安らぎさえも、どことなくおぼつかなくて。

 ご飯を食べ終えた後、僕は台所でコップや皿を洗っていた。結衣さんはリビングルームでぼんやりとテレビ画面を眺めている。


 蛇口から水が流れる音、カチャカチャと食器同士が触れる音、テレビ画面から聞こえる笑い声。それらの旋律は僕らの間に浮かぶ沈黙をより一層際立たせていた。


 食器を洗い終わると、僕はソファにもたれかかってボーっとしている結衣さんの隣に座った。彼女の視線はテレビに注がれているが、明らかにテレビ画面を見てはいなかった。完全に自分の中に引きこもっていて、物思いにふけっている。画面の中で、二人のお笑い芸人がマイクの前で話している。彼らが大げさな身振りをするたびに、会場から歓喜の声が聞こえる。


 僕は注意深くステージの上で笑いを取ろうとする彼らの行動を観察した。彼らの声、表情の激しい変化、腕や肩、足の大きな動き、すべてをはっきりと読み取ることができたのに、それらは僕らのいる場所まで届いていないような気がした。彼らの声は聞こえるのに、意味も理解できるのに、僕は一回も笑えなかった。


 一体、何が可笑しいんだろう…。


 不思議な感覚だった。画面の中の出来事が本当に起こっていることなのか、僕にはわからなかった。誰かの夢か、妄想のように感じられた。お笑い芸人のネタを見て笑っている人たちの姿も、あからさまな嘘のように白々しく思った。自分が生きているこの世界の延長線上で、それが行われていることがどうしても信じられない。


 僕の隣で何かに憑りつかれたようにぼんやりとしている彼女の姿だけが本当にここにあるように思われた。僕は時間の流れに身を任せるように過ごした今日のことを思った。僕の謝罪に安らぎを覚える中年女性の笑みも、姉崎さんがなぜか僕を褒めてくれたことも、結衣さんを想ってコンビニでエクレアを買ってきたことも、次から次へと僕の前に現れる記憶の断片たちのすべてが、儚い夢のようだった。


 確かなものを探るように、僕は結衣さんの美しい手のひらに触れた。その感触は彼女を深い瞑想から解き放ったようだ。結衣さんは不思議そうに僕の様子をうかがって、自分の感情に戸惑い恐怖する僕の手のひらの震えに気がついたようだった。


「怖いの…?」


 うつろな目で結衣さんは耳元でそうささやいて、そっと僕を抱き寄せた。彼女の声が消え入ったあとも、優しい旋律は僕の頭の中に鳴り響く。僕は彼女の温もりに包まれながら、長い髪の毛に顔をうずめるようにして涙を流していた。結衣さんの肩の上で泣く僕の背中を、彼女はずっとさすってくれていた。


 僕は母親に抱かれた幼いころの自分を思い出していた。そうだ。得体の知れない怪物が心の内に現れるとき、いつだって僕は母親の身体にしがみついていたのだ。そして、今日だって…。


「わかるわ。勇太くんの気持ち全部、私にはわかるわ。苦心して作り上げた砂の城が、浜辺の波にさらわれて崩れていくのを見るのは、本当にやりきれないものね。


 私もずっと不安なの。あなたとの生活がいつか音を立てずに消えてしまうんじゃないかと思って。清らかな人間がひっそりと息を引き取るように、私たちに静かな別れの時が来るんじゃないかと考えただけで、不安でしようがないわ。本当に胸が苦しくて苦しくて死んでしまいたくなるの。


 でもまだ、あなたがそばにいてくれるから、私は生きているんだわ。」


溺れた人が必死に海に浮かぶ木の破片を掴もうとするように、僕らは互いの身体にしがみついていた。こんなことは一時の気休めにすぎない。いつかは僕も、結衣さんも、自然の強大な力に自らの身体を委ねてしまうときが来るだろう。そんなことは十分にわかっている。


 でもその瞬間まで、僕はずっと彼女の手のひらを握っていたかった。


 すべては移ろい、常に古いものが切り捨てられ、新しいものが生み出されていく。時は残酷なほど僕らを打ち負かし、朽ちていく僕らの姿を無表情なまま見つめるだろう…。その光景は曖昧な未来予想図ではない。確実に到来する予定事項だ。


 浜辺に集まった子供たちは楽しそうに砂の城をつくる。それは純粋な遊びだ。必ずやってくる波のことなど忘れてしまったかのように、トンネルをつくり、城壁をつくり、真っすぐに立つ塔をつくる。まったく意味のない創意工夫だ。それでも狂ったように彼らは城をつくり続ける。もしかしたらいつか来る終わりを忘れたいのかもしれない。悲しみに襲われる前に、自らを救い出そうと懸命に手を動かしているのかもしれない。


 きっと、子供たちは正しいのだ。何もやらないよりは、何かやった方がまだ救いがある。


 その夜、僕は結衣さんの輪郭に触れていた。そんなことをしても決して彼女には近づけないのに、それでも愛する人の中に入れると信じて疑わなかった。彼女との境目を見つけるたびに絶望し、嘆き、悲しみながら、僕は結衣さんの影を追いかけていた。


 そんな僕の様子を見て、結衣さんはあるときは微笑み、あるときは目を閉じてうなだれていた。もしかしたら、僕は愚かなのかもしれない…。


 でもきっと、正しい。


 だって、生きることはいつだって愚かさを含んでいるんだから。

 


 

 

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