第40話 おうちでマフィン

 部屋の上の方のほこり、よーし。部屋の床の掃除、よーし。玄関も、よーし。家具の掃除、よーし。トイレ掃除も、よーし。今日の掃除はずぼらなわたしにしては完璧に近い方だと思う。

 そして持っている中でも可愛い食器をテーブルに。クッションをソファに出して、洗いたてのカバーをかける。

 好きなお香も焚いておく。匂いはあんまり強すぎない、優しくリラックスできるような香りのものだ。

 開いたカーテンからは明るい青空が見える。燦々さんさんと陽の光が差し込んでいる。


「うん、いい日!」

 わたしは独りごちた。

 今日のわたしの部屋、ささやかだけどいつもより気合を入れてリラックスルームとして作っている。気合を入れてリラックスっていうのも、変な話な気もするけど、それは良いとして。


 スマホを見ると、もうすぐ着くという連絡が数分前に入っていた。

 電気ポットのスイッチを押してお湯を沸かしておく。そして冷蔵庫をのぞいて、あれの存在を確認しておく。まれぼし印の箱を見ると、自然と笑顔になってしまう。


 誰が家に来るのか?

 彼氏かって? いや、そんな人はいません、相変わらず。悲しいことなのかどうなのかはまあおいといて。


 これから家にやってくるのは、桜庭先輩だ。

 まさか会社の人を休日に家にお招きすることになろうとは……。入社したばかりの頃のわたしには全く想像だにしなかった出来事だったと思う。

 桜庭先輩とそれほど仲良くなるということも、むしろ苦手だった当初は全く考えられなかった。

 思えば、不思議なことだ。それもこれも、まれぼし菓子店とおいしいお菓子のおかげ。思い返すと、なんだか感慨深くなる。


 一人で腕組みをしてセンチメンタルになっていると、玄関のチャイムが鳴った。インターフォンの画面に映し出されているのは先輩の姿。


「こんにちは、先輩!」

「こんにちは。今日はお邪魔するわね。お招きありがとう。これ、お土産」

 と彼女が渡してくれた手土産は、まれぼし印の紙袋。中にはお茶の缶が入っていた。

「ちょうどいいです!今日のおやつも、まれぼし菓子店のお菓子なんですよ!」

「あら、ホント?それはよかった」

 笑顔になる先輩。


 今日はたまにうちでお茶会をしようと、先輩に思い切って声をかけてみたのだった。

 今の会社に就職して引っ越してから、友達とも結構離れてしまった。久しぶりに家に誰かをお招きしたくなったのだ。

 桜庭先輩には迷惑な話だろうか……とちょっと悩みもしたのだけれど、彼女は快諾してくれて、むしろ恐縮しているようだった。


 桜庭先輩が持ってきてくれたお茶は、まれぼし菓子店のオリジナルブレンドティの一種。アフターヌーンブレンドだそうで、ちょうど時間帯的にもこのお茶会に相応しい感じ。さすがは先輩だ。


 先輩をソファの特等席に案内して……。

 わたしはと言うと、お茶を淹れ、冷蔵庫からあれを取り出す。

 あれ……まれぼし菓子店特製、〝朝も昼も夜も〟のマフィンだ。その名前の通り、どんな時間帯に食べても楽しめるよと星原さんのお墨付きである。

 食べる前に少しレンジで温めるとさらに美味しいと教えてもらったので、そのようにする。


「お待たせしましたー、先輩!」

「悪いわね、全部任せ切りで」

「今日はわたしがホストですから!おもたせですみませんが……」

 まず紅茶をお出しする。わたしにしてはなかなか頑張って買ったティーカップとポット。お花の柄のカップにお茶を注ぐと、ふわりと湯気が上がる。


 そしてマフィン。お皿の上にひとつ、てーん、とのせている。

「これは……まれぼし菓子店のマフィン?

初めて食べるわ」

「えへへ……わたしも初めてです。楽しみにしてました」

 では、と2人で顔を見合わせて、いただきますをする。


 まれぼし菓子店のマフィン、まず香るのは最高においしそうなバターの香り。

 口に入れるとほんわりと温かみがあって、しっかり存在を感じさせながら、同時に軽やかな空気を含んでいる感じがある。これが、温めた効果なのかと思った。

 冷たいのはきっともっと、しっとりしているのだろう。それはそれで美味しそうだけど、温めたものはできたてみたいな美味しさが楽しめて素敵だ。


 生地の美味しさに目を細めながら、てっぺんにトッピングされたアーモンドスライスにも噛み付く。香ばしさがさらに高まり、わたしの心の盛り上がりも最高潮になる。

 口の中でほろほろと溶けていきそうな、柔らかで美味しい生地。

 わたしもマフィンは作ったことがあるけど、単純だからこそ差がつくんだなあと思う。

 マフィン型の紙に残った部分までもったいなくなるような、そんな美味しさ。

 そしてこの手のお菓子の典型として、これがまた紅茶に合うのだ。

 わたしと先輩は同時に紅茶を飲むと、顔を見合せて笑った。


「もう一個ずつあるんですけど……」

「食べちゃおうか」

「そうしましょう!」

 この笑顔、共犯者といった所か。今日はカロリーは気にしないのだ。


 それからお茶とお菓子とともに、時間はみるみるうちに過ぎていった。

 気づけばもう、電気をつけてカーテンを引かなければならない。

 先輩も、もうそろそろ、と立ち上がった。


「今度は私のマンションにお招きするわね」

 別れる時に、先輩はそう声をかけてくれた。

「はい!ぜひぜひっ!」

「……ホントに嬉しそうにしてくれるから、私も嬉しいわ」

「え?え、えへへ……」

 よろしくお願いします、今日はありがとうございますと言って先輩を見送る。

 いつの間にかもう、外は真っ暗。

 日が落ちるのが本当に早くなった。一年で一番夜の長い、冬至ももうちょっとでやってくる。

「さむ……」

 吹く風もさすがに冷たい。


 綺麗に輝く月を見上げ、その下で手を振る先輩に手を振り返した後、わたしは部屋に戻る。

 一人の部屋は少し寂しかったけど、来客の名残の何となく嬉しい気持ちは、部屋の隅にまだわだかまっている気がする。

 すっかり冷めた紅茶の残りを飲み干すと、わたしは片付けを始めるのだった。

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