どうして、君はこんなにもきれいで。
「ただいまー」
鍵を持ったまま僕の家、さびれたアパートの一室に入っていく。僕の声に反応するように、奥の部屋から彼女が扉を開けて嬉しそうに駆けてくる。肩まで伸びた髪を揺らして、丸くて大きな可愛らしい瞳を僕に向けながら。
「おかえりなさい。お仕事、大変だったでしょう。」
僕が帰ってきてくれたのがそんなに嬉しいのか、満面の笑みを浮かべている。僕の肩にかけた彼女の細い腕が白く輝いていて、美しい。
「うん。まあ、大変だったけど、大丈夫だよ。結衣さんのためだったら、僕なんだってできるからさ。」
メロドラマの主人公みたいな言葉を口に出しても、結衣さんの前だったら全然恥ずかしくなかった。だって、本当にそう思っているんだから。普段なら考えていることを言葉にできない僕でも、彼女には本当のことを伝えたいと思っている。
だって、こんなにも愛しているんだから。
結衣さんは恥ずかしそうにうつむいて僕の愛の言葉を受け取った。そして顔を上げてそっと手のひらで僕の頬に触れ、そのまま目をつぶってキスをした。僕は彼女の柔らかい唇が僕の唇に触れて、僕を外側からすっぽりと優しく包み込んでいくのを感じていた。
彼女は照れくさくて、僕に対する愛情を口に出さない。でもその代わりに、いつも行動で僕に愛情を示す。僕も彼女から言葉を求めようとはしなかった。一緒に日々を過ごしていれば、結衣さんがどれだけ僕のことを想ってくれているか伝わってくる。それだけで十分だった。
どれくらいの間そうやって唇を交わしていたことだろう。部屋の中からやかんのフタが落ちる音がして、結衣さんはハッとしたように目を見開いた。彼女の唇が僕の唇から離れる。
「ごめんなさい。忘れていたわ。カレーを作っていたの。焦げていないといいんだけど。」
結衣さんは慌てて部屋の中に戻っていく。僕も疲れ切った身体を引きずって彼女の背中を追った。でもさっきのキスで、少しだけ疲れが軽減されたような気がする。
「ごめん、ちょっと焦げちゃったけどカレー出来たから。一緒に食べましょう。」
そう言って結衣さんは二つの皿にご飯をよそい、ルーをかけて食卓に置いた。僕はコートを脱いで手を洗ったあと座椅子の上に正座をして手を合わせ、いただきますと言った。僕の声に呼応するように、彼女も同じ言葉を発した。
しばらくの間、僕たちは黙ったまま目の前の赤茶色のルーをご飯の上にかけたあとスプーンですくって口の中に入れた。スプーンが皿に当たるカチャカチャとした音、咀嚼音、水を飲んだときに鳴る喉の音のほかには何も聞こえなかった。
半分ばかり食べたとき、僕は口を開いた。
「今日、レジを打っている最中に商品を値引きし忘れてしまったんだ。そしたら、客が怒っちゃってさ。結構長い間ずっと文句を言われて困っちゃったよ。」
結衣さんは僕の顔をまっすぐに見つめながら聞いている。
「そんなこと別に珍しい話じゃないからさ、普段なら気にもとめずに聞き流していられるんだけど、なぜかそのときは激しい怒りを感じてしまったんだよ。
それはもう反射的なものでさ、言葉にして意識する前にもう頭の中にパッと映像が浮かんできたんだ。目の前の客を何回も何回も殴る僕の姿がはっきりと見えた。そのとき、結衣さんの笑顔を思い出さなかったら、きっと僕は今ごろ警察署に連行されてたと思う。」
僕があまりにも真面目くさって語るものだから、結衣さんはこらえきれずに噴き出した。
「信じられないわ。優しい勇太くんがそんなことを考えるなんて。」
「本当のことなんだ。結衣さんがいなかったら、今ごろ僕は犯罪者だったんだよ。だからありがとう。そばにいてくれて。」
僕はゆっくりと感謝の言葉を述べて結衣さんの手のひらを精一杯優しく僕の手のひらで包んだ。彼女の顔は耳まで真っ赤になっていたが、決してうつむかずに僕の目を見ていた。
「私、ずっと今日一人ぼっちで勇太くんの帰りを待っていたわ。本当に壊れそうなぐらい切なくて、怖かったの。でもあなたのことを考えていたから、今日は腕首を傷つけずにすんだわ。勇太くんが自分の身体は守らなきゃって教えてくれたから。」
結衣さんは愛おしげに僕の顔を見る。少し垂れた目の輪郭が柔らかく繊細な彼女の性格を表しているようだった。僕はその表情をたまらなく素敵だと思いながら、一方でその笑顔の底にある触れれば溶けてしまう氷のような脆さを感じていた。
彼女は目の前に横たわるすべてのものを自分の中に引き入れてしまう。溜め込んだ感情の重みに耐えかねて、それを吐き出すかのようにカッターで自らの皮膚を傷つける。まるでそこから心の断片が空中へと逃げていくのを信じているようだった。
なぜそこまで抱えてしまうのだろう…?結衣さんはあまりにも優しすぎて、綺麗で、今にも崩れそうで。彼女のコップから水があふれだしていく。僕は自分の手のひらでコップの表面を滑って落ちていく水滴を受け止めようとするけど、量が多すぎてうまく行かない。
あるとき、僕は泣きながら結衣さんに頼んだ。もう自分を傷つけるのはやめてほしい。僕が君の感情を全部受け入れるから、だからそんな悲しいことはお願いだからもうしないでくれないか。
その声を聞いたとき、結衣さんはまるで最初からこうなることがわかっていたかのように、安らかな表情でうなずいた。その光景を思い出すだけで息が苦しくなる。自分のしていることが間違いだなんて、そんなこと、彼女が一番わかっているのに。わかっていて過ちを犯してしまう自分にまた傷ついているのに。
そのときから彼女はリストカットをやめた。本当にこれでよかったのだろうか…?僕は彼女の感情の逃げ場所をふさいでしまったのではないか。そんな不安が頭をよぎって、僕は考え込む。
彼女のささやくような言葉を聞くたびに、胸がはち切れそうになる。痛い。結局僕は彼女のことを何も知らない。彼女の心は、決して開かない部屋のように正体がわからない。こんなに近くに寄り添っているのに、ずっと遠くから眺めているような気がしていた。
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