第7話 明晰夢
夢の中でこれが夢だと自覚する。
なぜならもうこの世にはいないあの人がそこにいるから。
そして、近くにもう一人。
おそらくこれは最後の夏休みの記憶。
なぜなら、三人と一匹で過ごしたのは最後の夏だけだからだ。
「
「うん。ありがとう。火の準備もできたしお昼にしよっか」
「じゃあ魚さばいとくね!」
「お願いね」
十歳になった俺は一人で魚釣りはもちろん、魚をさばくことも火を付けることも簡単にできるようになっていた。
「串は口からさして、エラ通して…うんっ!できた!」
奏が準備してくれていた七輪に俺が下ごしらえをした魚たちを次々と乗せていく。この日は五匹釣れた。
「奏が三匹食べていいよ!」
「そんなに食べれるかな」
「奏はひょろひょろだからちょっとは食べたほうがいいよ」
「おっ言ったな~。それじゃあもらおうかな」
今思えば、ちょっと近めの距離感。親と子の距離でもなければ、先生と教え子というほどの堅い関係でもなく、かといって叔父と甥という本来あるべき言葉でくくるには少し不満が残る間柄。
「それにしても、空太郎もだいぶ自給自足ライフになじんだね」
塩焼きにしたヤマメを頬張りながら、奏が話始める。
「もう四年目だからね!でも、今年はなんでか、おかーさんがちょっといやそうだったなー」
「嫌そうって、空太郎が
「うん」
「…そっか」
奏は表情は変えずに、ただすっと考えるような目をしていた。
それもつかの間、ぱっと顔を上げると何やら遠くを見つめる。
俺もつられてそちらを向くと—
「うーん…お客さん?」
遠くに小さな人影が見える。奏の家の庭先から入り口の木門までは少し距離がある。それでも普通の来訪者であれば、門の内に入る前にチャイムを鳴らすため、気づくことができる。まれに近所のおじいちゃんやおばあちゃんがボケて入ってくることはあるが。
「奏、あれ子どもじゃない?」
「そうみたいだね。ちょっと話聞いてくるね」
そういって立ち上がると、遠くの人影がビクッと揺れる。
「…やっぱり、先に空太郎が話を聞きにいってくれるとうれしいな」
「えー?」
「もしかしたら、友だちになれるかもしれないよ?そしたら一緒に釣りにも行けるし、もっと楽しい遊びができるかもしれないよ?」
「ほーほー…うん!それ、いい!採用!」
俺は奏と二人でも十分楽しかったが、学校外での友だちというのは初めてだったので、その魅力が勝った。
今思えば、大人だけで子どもに近づけば怖がらせてしまうことを奏はわかっていたのだろう。
出てくのか出ていかないのかオドオドと決めかねている小人に近づく。
「どちらさまでしょーか?」
「あっ…えっと…」
小さい女の子。たぶん年は同じかちょっと下。目線がずっとあっちへいったり、こっちへいったりしている。
「もしかして、おなかすいたの?」
「えっ…?」
「だって、いいにおいがしたからきたんでしょ?」
なかなかファンキーな推測。
「え、いや…ちがっ…」
「ちょうど一匹余ってたからこっちでたべよ!ねっ?」
奏に譲ったはずのヤマメを勝手に余ったものにしてしまう俺。
手を握って奏のもとへ連れていく。
「奏!この子ね!魚たべたいって!」
「いやっ…あの…」
「こんにちは。魚、食べたいの?」
「いや、違くて…」
「奏の余っていた一匹ちょうだいよー!」
どんどん話を勝手に進めていると。
「空太郎」
と。これはいつものやつだ。奏は俺がなにか悪いことをしたり、間違えたりしたときは、いつもこの優しくて、それでも芯の通ったトーンで俺の名前を呼ぶ。
「ちゃんと話を聞くこと」
「はーい」
どうしてもこの口調で言われると、反省せざるをえなかった。
母さんに怒られるときはいつも大きな声で、いかにも「私、怒ってます!」という態度でこられるから、こっちも反発してもっとひどいことになる。
奏の諭すような、そんな口ぶりは好きだった。
「それで、キミはどうして
「あの…その…今日、ピアノないんですか…?」
「ああ、ピアノ聴きにきてくれたのかな?」
「このまえ、たまたま聞こえて、それで、あの…」
奏は趣味で毎日ピアノを弾いていた。だいたい昼ご飯食べ終わった後くらいから一時間ほど。ノッているときは三時間くらい弾くときもあるらしい。
そして、どうやらこの子はそのピアノの音が気になって入ってきてしまったらしい。
「なるほどね。今日も弾くから、よかったら聴いていく?」
「はいっ…!あの…ありがとうございますっ!」
少女はぱあっと目を輝かせながらお礼を言った。
「…ところでなんだけど」
奏が話題を変える。
「お腹いっぱいになっちゃって…よかったら一匹、どう?」
少女は串焼きにされたヤマメに躊躇していたが、一口食べると見た目によらずガツガツと食べ始めた。よほどお腹空いてたんだな。俺、あってたじゃん。
俺が七輪の後片付けをしている間、奏と少女はピアノの側で何やら話しているようだった。
ピアノ(正確にはオルガンだったが)は一番大きな居間の壁際に置かれていて、障子をすべて開けば、音も外に抜けるようになっていた。周りに民家もほとんどないため、奏はいつも障子を開けて弾いていた。そのスタイルが一番気持ちがいいらしい。
俺が後片付けを終えて二人に近づく。
「空太郎、この子の名前、
「シンちゃん?かっこいい名前だね!」
「はい、こっちは空太郎」
「クータロー、くん…?」
「あい、どうも空太郎です。そんでこっちは奏」
「そう…?」
「呼びづらかったら、おじさんでいいからね」
「うーん…奏、おじさん?」
「うん、それでいいよ」
なんとなく自己紹介タイムが終わると—
「ウォフ…」
「あ、クオがおきた」
のそのそと小麦色の毛をなびかせて部屋へ入ってきたのはゴールデンレトリバーのクオちゃん。本当は『クオーレ』という名前らしいけど、面倒なのでクオって呼んでいた。
小一の夏からいるけど、人に吠えているところをまったくみたことがない。客人がきてもいつも「スン…」としている。
今回の真ちゃんの来訪にもまったく動じずにすやすやと寝ていたらしい。
「わっ…おっきい犬…」
シンちゃんが突如現れた大きな毛玉に驚いている。無理もない。
小一のころ俺が初めてクオにあったときも自分より大きくて確かに怖かった。それでも触れるともふもふしていて気持ちがいいし、どれだけ自由にいじってもまったく怒らなかったものだから、調子にのって背中にまたがったり、耳を引っ張ったりしていた。
そんなふうにクオをいじり倒していたら、
「空太郎」
いつものやつ。
「これみてごらん」
奏はクオの歯を見せてくる。
「犬はこんなに鋭い歯をもっていて、襲おうと思えばいつでも人を襲えるのに、なんで襲わないんだと思う?」
「うーん…人のほうが、えらいから?」
「えらかったら襲わないの?いやなことされたら、えらくても襲っちゃうんじゃない?」
「…そんなの、わかんない」
「うん。クオは優しいから怒らないけど、このまま嫌なことをし続けたらいつか空太郎を食べちゃったかもしれないね」
「…」
「だから常に優しく接しなさい。クオの優しさに甘えないこと。優しさには優しさで返せる、そんな人になろうね」
「はい…」
それ以来、俺はクオに優しく接するようになった。その甲斐あってか、ある日夜寝ているとそっと近くに寄ってきて一緒に寝てくれることがあった。
小さなことだけれど、とてもうれしかった。クオに認められた気がしたから。
そんなことを考えているとシンちゃんはびびっているのかクオに近づこうともしない。というか奏の後ろに隠れてしまった。
ここは先輩として手本を見せてやるか…
「クオ!お手!」
「…」
「お手!」
「…」
こいつ…やる気がねえ…
「空太郎、クオにお手してもらったことあるの?」
「いや、ない…」
「ふっふっ…本物の信頼関係を見せるときがきたな…」
奏はそんなことを呟きながらクオに近づく。
「クオ、お手」
「…」
「クオちゃーん、お手」
「…」
「お手」
「…」
「…今日の晩ご飯抜きだな」
「…ウォフ」
クオは嫌々お手をする。
「みた?これが信頼関係だから」
そんな様子を尻目にどや顔をする奏。
「ご飯で釣ってる…」
シンちゃんがぼそっと呟く。
「シンちゃんもやってみる?」
こくんと控えめにうなずくと小麦色の毛玉に近づく。
「クオ…お手…」
おずおずと差し出された右手に—
「ウォフ」
「まじか」
こいつ、一発でお手しやがった…
「おじさんになっても女の子が好きなんだねえ…」
感慨深げに奏が一人ごちていた。
シンちゃんとクオの対面を終えて、やっとピアノを弾くことになる。
実のところ俺も奏が弾いている姿をみて興味がわき、少し教えてもらっている。おかげさまで少しなら弾くことができた。
「それじゃあ、最初は僕と空太郎で連弾してみよっか」
「あいあいさー」
連弾といっても、一人でできる曲を二人で弾くだけなのだが。それでも、二人一緒に弾くのは音が重なり合う楽しさがあって好きだった。
いつも弾いている有名な
奏はクラシックというよりかは邦楽が好きだったらしく、このときに弾いていた曲がよくスーパーやコンビニで流れているとうれしい気持ちになる。
一通り弾き終わると、ぱちぱちというささやかな拍手が送られる。
「空太郎、上手でしょ」
「はいっ…びっくりしました…!」
「まあねえ~」
シンちゃんは目の前の生演奏が大層気に入ったらしく、ずっと目をキラキラさせていた。
すると突然、
「あ、あのっ…!」
「ん?」
「弾いてみてもいいですか…?」
とシンちゃんは言い出した。
「うん。もちろん」
シンちゃんはおぼつかない手つきで鍵盤を懸命に押す。
ぽろん、ぽろんというたどたどしい音色が広々とした居間に響く。
しばらくすると、ふいに口を開く。
「あ、あの…」
「うん?」
「また、弾きにきてもいいですか…?」
どうやら、初めてのピアノがお気に召したのか、またきたいという申し出だった。
奏はなにやら考えていたようだが、
「うん。夏休みの間は空太郎もいるし、いつでもきていいよ」
と少女のささやかな願いを受け入れていた。
「おっ!?ついに三人で遊べる!俺、あれやりたい!あの、ものぽりぃ?ってやつ!あれ、二人じゃできないんだよ!」
「わかったわかった」
俺は夏休みの遊び相手が増えたことを純粋に喜んでいた。
それからの一カ月は本当に楽しい日々だった。
人生で一番の夏休みだった。
また来年も会えると思っていた。
だから、最後だなんて意識することもなかった。
この夢も自分の記憶から生まれた夢。
ずっと浸っていたくなるような、そんな優しい日々の夢。
覚めなければいいのにとも思う。
それでも、もう返ってこない。
わかっているから、だからもう少しだけ、この夢を見させてほしい。
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