『MACARON JASMIN』

「爪、縦長になった?」

 マカロンの上空で彷徨さまよわせていた指を止めた。

 自身の爪に目を細めて──柚木の感想の意味するところを探る。こういうところに気がつくから(そして素直に口に出せるから)、この優男はやたらとモテるのかもしれない。

昨夜ゆうべ爪の甘皮切ったからおっきく見えるのかも。お風呂上がりにやわらかくなった甘皮をこうやって押し上げて、ネイル用のニッパーで切るの」

 プッシャーで甘皮を押し上げるジェスチャーを交えながらそう教える。

 うわぁ痛そうと柚木が口許を歪ませて言った。唇の端に真珠色をしたマカロンの欠片。何味だったんだろうなぁと頭の端っこで思いつつ、痛くないようにしてるのと笑って返す。私が、初めて友だちに甘皮の処理を実演してもらったときと似たようなリアクションだった。

 マニキュアも塗ってたりするんだ──とは言わなかった。


 そこまで染まっていると告白するのは、何だか裏切りのような気がしたから。


 中学に上がって以降、私は柚木がひとりぼっちでいるところを見たことがない。

 十三歳の誕生日を迎え、いきなり美少年になりましたというわけではない。もともと顔立ちは整っていた方だとは思うのだけれど、だからってクラスの枠を超えてウワサになるようなイケメンじゃない。実際クラスの大半は、もうじき学年が変わる今でも柚木のことをいつもにこやかでどこかズレてる天然君だと評しているはずだ。


 ただ、中には柚木の魅力に気づいてしまった、柚木の中に小さな生きがいを見つけてしまった人たちもそこそこいるようで。


 この人は放っておいたら危ない、下手をすると小学生にさえいじめられるのではないか、一人で登下校させたら交通事故に遭うのではないか、私が守ってあげないと、傍にいてあげないと──。

 マカロンをくれた布川先輩だって、柚木のそれに当てられたうちの一人だろう。

 そう、同じ小学校から上がって来た子たちだって中学に入ってようやく気づき始めたのだ。


 ──じゃあ、ひーちゃんにしようよ。


 私は、あの頃からとっくに気づいていたのに。

 そんな柚木を遠巻きに見守るのが日課だった。窓際の席で友だちの話をテキトーに聞き流しながら、なるべく色のない瞳を装って柚木と誰かしらがいるのを眺めていた。幼馴染の絶対特権を主張したりはしなかった。ただ、あなたにすり寄ってくるお友だちが、本当にお友だちなのかどうかを勘という名の大雑把な基準で検閲していた。


 私から柚木に近づくことは滅多になかった。


 こっちはこっちで付き合いがあったし、幼馴染という関係がハンパに知れ渡っている以上、二人でいると悪目立ちしてしまうし、何より──柚木が私の「学校であんまひーちゃん呼ぶなオーラ」を重く受け止め過ぎてしまっていたというか、かく言う私も巧いことフォローできないままぐずぐず流されてしまったりして。

 ただ、一番は柚木の交友関係に安易なちょっかいでヒビを入れたくなかったから。それは、私のおせっかい抜きに柚木が自分の力で広げた人間関係だったから。

 あるいは。

 

 ──バレンタインチョコ、僕一人じゃもったいないから一緒に食べない?


 最後の最後で、どうせあなたは私のもとへ来てくれるからと信じていたのかもしれない。

 そういえば、真島まじま君だっけ。職場体験をきっかけに、柚木が仲良くなったと話していた男子。

 柚木の友だちは概ね愛玩動物のように柚木を可愛がる傾向にあるのだけれど。真島君の場合は、まるでガラス細工でも扱うかのように接していた。しかも、肉親の形見とかカノジョにプレゼントされたそれではなく、もし割ったらウン百万弁償ですからね──と釘を刺されているそれとにらみ合っているかのようなぎこちなさで。

 柚木と一緒にいるとき、ゲームやアニメなんかの話題で盛り上がっているとき、どういうわけか──表情に、不安の色がちらついていた。距離間に緊張感がにじみ出ていた。どうしてそんなふうに思ったのかと訊かれたら、これはもう女の勘としか答えようがない。 


 思えば、全然予想と違った。


 あなたは中学生になっても何の恥じらいもなく私のことをあだ名で呼んできたし、私は休日も一緒に過ごす女友だちができたけれど、どんなに楽しくたって柚木のことを綺麗さっぱり忘れるには至らなくて。そりゃあ遊びの中で薄れる瞬間もあったけど、あとになって熱が冷めてきた頃合いで──頭の中、あなたを爪弾きにしていた自分に罪悪感を覚えるのだ。


 私と柚木は、二人の関係が変わってしまうことについては受け入れていた。


 諦めて──いたのだけれど。私が王子様でなくなること、柚木がお姫様でなくなることに対する心の準備はできていなかった。

「そういえば、この前初めて買ったんだ。ヘアワックス」

「──うん」

「けど、動画でセットの仕方とか見てたら結構面倒臭そうで。朝アレをやってる余裕があるならその分もうちょっと寝てたいっていうか」

 結局今日もつけてないんだよね──と柚木の指先が、多分まだ寝癖直しウォーターくらいしか知らない黒髪を弄る。まだ出っ張っていない喉仏、ニキビのない肌、私より僅かに低い目線の高さ、カサつきのない唇にもうあの真珠色は見当たらなくて。口許が、緩む。スミレ色のマカロンをちょっとだけかじった。さくり。ベリーみたいな甘酸っぱさの向こうで、バニラのやさしい匂いがする。


 私は、柚木のことが好き。


 けれど──それはまだ男性になりきっていない、お姫様を卒業していないあなたに向けた想いで、きっと成長痛みたく一過性のもの。あれってどんな痛みだったっけと、そう遠くないうち思い出せなくなってしまうもの。

 今朝家を出る直前、母さんとしたやりとりが頭に浮かぶ。母さんは私のマフラーの巻き方を見て、まひろちゃんもそういうの気にするようになったのね──と嬉しそうな声で言った。

 その日、私がしていたマフラーの巻き方は、偶々コーディネートサイトで見かけて、どうせ"素材"がイイからこう見えるんだろうなぁと斜に構えつつも可愛いと思ったからマネしてみたもので。別に──何てことない気分転換のつもりだったのだけれど。


 ああ、これが順調に女らしくなっているということかと。


 私は、可愛いと判断したから女としてより可愛くありたいと望んだから、この巻き方を試みたのだ。かろうじて行ってきますとは言えたものの、何だか──逃げ出すように家を出てしまった。

 ネイルだってきっかけは友だちの半ば強引なお誘いだったけど、厭々いやいややっているわけじゃない。綺麗に塗れるとその日一日頑張ろうという気になれるし、いつもより胸を張って歩ける。

 私は、もう王子様なんかじゃない。

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