第43話 一歩一歩、シュトレン
会社で仕事のミスをした。
それも結構大きなミスで、わたしのミスの穴埋めに色んな人が……先輩も、課長まで奔走させてしまった。
そんなミスをしたのが信じられなくて、どうしていいのかわからなくなって、……。
とにかく謝った。そしてやれることは全部やったと思う。
でも、堪えた。
一番心に来たのは、いつも小言がうるさく神経質な課長でさえも、怒ったりすることなく、ただ「以降は気をつけるんだぞ」と一言を述べただけだったことかもしれない。
桜庭先輩も、わたしを責めたりしなかった。
だけどわたしは、色んな人に迷惑をかけてしまったのが事実で。
本当にいたたまれなかった……。
少しは社員として成長したつもりでいたのに、これではまるで新入社員と変わらないではないか。
情けなくなさに背中も丸くなるし、おもわず涙が出そうだ。
でもそんな騒動があったこんな日でも、周りのみんなのおかげで定時退社できたのだった。
すっかり真っ暗になった外は、冬至も近いからか酷く寂しい雰囲気に思える。今日ばかりは、クリスマスの華やかなイルミネーションも空々しく目の上を滑っていくだけだ。
風は強く、手袋も忘れた今日は、指先が凍える。耳もピリピリと冷たくなって、頭が痛くなりそう。
住宅街の家々の窓から漏れる暖かなあかり。なんだか羨ましかった。
なにもかも悪い方向に考えてしまいそうだった。
……今日はまれぼし菓子店に寄ろう。一人の家にこのまま帰る気にはなれなかった。
「いらっしゃいませ!」
今日も元気よく出迎えてくれた星原さんが、直後にぎょっとした顔をしたような気がする。わたしはのろのろと顔を上げた。
彼女を見つめると、
「あらあら、まあまあ、……ひとまず席にどうぞ。メニューは……」
わたしがこたえる前に、
「おまかせで大丈夫かな?」
大丈夫ですとうなずく。星原さんは席にかけた私にすぐにひざ掛けを持ってきてくれ、やがて温かい紅茶を運んできてくれる。
ふうふうと吹いてから一口すする。やっとひと心地着いた気がした。
そのあとでお皿に乗せた何かを持ってきてくれたのだが、それは見慣れないものだった。
「これは……パンですか?」
切られたパンのようなものが、その断面を見せている。
一番外側は、粉砂糖がまぶされている。中には木の実や、オレンジピール、それにレーズンなど色んなものが入っていて、具だくさんの甘そうなパン……に見える。
「〝一歩一歩〟シュトレンです」
「シュトレン」
「ドイツ語で、坑道って意味なんですって。まずは、どうぞ」
勧められて、もすっと口に運んでみる。
まず優しくとろける粉砂糖の甘み。
予想していた通り、パン自体が甘いのだけれど、甘さがフルーティで快い。そして段々とそのフルーティさの源になっているであろう、オレンジピールやレーズンなどが次々に顔を出してくる。噛み締めると歯ごたえと共に濃厚なドライフルーツの風味が口に広がる。
かと思えば、一緒に入っているナッツ類の歯ごたえと香ばしさが姿を見せる。そんなに大きくないサイズなのに、中にはたくさんのものがぎゅっと詰まって、凝縮された美味しさ。
「シュトレンは、クリスマス前のアドベントの期間に少しずつ食べていくのが、ドイツの習慣なんですって。お出ししたのも、一塊のシュトレンのうちの一部なんですよ。ほら」
と言って、もっと大きなシュトレンの本体……というべきものを、見せてくれる。
確かにこれは一度に食べるべきものじゃなくて、ちょっとずつ食べていくのが相応しいだろう。
「少しずつたべ進んでく様子が、坑道を一歩一歩進んでいくみたいだからって。この呼び名にしたんだって、手嶌が言ってたわ」
そうしてにっこりと笑うのだった。
「それじゃあ、ごゆっくり。しっかり温まっていってね」
彼女はあとは何も言わなかった。
課長も先輩も彼女も今日は何も言わない。わたしを怒ることも慰めることもなく……。
でもなんだかそれがありがたかったことに今気づいた。
失敗して。手伝ってもらって、助けて貰って。最低限のアドバイスだけもらって。わたしはここから……反省してよく考えて、自分でやり直すのが大事なんだろう、きっと。
たぶん、そういうこと。ううん、そうに違いない。
失敗に落ち込んで、考えるのをやめてしまうのが、一番良くない。
「……よし!」
自分に気合を入れてから、ミルクをたっぷり入れた紅茶を飲む。体はほかほかになった。
お皿の上のシュトレンを見つめる。
手嶌さん、相変わらず人を見透かすようなネーミングをしている。
シュトレンを作ってくれただろう木森さんの腕は確かで。
このタイミングで出してくれた星原さんの優しさにもにっこりする。
……色んな人の優しさの上に、わたしは立っている。
ミスのフォローをしてくれたみんなも含めてだ。
外の風は冷たそうだけれど、帰るまでに十分体を温めて、北風に負けずに歩いていこう。
「一歩一歩……うん」
目じりに溜まった水の玉を服の袖でぬぐう。
残りのシュトレンを食べながら見た窓の外は、いつの間にか月明かり。
風が雲を吹き飛ばしていったようだった。
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