第3話 落ちてくる

 ズズズッ……ズズッ……ズズズズズ……


「お母さん、なんか音がする」


 午前1時半過ぎ、トイレに行きたくなり目の覚めた千奈は、すぐ近くで何かを引きずるような音が聞こえたため、なんとなく不安に駆られて母の美千代を揺り起こした。


「千奈……どうしたの?トイレ?」


「うん。でも、またなんかいるんだよ。お母さん、一緒に来てよ」


「う~ん、しょうがないねぇ……」


 眠りの中から無理やり引き起こされ、全然クリアになりそうもない眠たい瞼を持ち上げ、美千代が隣に寝ていた千奈と連れ立って階段を下りると、千奈はそこの土間に並べて置かれたあるサンダルを履き、首をぐるりと回し、何もいないことを確かめてから階段の裏側にあるトイレに向かった。


 同じようにサンダルをはいた美千代は、正面にある上がり框から二間続きの和室のある引き戸を開け、そこを見渡した。


 その言葉通り、見渡したのだ。部屋の中と……天井をだ。


「大丈夫ね。今日は大丈夫そう」


 この美千代の実家は、ド田舎という言葉がピッタリというくらいの田舎で、左隣の家は100mほど先にあり、右隣には山へ向かう農道があり、そのはるか先に右隣と言えるかも怪しい距離に家が見えるくらいに離れていた。目の前には田畑が広がって、その先に、いくつかの家が点々としているといったほどの田舎だった。


 家の裏には倉庫があり、その向こうは山だ。子供の頃には、インコや文鳥など飼ったことがあったが、それはすぐにいなくなった。


 言葉通り、いなくなったのだ。


 いなくなった文鳥の代わりに、鳥かごの中には、出られなくなったのか一匹のヘビがいた。


「夜は外に出しておいたらダメだろう!」


 そう言って、ヘビを籠から出して、逃げる前にその首元を掴んで絞め、皮を剥いだ。薄っすらピンクがかったその肉を……竹の串に手慣れた様子で首元に刺し、身体を竹に巻きつけた。このヘビは乾燥させられて、薬屋に売るのだ。


 トイレに入った千奈を待つ間、そんなことを思い出していた。


 それにしてもだ。その鳥の騒ぎは、そのあとの衝撃に比べればどうってことない出来事であったのだ。


 実家のその母屋は、天井が大きな梁が張り巡らされており、子供の美千代は、今の千奈と同じように、2階から下りてきて土間からその上がり框を開けた時、目の前の畳の上を、まるで我が物顔で身体をくねらせて動くヘビを見たのだ。


 まただ。


 そんな経験は、その時がはじめてではなかった。


 裏に山があり、天井には梁が巡っており、縁の下は、子どもなら外からも入り込めるほどには広い空間があり、どこからでもヘビが入り込めるような、そんな田舎の家だったのだ。


 それでも、そうはいってもそんなことはしょっちゅうあるわけでもなく、ごくたまに、そんな場面を目にしていただけだった。


 が、そしてそれは、昼寝をしているときだった。


 美千代はその二間続きの手前の部屋で、うたた寝をしていた。その手前の部屋の隣には居間があり、そこは家族がくつろぐ場所で、昼間でもいつも祖母がいた。美千代にとっては一人で離れの二階にいるよりも安心できる場所だったのだ。


 ズッズズズッ……ズズッ……ズッ……

 

 何かを引きづるような、そんな音にぼんやり目を開けるのとほぼ同時に、ドサッと、それは落ちてきた。美千代の目の前……そう、言葉通り、目の前だ。


 逃げる間もなく顔に向かって落ちてきた瞬間、声など出なかった。あまりの恐怖を感じた時、人は声など出ないのだと知った瞬間だった。


「動くんじゃないよっ!!噛まれるよっ!」


聞いたこともないくらいに大きな、怖さを感じる声で祖母が怒鳴り、横目で見ると、慌ててこっちに来る祖母が見えた。動くんじゃないよなどと言われなくても、恐怖で動けない。


「爺さーん、爺さーん、まさきー、しんじー、誰かいないーー?ヘビ―ヘビーヘービー」


 大声で人を呼びながら、あきらかに慌てふためく祖母は、ヘビを追い払おうと手に持ったのは、裁縫で使う物差しだった。


……そんなもんじゃ無理だよ。


 顔の上からヘビが滑り落ちたことで、ほんの少し顔を横にでき祖母を見ると、物差しでヘビの中腹辺りを持ち上げようとしているところでそう思った。そんな家の中の騒ぎに気付いた叔父の真志が手にしていたのは、一本の鍬だった。


 真志はその鍬の柄の部分にヘビを引っ掛けると土間に落とし、鍬の先をヘビに向けて一振りした。


「ダメ―――!真志――!!」


 大きな声で止めようとした祖母の声も虚しく、その鍬の先はヘビの頭に振り下ろされた。


「し……しんじ……あんた、ダメだよ……今、ダメじゃないか……」


 その村には古くからの言い伝えがあり、妻が妊娠中はヘビを殺生してはならぬというもので、子どもにヘビの呪いがかかると言われていた。


 その冬、生まれた真志の息子の左わき腹から尻に向かって、まるで頭をスパッと切り落とされたヘビのような、細長く赤い痣が出ていた。


「まんず、男の子でよかった」


そんなことを祖母が言っていたのを今でも覚えている。


 実家の庭の片隅には、ヘビ様の祠が立てられ、それからずっと、今でも兄の家族が毎日手を合わせている。


 それが功をなしたかどうかはわからないが、真志の息子の真也の脇腹の痣は、年々薄くなって、今ではほとんどその痕跡がわからないほどだ。


 が、ヘビ様の呪いは決して終わったわけではない。


 こうして長期の休日があるたびに母子して実家を訪ねるのは、この祠に祈りをささげるためだった。そう、出てしまったのだ……千奈に。


 叔父の真志とその息子の信也は、千奈が生まれたときから、それはもう平身低頭状態であったし、毎日のように実家を訪れヘビ様に手を合わせてくれていた。


 だが、右腕に出た千奈の細長い赤い痣は、まだ消えてはいない。家を出た美千代に対して、「忘れるなよ」とヘビ様が訴えているかのようだ。そうだ、あのヘビはそもそも美千代の顔に落ちてきたヘビなのだ。


「あーん、あーーん、ママーーーママーーー」


貴史が泣いている。2歳になったばかりの貴史のためにも、ヘビ様への祈りは心を込めてやらなければいない。


「千奈、たっくんが泣いてるから上に行くね」


そう声をかけ2階へ戻った。


 目を開けたら誰もいなくて怖かったのだろう。貴志は涙をぽろぽろ流していた。その顔を目にし、またもやドキッとしてしまった。こんな暗い場所では、どうしてもそれがあの日の目の前にいたヘビと重なる。


「たっくん、大丈夫だよ。怖くないからね」


そう言いながら、愛しむように、その赤い痣を摩りながら涙を拭った。


「ごめんね、痛かったね。ごめんね」


貴史のその赤い痣は、有り難いことに薄くなってきていた。美千代が擦ってきた回数だけ、薄くなっているように思う。それに気づいてから、千奈の痣も毎日擦っている。


「忘れないよ。私が覚えているから、ちゃんと覚えているから」


ヘビ様にそう言葉をかけながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

短編集 村良 咲 @mura-saki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ