『二月十三日』
両親が二階の寝室に上がった頃、俺と妹は二人、リビングのソファに並んでテレビゲームに興じている。
二人──と言ってもプレイしているのは所謂対戦系でも協力系でもなく、アドベンチャーパートと戦闘パートで構成された一人プレイ用ゲームだ。今はアドベンチャーパートなので、ワイヤレスコントローラーは妹の手に収まっている。戦闘パートへ突入次第、コントローラーが俺に渡ってくるのがお決まりの流れだ(一度興味本位でこの分担を逆にしてみたが、目当てのキャラとの親密度を上げるベストな選択肢を一向にチョイスできない俺に妹が激怒し、俺からすれば何故そこで迷うのかと首を捻りたくなるほど狭いステージで行先を見失う妹に俺がイライラさせられるという無残な結果に終わった)。
思えば──妹は俺にとって一緒にいて一番居心地の良い相手かもしれない。
同年代の男友だちとの会話は思春期ゆえどうしても"そっち方面"に偏りがちだし、アニメやゲームの話題ならそれなりに盛り上がれるが、俺の場合はあくまで妹を通して詳しいだけなので、結局のところ共に盛り上がっているふうを演じているに過ぎない。
では、女友だちは──全くいないこともないのだが、一緒にいて"そういう意識"がまるで持てない自分を突きつけられるのが
そう、何も男と女を比べて男の方が良いと理性的に判断したわけではないのだ。そもそも比べようがない。心臓が、同性を求めているのだから。
その点妹は──コイツにそういう意識を持てないのは至極当たり前のことだし、口を開けば基本アニメやゲームの話しかしない。もちろんそこに温度差はあるが、妹はその点を理解してくれている。だから、無理に興味関心のある人を演じる必要はない。
こっちから振りでもしない限り、俺たち兄妹の会話が互いの学校生活に及ぶことはない。
俺たちは今、ゲームという程よい厚みの膜一枚を隔てている。だから、それを切り出すことは自分でも意外なほどに抵抗がなかった。
「女から見てさ」
「うん」
「男友だちが友だち以上になるってあり得ると思うか?」
妹が、俺の方に顔を
「止めろよ。フツーでいいって」
俺は顔の前でぶんぶん手を振った。
妹は黙ったまま小刻みに頷いたあと、ちらと斜め上へ目線をやった。何かしら思い当たる節でもあったのか、俺の目を真っ直ぐに見据えて、こう答えた。
「まず──あり得ないと思う」
「──即答ッスね」
「女子ってそういう線引き結構しっかりしてるから。一回この人は友だちって思っちゃったらよっぽどのことがない限り、恋人まで発展するって難しいでしょ」
──よっぽどのことか。
まあそういうものだよなと一人得心しつつ、ゲーム画面に目を向ける。俺が柚木を前にしたときに出る会話の選択肢もせいぜい三通りほどであれば気が楽なのだが。しかも向こうはその都度好感度の上下までわかる親切設計だ。
かさついた喉へ唾を飲み込む。大丈夫、相手は妹だ。
「チョコ、渡そうと思ってるんだ」
妹が、露骨に眉を
「ええっと、ホワイトデーの話?」
「明日の話だよ。バレンタインに──チョコ渡そうとしてる」
「欧米かよ」
「うっせぇ。まあお前の言うよっぽどのことってほどオーバーじゃあないかもだけど、変わったことして印象に残れたらなって」
印象ねぇ──と、そこだけをすぐさま拾い上げて、妹は膝に肘を置き頬杖をつく。眼差しに若干の冷ややかさを感じるのは、多分気のせいなんかじゃない。
「リトマス試験紙」
「──は?」
「チョコ渡す素振り見せて、脈アリかどうか確認したいんでしょ。喜んで受け取ってくれそうならそのまま渡すし、うわっ何コイツって感じのリアクションなら冗談だよマジにすんなって笑って引っ込める。告白してダメだったっていう状況を最初からつくらないようにしたいんでしょ」
とりあえず、浸すだけ浸してみて。
脈アリか否かを見定める。だから、リトマス試験紙。
言葉が──出て来なかった。それは、単に痛いところを突かれたからというのもあるが、まさか妹にそこまで見抜かれているとは思ってもみなかったから。
自ずと背中が丸まった。足許に目線が落ちた。
「やっぱ、誠実じゃないよな」
つい口をついた呟きの傍らで、微かに笑う気配。どこか悪戯っぽい目つきの妹と視線がかち合った。
「アニキってさ、童貞で処女って感じだよね」
「悪い。流石にソレにーちゃんどう返していいかわかんねーわ」
「わかってもわかんなくてもいーの。ぶっちゃけ、悪くはないんじゃない? アニキのやり方も含めて、多分恋の駆け引きってそういうもんだよ」
急に──肯定的になったなコイツ。じゃあ、さっきの冷ややかな感じはなんだったんだよと訊こうとして、結局口を
もしかしたら、妹には"誠実"な告白をしたりされたりした経験があるのかもしれない。して撃沈したり、あるいは断ってこれまで通りではいられなくなった憶えがあるのかもしれない。
もう──中学二年生だしな。
はいと元気よく言って、妹がこっちに手を差し出す。
「──相談料?」
「ちげーわ。いや、くれるんなら貰うけど。明日渡すチョコ、貸してみってこと。どーせスーパーで買ったヤツのラッピングまんまなんでしょ? 印象に残したいなら、オリジナリティで差を付けないと」
「オリジナリティって──随分準備いいな。ラッピングのセットなんて常備してんのか」
言うや否や──察した。
慌てた俺が口を押さえる頃にはもう妹の笑顔は硬直していて。俺が悪ぃと頭を下げるタイミングと妹のグーが俺の脇腹に炸裂するタイミングはほぼ同時だった。
だよな、常備しているワケがないよな。お前はお前で明日に向けて温めているものがあるんだよな。
「言っとくけど、友チョコだからな」
「じゃあ何でキレ気味なんだよ。わかった。お前に託す。──食うなよ?」
「食うか馬鹿アニキ。まっ、アニキのちょっとセコい"実験"がどっちに転んでもさ」
妹は、そこで一度言葉を切った。
「将来アニキと付き合える
その笑顔に、胸が締め付けられる理由を俺は知っている。そして、それを俺が妹に打ち明けることは絶対にない。
「将来って、暗に明日しくじるみたいな言い方止めろよな」
「おっ、そこに気付くとはやはり天才か〜?」
「まあ、空間認識能力なら間違いなくお前より高いと思うぞ」
「ことごとくプラマイゼロのつっまんねー選択肢しか選べないヤツが何か言ってっしー」
目には目を歯には歯を、軽口には軽口を。下らない応酬を重ねた末、ソファを離れた妹がキッチンへと向かう。アニキ何か飲むーと訊いてくるその背中にコーラと答えてから、俺はふと頭に浮かんだ疑問未満のそれを口にした。
「そういえば、今日帰り遅かったな」
戸棚からグラスを出そうとしていた妹の手が止まる。
妹は、肩越しに俺の方を振り向きもせず、
「あー、先輩に数学教えてもらってた」
とだけ言った。やけに平坦なトーンだった。
俺はふぅんといかにも関心がないふうを装って、妹の背中から視線を切った。
男の先輩か──とは訊かなかった。それは、慣れない話題に
※
今、俺はカプチーノの世界から飛び出てきたかのような大人びた装いのチョコを膝に抱いている。
シックなゴールドのリボンのつやつやした感触に指を遊ばせる一方、まさか妹にこんなセンスがあったとはと舌を巻きつつ、俺は──着飾られたそれを脇へと
腰掛けていたベッドに、背中から倒れ込む。うつ伏せに転がって、腕枕がつくった暗がりをただ見つめた。規則的な秒針の音が、泣き止むことを知らない夏の音へと変わってゆく。
小学生の頃、彼に秘密を告白した。彼と言うのは、俺と指の長さを比べ合いっこした、体格のわりに指の短く、ドッジボールの強かった当時の同級生のことで。
多分──俺の初恋だった
告白と言っても、付き合ってほしいなどと面と向かって切望したわけではない。ただ──どうも俺は女より男にドキドキしてしまう質らしいこと、そのことで今後お前に不可解な思いをさせてしまうかもしれないこと、それでもこれまで通りでいてほしいと、一人の友だちとして
好きです。付き合ってくださいだなんて。そんな身の程知らずなことは、決して。口が裂けても言いたくなかった。
今になって、心底思う。どうして、打ち明けようなどという気になったのだろう。彼に対する想いを秘匿し続けることに耐えられなかった? 彼の前で自分を偽っていることが、彼を騙しているようで居た
──気持ち悪ィよ、お前。
向こうも俺と同じ気持ちなのではないかと。虫のいい、勘違いをしていたわけでもあるまい。
知らず、右の頬に手が伸びる。いや、殴られたのは左だったか。あるいは、鼻っ面だったかも。あんなに──ショックだったのに。案外薄れてしまうものだなと、その事実にまた少し傷付く。
彼は、俺が傍にいることを許してはくれなかった。男が好きかもしれない男とこれまで通り一緒にいることを受け入れてはくれなかった。
それでも、俺の秘密を周囲にバラしたりはしなかった。卒業までずっと、ただただ俺を無視し距離を置き続けた。
当時は、親友に裏切られたかのような感傷に浸って、どこか被害者ぶってさえいたけれど──。お互いの
「きっと──俺の方なんだよな」
仰向けになり、チョコを手に取った。両手で持ち、天井に向かって差し出してみる。明日は、この先に柚木がいる。
明日、真島誠志郎は柚木良悟にチョコレートを渡す。
妹は、明日俺がやろうとしているそれを"実験"と評した。このチョコをリトマス試験紙に喩えた。けれど、本当のことを言えば。これが何色に染まろうと俺のとる行動は、もう決まっている。
俺が柚木にチョコを渡して、お前が好きだと
──将来アニキと付き合える
どんな──気持ちになる。アニキの恋路を応援してやるかと、このチョコをラッピングした今日と言う日をどんな気持ちで思い出す。
このチョコレートは、きっと誰も幸せにできない。
俺が柚木にチョコを贈るのは、何もアイツと付き合いたいからじゃない。俺の想いに応えてほしいからじゃない。
チョコを渡すことで、存在をちらつかせることで、柚木が俺と"同属"であるか否かを確かめたいのだ。
俺と同じ、男向けの露骨な広告を目にする度、ちっとも釣られない自分に辟易するとか、ちょっと良いなと思う男友だちとの距離感が
俺は、俺という"人種"が一人ぼっちではないという事実が欲しい。
だから、柚木のリアクションがどうあれ、俺がアイツにクソ真面目な面でチョコを渡したあと、言うべき台詞は決まっている。
男友だちから、まさかの本命チョコ。理解が追いつかず、目をぱちくりさせる他ない柚木に向かって。破顔した俺は、こう言ってやるのだ。
「真に受けんなって。冗談に決まってるだろ。ユズ」
そしたら、柚木は何だ冗談かってふにゃりと笑って。それで──中学最後のバレンタインはお終い。
俺たちは男友だちとして中学を卒業して、別々の高校に進学して、偶に連絡を取り合って、勉強ついていけてるとか、そっちで新しい友だちできたかとか、いい加減脱帰宅部できたかとか、最近アニメ何観てるとか。
カノジョできたかとか──そういうのを気兼ねなく訊き合える関係に落ち着くのだ。
俺は、柚木のことが好きだ。
だからこそ、アイツの今とこれからを脅かすようなマネだけはしたくない。アイツの家族や近しい人たちに、迷惑をかけるようなマネだけはしたくない。
柚木が同属でなくとも別に失望する気はないし、同属だったとしたら俺は俺が一人ぼっちではなかったという事実に、ほっと胸を撫で下ろすだけ。アイツに今以上を求めたりはしない。
これは、どこまでも独りよがりな実験。アイツの心臓も俺と同じく不出来であればいいのにという願いのもと行われる慰みでしかない。
踏み
舞台は茜射す放課後の教室、俺と柚木は女になっていて、仲睦まじくチョコをつまんでいる。ときに──お互いの口許へ。悪戯にそれを差し出しては、相手が食べる様を見つめて悦に浸る。
チョコと一口に言っても、その形態には一貫性がなかった。板チョコを砕いたものであったり、スカートにパウダーを零すトリュフであったり、食べ頃のチョコアイスであったり、解剖みたく切り分けられたホールのチョコケーキであったりした。
俺たちの服装にも似たようなことが言えた。俺と柚木が袖を通しているのは、ブレザーである一方セーラー服でもあり、夏服であれば冬服でもあった。
女になった柚木は触れればそれだけで
俺たちは、不定形の格好で不定形の想いを食べさせ合っている。
柚木の指が、俺の顎についたチョコを掬って口に運んだ。
俺は柚木の口の端についたチョコを拭うふりをして、いたずらに指で伸ばした。
俺と柚木には、これができない。
いつの間にか、俺は
両膝に拳を据えて、歯を食い縛る俺は男の姿に戻っていた。
手の甲に一滴、未練がましく滴ったチョコが乾いていた。
ふと、頭に触れられる。顔を上げれば、こっちに身を乗り出した柚木が、男の姿をした柚木が俺を見ている。柚木の手が。間近で見れば骨の太い、同世代の男と比べれば華奢で肌も生白いくせ、きちんと男の骨格をした柚木の手が。俺の──頭を撫でる。
「つらかったね」
窓から見える空は、水のように澄んだ青へと変わっている。
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