『二月十四日』

 今日、真島誠志郎は柚木良悟にチョコレートを渡す。柚木の答えがどうあれ、俺は差し出したそれを冗談だと笑って片付ける。柚木の未来これからのために。アニキのを応援してくれている妹のために。


 その決意が──早くも揺るぎ始めようとしている。


 放課後の教室に、二人きりだった。互いに示し合わせるまでもなく、俺たちは他の生徒が居なくなるのを待っていた。

 一度だけ全くそんな気はないくせにそろそろ帰らねぇ──と提案すると、柚木は特別焦ったふうもなく、どこか気怠そうに口をもごもごさせたあと、

「まだいーんじゃない」

 とだけ言った。

 猫みたく机の上にしな垂れた柚木の上目遣いから、俺が目を逸らしたことは言うまでもなく。

 柚木は、何を考えているのだろう。中学最後のバレンタイン。男友だちである俺と一つの机を挟んで、向かい合って。何を──待っているのだろう。

 どこまでもチキンな俺は、心の片隅でもし柚木にチョコを渡しやすい状況が巡って来なければ、それを言い訳にこの"実験"を無かったことにしようとさえ考えていたというのに。もしかして、は──。


 俺に、気があるんじゃないのか。


「──マジー?」

「何だよ」

「いや、それ言いたいのこっちだかんね? 急に耳つねってどーしたの」

「──ドーパミンの分泌抑えてんだよ」

「しょーもない嘘だなぁ」

 呆れ混じりの笑みをちらと覗かせたあとで、柚木はすっと窓の外へと目線を移す。

 そこに、あのこみ上げてくるような茜色はなかった。あの澄み切った青色も。埃色を背景に、粉のような雪がただ降り落ちている。

「明日積もるらしいよ。天気予報で言ってた」

「──マジ?」

「ウソ。予報は見たけど中身は憶えてない」

 半開きに歪めた口はそのままに、柚木を見た。柚木が、悪戯っぽく目尻を下げた。


「しょーもねぇ嘘」


 いつも通り、下らないことで笑い合って。どちらからともなく、静まり返る。

 案外──皆残らないもんなんだな。放課後の教室で好きな相手にチョコを渡す。もしかして、俺の認識が時代遅れなのだろうか。皆他に、教室以外でもっとイイ場所を知っているのだろうか。それとも──中学最後のバレンタインに想いを告げるだなんて。もう手遅れだということなのだろうか。

 あっそうそうと思い出したように柚木が言って、鞄から取り出したのは。

「どーよ、マジー」


 クリア袋とクラフト紙で、オシャレ且つ愛嬌たっぷりにラッピングされたチロルチョコたち。


 ひゅっと喉が鳴って、俺はむせた。激しく、柚木からからだを背け、前のめりになるくらいには。マジー大丈夫と席を立ち、何なら背中をさすりかねない柚木を手で制した。

「大丈夫。大丈夫だ。ただ、コレは──」

「ひーちゃんから貰ったんだよ」

 チョコを顔の横に並べて、得意げに微笑んで見せる柚木。

 ──ひーちゃん?

「ほらー、緑化委員の」

「緑化委員──ええっと、山田?」

「そっ、山田のひーちゃん。弟がマリカ得意な!」

「いや、それは──初耳だけど」

「えー、そうだっけ? んふふーゴメンねマジー。何か他の人に話したのとごっちゃにしちゃってるかも」

 いつもなら──仕方ないヤツだなと、笑って流せる柚木の言葉一つひとつが。


 今日は、やたらと胸のあちこちに刺さる。


 緑化委員の山田。無個性過ぎる名字が返って個性的で憶えてこそいたが、下の名前までは知らない。忘れたのではなく、多分知らない。だから、どこをどうもじって「ひーちゃん」というあだ名が生まれたのかもわからない。

 柚木はひーちゃんと居るとき、どんな話をするのだろう。ひーちゃんとの間に、どんな思い出があるのだろう。このチョコを受け取ったとき、柚木の心臓は。


 やはりドキドキしたのだろうか。


 俺の心中などお構いなしに、封を開けてチョコの分配を開始する柚木。いや、気持ちはありがたいっちゃありがたいんだが──。

「こういうの俺が食べるのってアリなのか?」

「アリでしょ。チロルだし、どう考えても義理だし」

 そこは──重いヤツだと思われたくないから、安物を選んだのかもしれないじゃないかと言おうとして、口をつぐむ。何でこのに及んでひーちゃんのフォローに回ろうとしてんだ、俺は。

 配られたチョコを見る。だったそれは柚木がちゃっかり一個多めに取っていて、柚木の好きな抹茶わらびもちはこれまたちゃっかり柚木の手許にあった。

 柚木の指が、チョコを摘む。それでも、何か思うところがあったのか──転がすようにいじっただけで包装は剥がさず、机の上に戻した。

「中学最後のバレンタイン。女の子から貰った唯一のチョコを友だちと分け合う。なーんかイイ感じだよね」

「どこがだよ」

「全部だよ」

 その即答にはっとして。俺は、柚木の顔を見た。眉尻が困ったふうに下がっていた。


「すっごい忘れられない思い出って感じする」


 俺は──てっきり中学を卒業して、離ればなれになった後も、この関係がだらだら続くものだと思っていた。柚木も俺と同じ気持ちであると思い込んでいた。

 けど、違った。

 俺と柚木の間には、確かな温度差があるのだと今思い知った。


 柚木は、俺を思い出にしようとしている。


 大事に取っておくだけ取っておいて、二度と開かないアルバムの一ページにしようとしている。中学時代、他の人よりちょっと仲良しだった、バレンタインに戦利品を分け合った一人の男友だちとして。過去の人にしようとしているのだ。 

「ユズ」

 指の端が、机の中にしまっておいたチョコへと届く。

 もういいだろ。渡しちまえ。何なら告白までやっちまえ。

 そうすれば、俺は。真島誠志郎は。


 傷痕として、柚木良悟の中に残ることができる。


 深く歪に、刻まれることができる。気持ち悪いと、理解できないと、そんなつもりで僕に近付いたのかと、僕に──何を期待していたのかと、罵倒して殴って蹴って傷つけてくれ。そうしたら、お前は。俺たちは。

 二月十四日を迎える度、この冬の日に戻って来られる。

 俺が、あの夏の日から逃れられないように。

 傷痕として、今日という日を繰り返すのだ。


「これ、やるよ」


 柚木に、チョコを差し出した。伏し目がちのまま、机に置いたそれを爪の先でそっと押して、柚木の手許に運んだ。

 柚木からの応答はない。

 恐る恐る顔を上げて──目を、疑った。


 チョコをじっと見つめる柚木の瞳に、怯えが浮かんでいた。


 当然、動揺されることを覚悟はしていた。でも、俺が想像していたのはもっと理解不能というか、なぜ男友だちからチョコを渡されたのかわからない、きょとんとしたもので。柚木の瞳の表面積を占める感情の中で、何より勝っているのは恐れだった。

 何で、どうして。そんな眼差しを俺は想定していない。心の準備が、できていない。


 本当に?


 ──お前ら何で会う度、これが初対面ですみたいな挨拶してんの?

 柚木が何を恐れているのか。

 ──いや、そういえばマジーの妹さん、面白いソックス履いてたよなーって。

 本当に全く心当たりがない?

 ──あー、先輩に数学教えてもらってた。

「何で」

 柚木が、ようやっと言葉を絞り出す。俺の渡したチョコから目を剝がせないまま。

「何で、──」

「い──」

 止めろ、言うな。言うなよ、俺。気付いていないフリをしろ。ここでそれを訊いてしまったら、俺はもう思い出にさえなれない。柚木のアルバムの一ページを飾ることさえできないのに。


「いつからだ」


 いつから、お前はアイツと付き合ってる? 

                ※

 柚木が、つかの間目をみはった。目線を彷徨さまよわせたあと、ぎゅっとまぶたを閉じてから、酷く申し訳なさそうな瞳で俺を見た。

 俺も柚木を見つめ返して、どちらからともなく目を逸らした──とでも言えばいくらか格好がついたかもしれないが。


 先に目を逸らしたのは、明らかに俺の方だった。


「妹さんとは、マジーの思ってるような関係じゃないよ。けど──お互い気は合うんだと思う。だから、その──そういう関係になるようなことがあったら、マジーに伝えようって、そのとき伝えればいいやって先送りしてた。妹さんは、こっそり会ってることくらいは早めに言っといた方がいいって言ってたけど、僕からマジーに話すからって黙ってもらってて」

 ごめんなさい──と柚木が徐に頭を下げた。俯いたと言った方が正しかったかもしれない。

 きっと、柚木はこう思っている。俺の大事な妹に隠れて手を出しやがって──目の前の男はそんな理由ではらを立てているのだと。自分を非難しているのだと。

 実際は──違う。

 隠されていたことにもちろん傷付きはしたけど、本質はそこじゃあない。本質はもっと自己中心的で、見るにえない。


 どうして、俺じゃなくて妹なんだ。


 どこまでもバカなことを考えている。そんなこと、わかりきっているのに。

「一個訊いていいか」

「──うん」

「ウチに遊びに来たいって、最初に言ったきっかけは何だ?」

 俺が何を言わんとしているのかわかったのだろう。それは──と柚木が僅かに声を高くした。高くして、下唇を噛んだ。

 わかってる。最初から妹目当てだったんじゃないかって。そんなふうに勘繰られるのは心外だよな。でも、お前がそんなヤツじゃないって頭でわかってはいても、どうしても言葉にしてほしいんだ。

 真島誠志郎は柚木良悟にとって。

「一緒に遊びたかったのは、一緒にいたかったのは、本当に俺だったか?」

 友だちの一人ではあったんだよな。

 カノジョにしてもいいくらい気の合う女のアニキ以上の存在ではあれたんだよな。

 こんなこと言って信じてもらえるかはわかんないけど──と前置きして、柚木は控えめに笑った。


「きっとマジーが思ってる以上に、僕はマジーのこと好きだよ」


 それは、柚木が真に俺を理解しているのであれば、決して口をつきようのない言葉で。

 だからこそ、笑えた。お互いの「好き」の意味合いが根本的に違うとわかっていても、柚木から貰った「好き」にバカみたく高鳴る鼓動を前に、俺は笑うしかなかった。コイツを嫌いにはなれないのだと思い知るしかなかった。

 ああ、心の底から思うよ。

 

「そんな──カノジョじゃねぇんだから」


 大好きなお前に、俺の気持ちが伝わっていなくてよかった。

 ふと、夏の音がよみがえる。忙しない俺の鼓動が掻き消される。あの日以降──"彼"はどうして俺の秘密をバラさなかったのか。簡単だ。同性愛者ホモに告白された男だとウワサされるのがいやだったのだ。


 俺の好きだって気持ちは、人目に晒されたその瞬間から、大切な人たちを傷付ける凶器でしかない。


 だったら、俺の言うべき台詞はもう決まっている。

「薄々──気付いてたんだ。このチョコ、妹が昨日お前に渡したのと同じラッピングなんだろ?」

 そう、多分妹は昨日柚木にチョコ渡した。俺より一足早く、柚木先輩から勉強を教えてもらった十三日に。

 だって──妹の履いてるソックスが面白いだなんて。そんなことは、靴を脱がなければわからないだろう。お前の家にお前の部屋にアイツが上がらなければわからないだろう。

「だから、これをお前に渡したのは何つーか、そう、俺に黙ってたことの仕返しみたいなもんってゆーか」


 嘘だ。


 このチョコは"実験"だった。柚木が同属であればいいのにという願いを込めたリトマス試験紙だった。それでも──柚木に対する純粋な好意の塊であることに違いはなかった。

 お前を好きだというこの証さえ、嘘で塗り込めなければならないなんて──。

 ああ、そうだよ。このチョコ、妹には何て説明しよう。アイツは絶対訊いてくる。肘で俺を小突きながら、チェシャ猫みたくニヤニヤ笑って。

 で、上手くいったのアニキ──って。

 そのとき、俺はどう答えたらいいんだ。


 どう、嘘をついたら。


 目が、潤んできた。涙が、自分でも引くぐらいデカい粒の涙が無様に溢れる。悪くないタイミングだった。だって、今泣いてしまえば。

 俺は、親友に妹との関係を秘密にされていたショックで涙する──ただの寂しがりやで終われる。

 俺は柚木を同性愛者に告白された男にしたくないし、妹を同性愛者のアニキを持つ妹にしたくもない。


 一人ぼっちは俺だけで良いのだ。


 真に柚木の幸せを願うのであれば、俺は柚木が同属ではなかったことをむしろ喜ぶべきなのだ。同属なんて、俺と同じ苦しみを抱えて生きるものなんて──要るものか。

「マジー」

 柚木の手が、俺の頭に触れる。

「ごめんね。黙ってて──ごめんなさい」

 今にも泣きそうな声で、そう謝りながら。ずっと欲しいと思っていたあの手が、今では全く違う意味を持って俺の頭を撫でている。


 ──つらかったね。


 ああ、きっとそうだ。

 ユズ、俺は大好きなお前にずっとかわいそうだと思ってほしかったんだ。俺の置かれている境遇なんて、もって生まれたこの不出来な心臓なんてどうだっていい。そこに、理解を示してほしかったわけじゃない。

 ただ、一緒に泣いて欲しかったんだ。お前に同情してほしかったんだ。

 この涙は程なくして涸れるだろう。この雪だって今日明日中には止むのだろう。けど、それでも──。

 この心臓は息づいている。

(了)

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