遅めの喫茶を楽しむ客もあって、大体まれぼし菓子店は賑わっている。
同じような混み方をする店で働いたことはあるし、その手の混雑はむしろ歓迎するほうだ。
店内にはコーヒーの良い香りが満ち、控えめに談笑する人々の声がBGMとなっている。そういう風景は気持ちの良いものだと思う。
ただ、この店はそれだけではないのである。
不意に、すーっと、店内の温度が少しだけ下がった気がする。
射し込む夕日と共に、長く伸びる影。
顔は逆光でよく見えない。
ただ何となく、「違う」。そのことだけが肌を通してしっかり伝わってくる。
星原は霊感なんていうものはないほうだ。
それでもわかる、そんな特別な客がやってくることがままある。
「いらっしゃいませ」
そんな時に決まってはじめに声をかけるのが手嶌だ。忙しくしている時でも、後ろに目でもついているかのように、すっとやってきては客を案内する。
手嶌の案内もあるからなのか、こうした「不思議な来訪者」たちが店に迷惑をかけることはほとんどない。
むしろ、好きなものを好きなだけ買っていくし、楽しんでいてくれる様子は人間のそれよりはっきりしているようだ。
「話が通じる方もそうでない方もいますが、大体はご要望をお持ちになっていて、それに応えればよいのです」
「って、簡単に言うけどねえ」
「あなたも出来ているじゃないですか」
手嶌のように超然とはいかない。
星原は少しの恐れと、奇妙な親近感をもって彼らを迎えている。自分なりの出迎え方だと思う。
さて、忙しい時間だが、自分たちも息抜きはしていかなければならない。
となれば、やはり飲み物だが、コーヒーをドリップしている暇はもちろんない。お茶も悪くないが、こんな時の星原の選択は、やっぱりコーヒーなのだ。
水だしコーヒー。
ゆっくりと時間をかけて水から抽出したコーヒーは、普通のものよりか、柔らかく優しい味である。
それでいて風味を失ったりはしない。
のどを通る感覚はなめらかで、舌には優しい織り布のようなコーヒーの感触が残るのである。
このコーヒーのバランスには苦心して来たが、ここ最近になってようやく満足の行くものが出来てきたと思う。
新しいグラスにたっぷり入れて、時折木森や手嶌のところに持っていく。
するといつの間にか彼らのグラスも空になっていて。
なんだかんだ忙しく立ち回っている時にはみんな、この柔らかい優しさが必要なのかもしれない。
一瞬、客足がとだえる。
扉のステンドグラス越しに射す、たそがれ時の曖昧な光を反射して、グラスの中のコーヒーが不思議な色に染まって見える。
それは何か、違う世界の飲み物のようにも見えた。
「星原さん」
「? なに? 手嶌」
「水だし、美味しいですね。元気が出ます」
「改めて言われると照れるわね。何よりよ」
とても尊いものを頂くようにグラスを包んで、伏し目がちで笑った手嶌の笑顔が印象的だった。
それはもう、柄にもなくドキリとしてしまうくらいに。
手嶌も別の世界に生きている人間……者なのではないかと、時折星原は思いもする。誰にも伝えたことはないけれど。
「おーいおかわり」
「あいさっ」
ひょっこり顔を出した木森の声。こちらは悩みもすれば迷いもする、現実にどっしり足を下ろしている若者の声だ。
やがて喧騒が戻ってくる予感がする。
またたっぷりの水だしコーヒーを補充すると、三人はバラバラに仕事に向き合うのだった。
キラキラと、グラスが、夕日が輝いている。
太陽の欠片を飲み込んだように。
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