番外
「やっぱりもう止めにしようか」
と口にした時、祥太郎にはもうあまり迷いはなかった。
え、と戸惑った様子のハルの尻から、祥太郎は3本突っ込んでいた指をずるりと引き抜いた。
ぬちっと音を立てて、圧迫と温もりの中から抜け出す。
決めてしまったからには、もう自身が態度を揺らす訳にはいかない。
祥太郎はハルと目を合わせないまま、黙って洗面所に向かった。
そのままソープで指を軽く洗い、水で冷えた指にもう少しの冷静さを取り戻した祥太郎は、鏡で一度自分の顔を確認してから、よし、と小さく声に出した。
大丈夫。
穏やかな気持ちだ。
寝室に戻って、まだ裸のままでベッドに座り込んでいるハルに薄い毛布を掛けてやる。
ハルは、無言で、睨むような、戸惑ったような、それでいて全てを理解しているような、そんな顔をしていた。
祥太郎は脱ぎ捨てていた下着だけ拾ってそのまま穿き、ベッドサイドテーブルに置いていた銀に光る眼鏡を掛けて、それでようやく、ハルの近くに腰を降ろした。
間接照明だけが照らす部屋の中で、二人は静かに呼吸をした。
「ハル」
「ごめん、」
「君が謝ることじゃない。僕が決めたんだ」
投げ出されていたハルの両手をそれぞれ握って、左手首に存在を主張している茶色い革のブレスレットを軽く見やる。
祥太郎には分かっていた。
自分とハルはただ傷の舐め合いをしているだけだということ。自分がハルを縛り付けてしまっていること。馴れ合いの末に優しさに漬け込んで甘えてしまっていること。
彼が自分ではない相手を無意識にしろ選んでしまっていることも、自分ではハルを大切にしてやれないことも、祥太郎には分かっていた。
手放してやらないといけない。
「祥太郎さん、あのさ……」
言葉を選んでいるハルの両手を握りしめながら、祥太郎は努めて優しく笑って見せた。
「良いんだよハル。僕は気づいている。好きになったんだろ、『彼』のこと」
「…………、そんなつもりは、ないんだけど、」
目を泳がせて逸らすハルを健気だと思う。
いつだってその優しさに甘えてきた。
「つもりはなくても、事実だろ。だって君は、まるで逃げるみたいに髪型を変えてもアクセサリーを捨てても、そのブレスレットだけ外さない」
「……っ、」
「君を触っている僕だから分かる。君はもう僕を向いていないね」
軽く首を振ってみせるハルに、祥太郎は意を決して「ハル、」と言い聞かせるようにその名前を呼んだ。
「ハル、僕は今から君に酷いことを言うよ」
「なに」
「僕はもう君を要らない」
「っ、」
ハルが息を呑んだのを感じたけれども、祥太郎はこれは自分のためでも、彼のためでもあると頭で言い聞かせて、心にもない言葉を紡ぎ続けた。
平気だと思った。
自分が彼を理解できるぶんだけ、彼だって自分のことを理解してくれる。
本当のことは、繋いだ手のひらから、ちゃんと伝わる。
だからこれは、僕らのための儀式だ。
「僕の側にいる時にさえ他の男のことで頭がいっぱいになるようなやつは、僕には要らないんだ」
「君がいると、次の再婚を考える邪魔になる」
「いつまでも君と続くとは最初から思っていなかった」
「僕では君をちゃんと幸せにはしてやれない」
「要らないよ、ハル」
ちがう。
違う。
違う。
違う。
全然思ってない。
再婚なんて全然考えていない。
本当は感謝しかないんだ。
辛いときに一番近くに居てくれた。
慰めてくれて、支えてくれて、立っていられたのは間違いなくハルが居たからだ。
こんな8つも下の男の子に、僕はずっと甘えさせてもらっていた。
先のことなんてなんにも約束してやれないのに、目先の食事や物品なんかで満足してくれて。
横からかっさらわれて悔しいなんて、絶対に言ったらいけない。
「ふ、は。……酷いなあ」
いくらか黙って聞いていたハルは、静かに息を吐くようにして、少し笑った。
「こうやって言わないと、君も諦めつかないだろ」
「祥太郎さん、泣いてるよ」
「……ごめん」
「そんなんじゃ全然説得力ない」
「……君も、泣いてる」
「だって、そんな嘘ばっか言わせてしまった……。それに、俺が居なくなったらあんた、ひとりになっちゃうから」
「いいよ、それでいいんだ。僕なら大丈夫」
祥太郎は握りしめていたハルの両手を離して、代わりにその身体を抱き締めた。
自分の肌によく馴染んだ、温かい身体だ。
「僕はね、ハル、本当は良かったと思ってるんだ。やっとまた、人を好きになることが出来たんだろ」
「……本当かよ、相手が自分じゃないのに」
「良かった。僕だって、君が前を向いて幸せになってくれるのは嬉しいんだ、君が僕にそう思ってくれているのと同じようにね」
「…………ごめん。裏切った」
「僕はそんなふうには思っていない。僕こそごめんよ、君を手放すのが、遅くなった」
腕の中でハルが強く首を振っている。
すがりついてくる腕は力強い。
君を触るのは、これが最後だ。
「服を着よう。今から会いに行ったら良い」
「今?! ……それもどうかと思うけど」
「僕が話を切り出すのが、最後まで終わった後じゃなくて良かったな」
冗談めかして下腹を撫でてやると、ハルは可笑しそうに声を出して笑った。
そこいらに脱ぎ捨てていたハルの服を拾い集めてやると、ハルは仕方ないとでも言いたいような緩慢な仕草でそれを身につけ始めた。
すっかり暗くしてしまったハルの短い髪を撫でながら、祥太郎はぽつりと呟いた。
「あーあ。僕は嫁にも逃げられて、ハルにも棄てられるのか」
「…………、やっぱり俺、」
ハルが服を着込もうとしていた仕草を止めるのを見て、祥太郎はああしまった、口に出してはいけなかったか、と、少しだけ後悔した。
「ごめん。今のはちょっと意地悪だったな」
「痩せ我慢してるんだろ」
「そうだよ。痩せ我慢だから、早めに出ていってくれないか。決心が揺らぎそうだ」
玄関でハルを見送るとき、ハルがこれが最後とでも言いたそうにキスをしようとしてくるから、やんわりとその身体を押し戻した。
「駄目だよ。今触ったら、未練が残る」
ハルは一瞬瞳を揺らしただけで、納得した。
「じゃ、」
と、扉に手を掛けたハルに、祥太郎は
「駄目だったら、帰っておいで」
と声を掛けた。
顔も知らない、可愛いハルを奪った彼へのささやかな仕返しのつもりだ。
ハルは、ははっと笑った。
「分かった。じゃ、また」
「うん。気をつけてな」
扉を開けて、きっともう戻ってこない彼を笑顔で見送る。
扉が完全に締め切るまでは、ちゃんと君を見ている。
こいびとごっこ 夏緒 @yamada8833
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