『MACARON AMER』

「あのさ、もう──まっひーって呼ぶの止めない?」

 事前に練習していたときよりも、ずっと低くて感じの悪い声だった。昨夜ゆうべ手鏡を見ながら何度も唱えたその言葉は、イメトレ通りならもっと軽やかで、これまであなたの手を引っ張ってきた、頼りがいのあるまっひーらしさに満ち満ちているはずだった。

 なのに、実際の私は──山田まひろはあなたの顔さえ見ていなくて。いっそ、届いていなければと。沈んだオレンジ色の空──電線に並ぶムクドリのシルエットとか、近くのお家の換気扇から流れてくる炒め物の匂いとか、公園にたむろしている中学生のバカ騒ぎとか、そういうものに偶々あなたが気を取られていて。私が目線を上げたときには、「まっひー、何か言った?」ときょとんとした顔で訊いてくれることを期待していた。

 恐る恐る見たあなたは。

 ただ、目をみはっていて、僅かな驚きこそあってもちっとも傷ついているふうには見えなくて。何ならランドセルの肩ベルトをきつくきつく握り締めている私の方が泣きそうなくらいで。

 あなたは四年生になった今でもご近所のオバちゃん連中から女の子みたいねーと持てはやされるルックスのくせ、意外と凛々しい形の眉を寄せながら、三十秒ばかし首を捻ったあと、

「ああっ」

 一転、その表情を輝かせてしまう。


「じゃあ、ひーちゃんにしようよ」


 流石に──唇の端がちょっとひくつく。

 何それ? 私らもう四年生で、男子と女子だよ? 一緒にいたら色々ウワサされるでしょ? あることないこと陰で言われちゃうでしょ? でも、いきなり切り離してしまうのは──あなたが可哀想だから。泣いちゃうかもしれないから。幼馴染として、あまりにも薄情だと思ったから。だから、まずはあだ名で呼ぶことから諦めていこうって。呼び方から遠ざかっていって、その距離感に慣れていこうって、そう思っていたのに──。

 笑えない。何て返したらいいのかわからない。ただ、悔しいけど。


 涙は、もう引っ込んでいる。


「僕もまっひーはちょっと子どもっぽいかなぁと思ってたんだ。どう? ひーちゃん」

 心底得意気な顔で、たった今更新アップデートされたばかりのあだ名で、私を呼ぶあなたに。

「──いーんじゃない?」

 私は、小さく鼻をすすってから用意していた台詞とは全く違う言葉を返す。

                ※

 いかにもフランスっぽい筆触タッチでピンクのバラやらレモンの輪切りやらが描かれた小箱には、高飛車で悪ふざけみたいな色をしたマカロンが六つ詰まっている。生涯のうち、今日ほどこの──フランスだかイタリアだかで生を受けたこの焼き菓子がマズそうに見える日もないだろう。

 柚木良悟ゆずきりょうごは手の中に鎮座ましますマカロン伯に細く感嘆の声を漏らしてから、そっとフタを閉めた。

「いや、何で閉めてんの?」

「だってぇ、改めて見ても高そうだったから」

 改めて──ね。

 逃げるように、見上げた空は高くて青い。

 どうにもやる気を奪われる空模様だなぁ──なんて思い馳せつつ、白い息を乾いた空気へとこぼす。マフラーに顔をうずめた。手をこすり合わせながら、なーにが記録的暖冬だよと朝の気象予報に心の中で悪態をつく。

「寒い? 今日あったかい方じゃない?」

「男と女の体感温度一緒にすんな。赤い肉と白い肉の割合が違う」

 そう言い切るくせ、どっか屋内で食べようよ──とは言わない。そんな提案しようものなら「じゃあ、僕ンち来る?」とか「なら、ひーちゃんの家行こうよ?」とか、平然と言い出しかねない。それも異種交配でかわいくできましたー的な小動物を思わせる、悪魔的上目遣い込みで。


 そんなもの──無様に押し切られる未来しか見えない。


 非常階段を下りたすぐそば、私と柚木は校舎の壁を背に隣り合って座っている。お尻の下には去年の反省点を踏まえ、柚木の持参した二三人用のレジャーシート(目にもニギヤカなスヌーピー柄)が敷かれていて。二人の間には、マカロン六つ分の距離がある。

「今年は──誰から貰ったの?」

「三年の布川ぬのかわ先輩」

 ──三年?

 自身を抱きしめるように、二の腕あたりを摩擦していた手を止める。

「柚木って、帰宅部でしょ?」

「一年の頃、僕テニス部入ってたから。そのときお世話になった先輩」 

 へぇーと平坦な相づちを打ちながらも、つい考えてしまう。柚木調べによれば、このマカロン一箱で何と三千円を超えるらしい。中三女子が中学最後のバレンタインに、たった一年だけ部活でお世話してあげた後輩男子にこんなクソ高マカロン贈ります? それこそ。


 手紙とか──入ってなかったの、なんて。

 

 真面目に訊く勇気も、茶化すふうに訊き出す器用さもなかった。見ても高そうだった──というのは、つまりそういうこと。柚木が紙袋からマカロンの入った箱を出したとき、開封済みであることはすぐにわかった。それでも、手紙の有無を訊いて、柚木がうん入ってたけど──なんてけろりとした顔で答えようものなら、私はこれからどんな顔をしてこのマカロンを摘まんでいいものか、わからなかったので。

                ※

「バレンタインチョコ、僕一人じゃもったいないから一緒に食べない?」

 去年の二月十四日──教室から私ら以外の生徒がいなくなったタイミングを見計らって、柚木がそう耳打ちしてきたとき、私はコイツいよいよ頭おかしくなったんじゃないのって、危うく短い悲鳴を上げるところだった。

 思えば、昔から柚木はこういうところがあった。美味しいものは友だちと半分こしなさい。おもちゃは友だちと一緒に遊びなさい。一人用のゲームも友だちと代わりばんこでプレイしなさい。それが柚木家の教育方針なのかどうかはわからないけど、とにかく柚木が──誰かと分かち合って、譲り合って、いやな顔しているところなんて、私は一度も見たことがなかった。

 そう、だからちっちゃい頃の柚木はよく虐められていたのだ。言われたら、どんなお気に入りも──それがいじめっ子による強要でなくとも、すぐ差し出してしまうから。先にいた遊び場所も、手を繋いでいた友だちも、すぐに譲ってしまうから。

 だから、アイツはビビリだって、何でもかんでも言うこと聞くって舐められていたのだ。


 善く言えば博愛で、悪く言えば致命的にどこかがズレていた。


「あっ、ダイエットしてるとかなら無理しないでいいよ? 他の──」

「食べるっ」

 やや食い気味に、マジでその一言以外口にしなかったもんだから、もしかしたら柚木には相当食い意地張ってる女だと思われたかもしれない。正直どうだってよかった。とりあえず、阻止はできたのだから。

 ──無理しないでいいよ? 他のに声かけるから。

 柚木が、私以外の誰かと一緒に他の女子から貰ったチョコを消費するのは、何だか気分が悪かったから。

 二人きりになれる丁度いい場所を探して、ねぇクソ寒いんだけどバカじゃんという私の不満をよそに、非常階段のすぐ傍へと柚木が腰を下ろして──。校舎の壁に背をもたせかけ、雑草の上に渋々座った私は、柚木にこう訊いた。

「柚木ってさ、何か独りじめにしたいって思ったことないの?」

「ないなー」

 即答だった。その間も、柚木は付属の楊枝みたいなヤツで、隣同士くっつきあった生チョコを切り分ける作業に専念している。そのあとの「生チョコって超絶美味しいよね何ならこの世のチョコみんな生チョコでいいんじゃないかな」という頭カカオ農園な呟きは、ビターにスルーしておいた。

                ※

「何か聖書読んでるような気分」

 咽せた。ショコラの匂いが勢いよく鼻から抜ける。

 あまりにも──食レポが独創的過ぎる。私の眼差しに思うところがあったのだろう。それぐらい厳かな気分ってことだよーと柚木は唇を尖らせた。

 私も負けじとマカロンの歯ごたえって何かえっちじゃない──くらいは言ってやろうかと思ったのだけれど、ノッてこられたらこられたで大変困るので自重しておく。

 ただ、柚木の感想もわからなくはない。確かに生まれ育ちの良さそうな──品行方正なお味がする。フランスだかイタリアだかの花道を悠然と歩いている気分だ(そこはどこだよなどとはどうか訊かないでほしい)。これが少女漫画なら、柚木クンの隣で食べるマカロンなんてドキドキして味がわかんないよ~とか、柚木のためを想って布川ナントカ先輩が贈ってくれたものをちゃっかりいただいていることに対する罪悪感からマカロンASMRを聴きながら砂噛んでるみたいな状態になりはしないかと不安だったけど。杞憂も──いいとこだった。お値段相応、フツーに美味しい。

 しかし、布川先輩て──。

 我ながら、敵意むき出し過ぎてちょっと笑う。

 ショコラフレーバーのマカロンを食べ終えて、さあ次はどれにしようと迷っているフリをしながら、ちらと柚木の手を盗み見る。

 半分以上欠けた、やわらかいアプリコットカラーのマカロンを摘まんだあなたの手は。同世代の男子と比べれば色白で繊細なんだろうけど、それでも確かに骨張っていて──うっすら血管の浮いた、男子というより男性の手をしている。

 ああ、また手の"情報量"が増えた気がする。

 昔は、もっとお姫様みたいな手だったのに。

                ※

 あの頃、山田まひろは王子様で柚木良悟はお姫様だった。

 程度を知らない博愛主義のお姫様は、みんなからイジられる恰好の的だった。頼まれたら、命令されたら、何でもかんでも笑顔で首を縦に振るものだから──普段ならそういうことに加担しない子たちまで、あなたは引き寄せてしまっていた。

 私は、自ら柚木の盾を買って出た。

 本人からなってほしいと頼まれたわけではない。そもそも柚木には、自分が良いように扱われている自覚さえなかった。ただ、放ってはおけなかったし──私と柚木が遊んでいる砂場までわざわざやって来て、お前らいつ結婚すんだよとか茶化しに来た大バカ野郎のアホみたいに開いた口めがけて目一杯砂放り投げてギャン泣きさせる程度には、私もキモが据わっていたので。そんなこんなで、何かとトラブルを持ち込んでくるあなただったけれど──。

 それでも、私は柚木の隣にいるときが一番気楽だった。

 

 母さんは、私に女らしくあることを望む人だった。正直にいうと、女らしく振る舞うことはキライじゃなかった。女の子っぽい洋服を着ることも、カワイイぬいぐるみだってこっそり名前をつけるくらいには好きだった。

 それでも──押し付けられるとなると事情は変わってくる。特に黒髪ロングで、言葉遣いがキレイで、ピアノが上手で、ああこのいま絶対膝小僧に絆創膏なんて貼ってないんだろうなーみたいな。そんな、温室育ちの妖精みたいな娘と比較されるのは苦痛だった。


 柚木と一緒にいるときは、自分の男勝りなところが全て肯定されている気分だった。


 躰を張って柚木を守った武勇伝を食卓でお披露目しても、母さんは複雑な顔こそすれそれを全否定することはなかった。そこには、自分より小柄で性根も弱々しい幼馴染を守っているという大義名分があったからで、父さんと弟がこの手の活躍に対して好意的だったから──というのもあるかもしれない。

 一度、柚木に愚痴ってしまったことがある。母さんが私にもっと女の子らしくできないのって口酸っぱく言ってくること。学校からの帰り道、二人して住宅路を歩きながら。

 当時の私がどこまで上手いこと、自身の胸の内を伝え切れたのか。当時のあなたがどこまで上手いこと、私の抱えているコンプレックスを理解できたのかはわからないけれど。


 ──まっひーがオトコの子っぽい方が、僕はずっと助かるのにね。


 当時のあなたは、当時の私が求めていた答えを言ってくれた。

 きっと、大きくなったら私たちの関係は変わってしまう。

 あなたと私の身長が並ぶ頃には、もうあなたは恥ずかしがって私のことをあだ名で呼んでくれなくなるかもしれない。私だってもっと気の合う女友だちができたら、あなたのことなんてすっかり忘れて毎日遊び倒してしまうかもしれない。

 それでも、私は──山田まひろは王子様のようにカッコいい女に育って、柚木良悟はお姫様のようにカワイイ男に育つのだと。

 そのときは、そう信じていた。

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