コップからあふれだしそうな水

 僕の働く店は駅から少し離れた住宅地の近くにある。小型食品スーパーと謳われたこのチェーン店は、コンビニと同じくらいの大きさでスーパーのように生鮮食品や日用品を豊富に取り揃えており、この地域の人々に親しまれている。夕方5時ごろから夜8時までの間に仕事帰りのビジネスマンやOL、主婦が次から次へと入店し、思い思いの品を買い物カゴに入れて会計を待つレジに並ぶ。

 

 僕は就職活動を諦めた6年前、大学四年の冬にこの店で働きはじめた。当面の生活費を稼ぐために仕方なしに仕事をはじめたが、頭を使わずに延々と繰り返される作業に没頭すれば自然と金が入ることに気づき、そのあまりの簡単さや楽さに甘えてずっとここで働いている。気がつけば僕は20代の後半に差しかかり、30代の足音がかすかに聞こえるほどの年齢になっていた。


 レジ台に置かれたカゴを無感情で捌きながら、先ほどの中年女性の冷笑について考えていた。なぜ彼女は僕の年を気にしたのだろう。ジロジロと僕を見ている間、僕にダメ人間のレッテルを貼る材料を探していたのだろうか。


 27歳にもなって、街の一角でレジを打っている哀れな人間。


 賞味期限が差し迫った商品には30%の値引きシールが貼られる。会計の際店員はこのシールの有無を確認して適切に処理しなければならない。とはいいつつも別に難しい作業ではない。モニター画面に映る商品名の下にある値引きボタンをタッチすればそれでいい。でも僕は毎日の流れ作業の中でついつい値引きシールを見逃してしまうのだ。


 先ほどの中年女性はそれについて怒っていた。謝ってほしいわけじゃないと言いながら誠意ある対応を求めてくる彼女の心情は理解できなかったし、どうしてそこまでそんな他人のミスにエネルギーを消費する必要があるのかもわからなかった。まあそれでも明らかに悪いのはこちらなのだから、彼女の欲しい言葉を探りながら穏便に立ち去ってくれるのを待つほかはない。


 きっと、彼女の中に鬱屈した感情があったのだろう。それを吐き出して代わりにちょっぴり優越感を埋め合わせるために僕が数分間犠牲になったのだと考えれば、少しは気持ちが楽になるような気がする。僕は彼女の心理カウンセラーとして立派に仕事をやり遂げたということだ。だとしたらお礼の一つでもあってしかるべきかもしれないが。


 それよりも問題なのは僕自身だ。彼女が嘲笑を浮かべている間、頭の中によぎった映像があまりに鮮明で、思い出しただけで身震いする。反射的に中年女性を襲い、顔を拳で殴る自分の姿が目に浮かぶ。倒れた彼女の上に馬乗りになり、他人の制止を振り払って上から何回も拳を振り下ろす。眼鏡の破片が飛び散り、厚ぼったい彼女の皮膚の表面は血で濡れている。我に返ったときにはパトカーに乗って僕は人生の終わりの声を聴きながら警察官とともに仕事場を後にする…。


 いつか電車の中でいきなり乗客を殴りつけたサラリーマンのニュースを見たことがある。僕は文面からその光景を想像してそのあまりの文脈のなさに眉を寄せたが、今まさに僕は彼になろうとしていた。いやきっと彼女の笑顔を想わなければ、確実にその人生を歩んでいたことだろう。


 僕の家で一人、僕の帰りを待つ可愛い彼女、結衣さん。君の笑顔をあのとき瞬時に想像しなければ、きっと僕は中年女性もろとも自分を破壊していたのだ。


 あのとき僕の衝動を思いとどまらせたのは彼女の存在だけだった。もし僕が捕まってしまったら、一体彼女はどうなる?口の中になけなしの錠剤を含んだまま、部屋の片隅で体育座りをして死んでいただろう。いつまでも帰ってこない僕のことだけを考えながら。


 ああ、そうか。やっぱり僕は働かなきゃな。


 僕は自分自身をはっきりと理解して安心した。結局、僕には結衣さんしかいないのだ。結衣さんには僕しかいないのと同じように。だから彼女が生きられるように、僕は金を稼ぐしかないのだ。


 しかし一体、今日の僕はどうしてしまったのだろう…?いつもなら他人の視線なんて気にもしないし、心は澄み切った湖面のように波風一つ立たないはずなのに。少しずつ溜まっていた水が突如コップからあふれ出すように、感情が臨界点を超えて暴走しそうになったのだろうか。危なかった。一歩間違えれば僕は犯罪者だった。


「なんなんですかね、あの態度。ほんと、腹が立ちます。いつまでもいつまでもグチグチグチグチ文句を言って、それでストレス発散しているわけですよね。一番忙しい時間帯にあんなことされたら、いい迷惑ですよ。他人の過ちをいつまでも追及する人って、ほんと汚いですよね。あの客、もう来なければいいのに。」


閉店作業を終えてロッカールームでエプロンを外している間、同じシフトで入っていた姉崎さんは先ほどの中年女性を批判していた。僕は内ポケットの中に財布や携帯を入れながら、うつむいて彼女が話し終わるのを待ってから口を開いた。


「まあでも、実際こっちのミスだったから僕が悪い所もあるので…」


「確かに、値引きをし忘れた先輩が悪いかもしれませんけど、あそこまで言う必要あります?最後には年齢まで聞いたじゃないですか?なんでそんな関係のない話をするんですかね?あれ完全にセクハラですよ、ほんと!」


実際に怒られた僕以上に憤る姉崎さんが可笑しかった。思ったことをすぐに言葉にする彼女がうらやましい。きっと彼女はたまった水をすぐに洗面台に捨てるのだろう。


「何様のつもりなんですかね?偉そうに。あれらしいですよ?ここの地域ってもともと商店街で、今は全然廃れてしまったんですけど、昔はそこそこ潤っていたんですって。それで昔店を経営していた人が結構いて、そのときの上から目線な態度が抜けてないらしいですよ。だから偉そうな客が多いみたいです。」


「へー。そうなんですね。面白い考察ですね。誰から聞いたんですか?」


「店長です。」


意外だった。いつも忙しい日々に追われて崩れそうになっている店長がそんなことを言うなんて。姉崎さんは他人の思いがけない考えを引き出す素晴らしい能力を持っている。一体どんなタイミングでそんな話をしたかはわからないが、本当にすごいことだ。


 僕はここの客が妙に高飛車なのは、割と高齢な方が多いからだと思っていた。年齢を重ねるたびに、人は衰え、精神は劣化していく。いつか僕の好きな作家・坂口安吾が本を通して僕に語りかけてくれたことだ。生きることとは、つまり墜ちることだ。でもトルストイはまったく違うことを言っていたかもしれない。老いた人間は穏やかな輝きを常に胸の中に秘めている。果たして、真実はどちらなのか…。


 そんな結論の出ない考えが頭の中を右往左往している間、姉崎さんは僕の顔をじっと見つめていた。視線に気づいて見つめ返したとき彼女の大きな目の奥の黒い瞳孔が少しだけ大きくなったように思われた。


「先輩って、すごいですよね…?」


「え?」


すごい?なんで僕は褒められたんだろう?


「だって、あんなに文句を言われたのにまるで冷静っていうか…。涼しい顔をしているじゃないですか。特に気にしないで、理不尽な客でも丁寧に対応するし、決して人のことを悪く言わない優しい人だし…。そういうところがほんとにすごいなって。私だったらムカついて殴りかかっていたかもしれないです。」


「いや僕だってムカつきましたよ?だけどそんなことにエネルギーをぶつけてもしょうがないかなって思っちゃうんですよね。なんか虚しいっていうか。だからあんまり感情的にならないんですよ。もともと僕はそこまで感情の起伏がないですし。」


嘘だった。僕はもしかしたらあの中年女性を襲っていたかもしれないのだ。だから僕の吐いたセリフは自分のキャラクターを誇張するための都合の良い嘘でしかない。


「うらやましいです。私はすぐに思ったことが口に出ちゃうんで。」


「僕は逆に姉崎さんがうらやましいです。僕は自分の言葉に自信が持てなくて、はっきりと何かを言うことができないんですよ。だからあなたがうらやましい。」


姉崎さんは自分が褒められる予想外の展開に驚いたが、すぐに笑顔になってお礼を言ってくれた。


「へへ。褒められちゃった。ありがとうございます。」


店の入り口前のシャッターを閉めて姉崎さんと別れ、僕は家路へと着いた。街中に設置されたいくつもの電灯が、春風に当たって寒そうに震える僕の姿をおぼつかなく照らしている。


 コンビニに寄って、結衣が大好きなエクレアを買った。


 喜んでくれるかな…?


 僕はかすかに笑みをこぼしながら自分の家へ向かった。


 

 

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