愛は、何もない僕の人生に彩りを与えてくれた。

「ありがとうございます。またお越しくださいませー!!」


今日も僕は店内で、はきはきと元気よく挨拶をする。お客様はだれも僕を見てはくれない。もしかしたら誰も僕の声なんて聞いていないのかもしれない。それでも僕は与えられた仕事をまっとうしようとしていた。一生懸命生きていることを自分で確かめるように。


 …。何のために?一体何のために、こんなに全力で働いているんだ?


 別に大きな声で挨拶しようが、店内の前陳をもれなくやっていようが、冷蔵庫の飲料補充をきちんと行っていようが、その仕事ぶりが誰かから評価されることはない。僕は正社員じゃない。ただのアルバイトだ。もらえるお金は常に最低賃金。それ以上でも、それ以下でもない。あまりに仕事をしていないと店長に怒られるが、別にそんなに一生懸命やらなくても、テキトーにこなしているだけでもお金はもらえる。


 なのに僕はどうしても怠ける気になれなかった。その理由はいたって単純だった。手を抜いている自分が恥ずかしかったからだ。


 全力で頑張っていない自分。こんなこと意味がないと考えながら仕事をする自分。今ここで生きていることにいまいち自信を持てない自分。


 そんな情けない姿をさらすのが嫌だった。別に誰も見ていないんだから、サボってもいいのかもしれない。与えられた仕事だけ淡々とこなしていけばいいのかもしれない。


 でも僕はどうしてもそんな風に自分を説得することができなかった。


 なぜかというと…。


 大好きな結衣さんが僕のことを見ている気がするからだ。


 もちろん結衣さんは家の中にいて、今日も僕の帰りをただじっと待っているはずだ。彼女は今、外に出ることができない状態だ。僕がバイトをしているこの店に来ることも絶対にない。


 そんなことはわかっているのに、なぜか彼女が僕の姿をじっと見守っているような気がした。今だってそうだ。一生懸命働いている僕の様子を、結衣さんは見つめている。こんなことは妄想だ。現実じゃない。けれども僕にとっては紛れもない一つの真実だった。


「最近、なんか頑張ってますよね?」


午後二時。ちょうどお客様の人数が少なくなる時間帯に、そんなことを姉崎さんに言われた。この時間は特にやることもないので、隣のレジ同士、二人で話すことが多い。


「そうかな?」


「そうですよ!活き活きしてるっていうか、元気っていうか、そんな感じがします!声にも張りがあるし、毎日楽しそうです!」


「姉崎さんにそう言われると、うれしいよ。今日も頑張ろうって気持ちになれる。」


「私も先輩にそう言われると、うれしいです。」


姉崎さんは僕の顔をじっと見て、にっこりと笑う。素敵だ。彼女と笑い合うと、自分の心が温まっていくのを感じる。ずっとこの時間を過ごしていたいと思う。


 僕はきっと、姉崎さんのことが好きなんだ。


 でもそれは、結衣さんに対しての「好き」とはまた違う感情だ。後輩としてというか、仕事仲間としてというか、そういう意味でつながっていたいという感情だ。だから誤解しないでくれ、結衣さん。


 って、僕はどうして自分の中で言い訳しているんだろう…?


 頭の中の結衣さんが少しだけ不機嫌そうな顔でこちらをにらみつけてから、そっぽを向いたような気がした。そういえばいつか言われたっけ?浮気は絶対しないでねって。


 だからさ、結衣さん。僕は姉崎さんと恋仲になりたいとか、そういうつもりじゃないんだってば。


「なんかさ、自分にとって『大切な人』がずっとこっちを見ているような気がするんだよ。実際にはそばにいないのにさ、不思議だよね。だからその人のためにがんばらなきゃって、そう思うようになったんだよね。」


「そ、その『大切な人』って、カ、カノジョさんとかですか!?」


食い入るような目で姉崎さんは僕を見る。心なしか距離が近い気がする。


「う、うん…。そうだけど…。」


その声を聞いた瞬間、彼女は数秒の間驚いた表情で硬直した。時間が止まったのかと思ったくらいだ。そういえば、彼女とこんな話をしたことは今までなかったかもしれない。


 その瞬間、関くんの声が頭の中で響き渡った。


「いいか、勇太。お前に彼女がいることは、絶対に誰にも言うな。口が裂けても言うな。」


あのとき関くんは見たこともないくらい怖い表情で、脅しているかのように僕に忠告した。いつも穏やかな彼にしては珍しいくらい、その声は深刻さに満ちていた。


「なんで?なんで結衣さんの存在を誰にも知らせちゃいけないの?」


「なんでって…それは…」


少しの間、関くんは口をつぐんで視線を下に移した。考え込んでいるときの彼の癖だ。しばらく経ってから、彼は意を決したように口を開いた。


「今の早乙女さんの状況って少し複雑だろ?彼女の精神状態は、正直に言ってとても不安定な状態だ。まだ他人とコミュニケーションをとるには早い。もし彼女が他人と接点を持ったら、どうなるかわからない。最悪の場合、今の鬱状態がさらにひどくなる可能性もある。


…俺の言っていること、わかるな?」


「うん、わかる。」


「だから、たとえお前を介したとしても外の世界の誰かとつながりを持つのはやめておいた方がいい。できるだけ彼女の存在は誰にも言うな。お前がどんなに信頼を置ける人物だとしてもだ。


 これは精神科医として、そしてお前の友人としてのアドバイスであり、約束だ。


 …守ってくれるよな?」


「うん、絶対に守る。」


「いいか、これはお前が早乙女さんを救うために必要なことだからな。頼むぞ。今はお前と二人の世界で対話をしながら、少しずつ精神を安定にし、改善させる時期だ…。くれぐれも外部からの刺激を与えないように。


 また対話の結果を教えてくれ。」


「うん、わかった。」


あんなに関くんに忠告を受けていたのに、僕は姉崎さんに結衣さんのことを話してしまった。でも、そこまで大変なことにはならないだろうと確信している。僕は結衣さんに姉崎さんについていろいろと話している。


 姉崎さんが真面目で、頑張り屋で、聞き上手で、可愛いことを結衣さんは知っている。むしろ二人が接点を持つことで、結衣さんの精神状態は良くなるかもしれない。


「カノジョさんって、おいくつなんですか!?」


さっきまで硬直していた姉崎さんはハッと我に返って僕に質問を投げかけてくる。心なしか距離が近いような気がする。


「僕と同い年かな。そうだね、付き合ってもう、六年になるかな。一緒に住み始めてからだと、もう二年になるのかな。」


少し上を見上げて、結衣さんと過ごしてきた年数を計算する。考えてみれば、ものすごい年月だ。時は気がつかないうちに猛烈なスピードで進んでいる。


「一緒に住み始めてって…。ど、同棲してるんですか!?」


姉崎さんは目を丸くしてそう言った。異星人にはじめて出会ったような顔をしている。


「うん。もう僕も二十代後半だからね。これからの人生を共に歩んでくれるパートナーを決めないといけないなって、ずっと思ってるんだ。結衣さんとは一緒に過ごしていて、本当に幸せなんだ。たぶん近い将来、僕らは結婚することになると思う。」


本当に結衣さんと過ごす毎日の生活は楽しい。お互いのピースがしっかりとはまっていくような感覚がする。はじめて会ったその瞬間から、まるでもう一人の自分に巡り会えたような気持ちがした。


 その感情は今も変わらない。むしろ日に日に強くなって、その輪郭がしっかりとした形をとっているように思う。同じ場所で生活することが、空気を吸うように当たり前のことになっている。


 もう少しだ。もう少しだけ彼女の心が元気を取り戻せば、結婚できるようになるはずだ。


「ケ、ケッコンですか!?そうなんですね…。先輩には、同棲していて、結婚したいと思っている、素敵なカノジョさんがいるんですね…。」


姉崎さんは、まるで自分に言い聞かせるように、うつむいてそう言った。少し元気がないように見える。ふと顔を上げて、彼女は僕にまた質問してくる。


「先輩とカノジョはどうして…」


「あ。姉崎さん、お客様!レジに入って!」


「は、はい!」


眼鏡をかけた老婦人が困った顔をしてレジの前に立ち、僕らの顔を眺めている。姉崎さんは慌ててレジ台の方に向かい、会計をする。


 さっきの姉崎さん、すごいテンションだったな…。僕にカノジョがいることが、そんなに意外だったのかな…。


 僕は彼女が急いで商品を手に取る様子を見ながら、先ほどの会話を思い出していた。






 



 


 


 

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僕には愛する彼女がいる。だから今日も頑張れる。 じゅん @kiboutomirai

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