第61話 弾ける気持ちのソーダ水

 今日は、なんとなく気持ちが重かった。

 何があった訳でもない。むしろできるようになったことを先輩に褒められたり、部長にさえもこれから楽しみだと言われたくらい。会社では良いことばかりともいえる出来だった。


 でもなんでか、会社から一歩出て、冬の名残の冷たい風に取り巻かれたら、急に元気がしぼんでしまった。

 寒さにぶるっと震えが来る。ふと思い出して、前に雪の日に貰った可愛い手袋を身につけた。

 それでなんとか完全にしぼみきってしまわないまま、やや猫背くらいでまれぼし菓子店にたどり着いたのだった。


 もう体まで重い感じになっていた。

 気のせいだとは思うのだけれど、ずっしり何かが覆い被さるような感覚で。

 だからまれぼし菓子店のランタンの明かりが見えた時には、心底ほっとした。


「いらっしゃいませ」

 メニューを持ってきてくれた手嶌さんが、優しい顔になる。わたしの手袋をみとめたのだ。

「それはあの時の手袋ですね」

「はい。今日、また冬みたいに寒かったから。今年の冬、本当に重宝してました。優しく包まれてるみたいで」

「ええ。冬の間はお守りみたいなものだと思いますよ。本当に」


 わたしもそう思っていた。心にすきま風が吹きそうな時も、この手袋をみたらなんとなく元気が出てきたから。

 まれぼし菓子店に関わる人に貰ったものって、なんだか不思議な効果を持っている。


「今日は……そうですね。ちょっと失礼します」

 そう言うと、手嶌さんはトントンとわたしの肩を軽く払うようにした。

「あれ……ゴミでもついてました?」

「ええ。この季節によく出るんです。ふと、人の心の隙間に入ろうとしてね。でも、もう大丈夫ですよ」

「ええ?」


 話の成り行きをつかめないのも、もう恒例行事になってきた気がする。

 わたしにできるのはと言えば、軽くなった肩と微笑する手嶌さんを交互に見ることくらいだ。


「さて、今日は何に致しましょうか」


 そしてそういう時の手嶌さんは、概ね素知らぬ顔を決め込むのだ。これもお決まりのパターン。

 だからわたしもあんまり深く聞かないし、それで良い気がしている。


 メニューをめくるうち、普段はあまり頼まないものが目に付いた。


「ソーダ水」

「おや、珍しいですね」

「懐かしい書き方だなあと思って」

「ええ。ちょっと郷愁を惹かれるでしょう……とお若い方に言うのも変でしょうか。青リンゴのものでよろしいですか?」


 手嶌さんも十分若いですよと思いながら、わたしはうなずく。

 冬が戻ってきたような寒い日にソーダというのも、我ながらどうかとは思うのだが、気分はすっかり弾ける泡に向かっていた。


 小菓子とともに運ばれてきた青リンゴのソーダ水は、レトロなグラスに満たされていた。グラスの中ではシュワシュワと音を立てて、ゆっくり泡が立ち上っている。


 わたしはそれにストローをさして、一口すする。ピリッと口の中を刺激する強めの炭酸。割と、淡白な……本来の甘さよりも控えめな甘み。

 なんか、しゃっきりする。

 子供の頃の夏の風景を、思い出す。

 あの頃は炭酸が実は得意じゃなかったんだけれど、たまーに特別にもらえる青リンゴソーダだというのと、年上の子の仲間入りをしたくって、ちょっと意地になって飲んだのだ。

 今思うと、笑えちゃう話だ。


 スーッと炭酸がのどへと胃へと下っていけば、気分は逆にスーッとあがっていく。

 わたしはしばらく、無心に泡を眺めたり、他愛ない思い出にひたったりした。



 まれぼし菓子店を出る頃には肩の重さのことなんてすっかり記憶の外に飛んでいたけど、ひとつ思いついたことがあって、わたしはもう一軒寄り道した。

 帰りにドラッグストアによって、懐かしの入浴剤を買ったのだ。

 シュワシュワ泡が出るものだ。お風呂にぼちゃんと放り込んで、週末の夜を楽しもう。ソーダ気分というわけだ。


 北風ももうやんで、薄ら月が見えている。

 わたしは手袋を大事にたたんで、いつものカバンにしまった。

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