『二月十二日』
あわよくば、俺も
大丈夫。掃除機は念入りにかけたし、粘着クリーナーだって柚木の目と手が届く範囲には転がしまくった。だから──柚木の指に俺のどこのものとも知れぬ毛が絡まるなどという失態はあり得ない。
柚木が、不意に手を止めた。上目遣いに俺を見た。
「なあに?」
「なあにって──何してんのかなって」
苦笑混じりに、柚木の手許を指差す。
俺は今椅子に腰掛けていて、向こうは床に座っている。俺も最初は柚木の傍──床に座りたかったのだが、マジーはこの部屋の主なんだし椅子座ってなよという柚木の発言に、まあ確かに男友だちとしてこれは詰め寄り過ぎかもしれんと考え直して、今の構図に至る。
ちなみに、マジーとは俺の名字である
柚木は小さく目を
「いや、イイ手触りだな〜って」
「あー、柚木ってそういうの好きそうだよな。ベッドに──ぬいぐるみとか置いてそう」
ぬいぐるみ──と口にするまでに若干間があったのは、それが柚木を傷付けはしないかという不安があったから。
「ひっどー。僕ってそんなふうに見える?」
見える見えると頷きながら、笑顔の裏でちくりと刺さるものを覚える。酷いか。別に──貶したつもりはなかったんだけどな。
柚木との出会いは、殊更ドラマティックなものではなかった。中二の職場体験で偶々班が一緒になって、受け入れ先の本屋で漫画やゲームの趣味に似通う部分があるとわかって。
以来──中三になった今もこうして、放課後俺の家に寄っては何をするでもなくダラダラと過ごす仲になっている。
最初に家へ遊びに来たいと言い出したのは柚木だった。反射的に俺は何でと訊き返してしまったが、冷静になって考えてみれば男が男友だちの家に寄ることに大した理由なんて必要ないわけで。
別にいいけどまず掃除させてくれ──と俺は真顔で訴えた。そのときすでに柚木は俺にとって単なる男友だちとして招待するにはハードルが高過ぎたので。
「そんなカノジョじゃないんだから」
俺の胸中などつゆ知らず、柚木はくすくすと笑った。
そう──柚木はカノジョなんかではない。
正直に言えば、柚木の好む漫画やゲームというのは俺にとってそれほどではなかった。ただ、俺の場合は妹がそういうサブカル方面に精通しているので。語れるほどの情熱はないが、無理なく話を合わせることならできる──というくらいのものだ。
問題は──柚木が好きだというゲームの中に、所謂BLを匂わせる表現を含むシミュレーションRPGがあったことだ。
そう、あくまで匂わせる。BLがメインのテーマというわけではない。ただ、男主人公で男キャラのルートに入ったときに直接的ではないにせよ何だか
だからこそ、俺は淡い期待を抱いている。
もしかしたら、柚木は俺がそういう人間だと知っても偏見の目を向けないのではないかと。俺の気持ちを理解してくれるのではないかと。あわよくば、俺の想いに応えてくれるのではないかと。俺と同じ──こちら側なのではないかと。
玄関を出たところで、学校帰りの妹とばったり
「ただいま。出かけんの?」
「おかえり。ユズをそこまで送ってくとこ」
ふぅんと妹は相槌を打つと、柚木を
俺は、気持ち足早に家へ入ってゆく妹の後ろ姿を見送ってから、柚木に尋ねた。
「お前ら何で会う度、これが初対面ですみたいな挨拶してんの?」
「僕は一人っ子だから実際に体験させてあげられないけど、マジーが僕ン家に来て僕の妹と会ったら多分似たようなリアクションとると思うよ」
「あー」
腑に落ちたんだか落ちてないんだか、自分でも判らない曖昧な返事をよそに、柚木は不服そうな細目から一転。口許を手で隠しながらほくそ笑んだ。
「──何だよ?」
「いや、そういえばマジーの妹さん、面白いソックス履いてたなーって」
──面白いソックス?
俺の顔付きが、あまりにもピンと来ていない人間のそれだったのだろう。五本指で指それぞれに刺繍が入ってるヤツだよ──と柚木が助け舟を出した。ああそう言われれば、妹は大抵指それぞれにデフォルメ調のネコやらウサギやらが配置されたソックスを履いていた気もする。躰の一部として見慣れ過ぎていて、返って気にならなかったが。
──五本指のソックス。
どうにも引っかかりを覚えるものがあって、けれどそれをどう言葉にしたものか考えあぐねていると、
「ところでさー」
したり顔の柚木が下から俺を覗き込んできた。
「僕のことユズって呼んだんだー」
ああ、勘弁してくれ。その上目遣いは俺に効く。
「呼んだんだーって、呼んだよ」
「いつもは呼ばない。いっつも一文字余分につけるじゃん。僕はマジーって呼んでるのに」
意地が悪いなぁ〜と言いながら、柚木は俺の頬を人差し指でぐりぐりしてくる。何も──意地が悪くてユズと呼ばないわけではない。夜中ベッドの中で何度イメージトレーニングを重ねたって、本人を前にすると中々どうしてたった一文字を取り除けない俺がいる。
俺は
頬を凹ませていた柚木の指が離れる。
「ねぇ、マジー」
「おう」
「明後日バレンタインだね」
俺は──庭木に止まったハエだ。
真島誠志郎と柚木良悟を俯瞰するだけのしがない虫けらだ。以前友だちから教わった心を鎮めるためのテクニックでどうにか動揺をやり過ごす。表情の変化を抑え込む。これが、正しい使い方かどうかは定かじゃあないが。
「そーだな、万年母親と妹からしか貰ったことのない俺には縁のない世界だけど」
「えー、わかんないよー。中学最後なんだし。心優しい誰かがくれるかも」
「施しの精神が大前提なの止めれや。でも、中学最後にチョコ渡すって──その、意味あるのか? だって、その後すぐ卒業だろ? 先がないって言うか、なくはないけど望み薄だろ」
一体──どの口がそれをほざくのか。
学区から遠く離れたデパートのバレンタインコーナー。いかにも当日チョコを貰うことが確約してますみたいな面構えで、今カゴに入っているこれは一足早いホワイトデー用のお返しですとでも言いたげなオーラを偽って、とっくに俺は──。
「そこは──むしろ付き合いやすいんじゃない? 学校が違えば、あんまり周りの目とか気にしなくていいだろうし。皆から冷やかされるのがイヤだから付き合わないって人、いるって話聞くよ」
卒業すれば、周りの目を気にすることなく付き合える。柚木の言う通り、それはそうかもしれない。
ただ──俺の恋路だけは、その限りじゃあない。
ああ、このやりとりで──この距離感で今改めて思い知る。
柚木良悟は、目の前の男友だちがバレンタイン当日、自分にチョコを渡そうとしているだなんてきっと夢にも思っていない。
※
中一の頃、半ば家族共有と化していた父親のデスクトップで初めてアダルト動画を見た。
結論から言えば、心拍は速まった。けれどそれは見てはいけないものを見ているという後ろめたさから来る、胸騒ぎに等しいもので。そこにどくどくとした快楽はなかった。
そこに、あの夏の日はなかった。
女優の胸や尻、開かれた躰を食い入るように見つめても、喘ぎ声にいくら耳を
俺は、泣きたくなった。
俺は、何て不細工な心臓を持って生まれて来てしまったのだろう。
真島誠志郎は、理恵おねえさんと手を繋いだあのときこそドキドキしているべきだったのに。それが、誰にとっても祝福される心臓の正常な動作だったのに。
あの日以来、露骨に性を匂わせるものとの接触は極力避けるようにしている。軽い気持ちで手を伸ばせば、思い出されるのは。
「解るわけねーだろ。気持ち悪ィよ、お前」
かつて比べ合いっこした掌が拳をつくって、俺の顔面を殴りつける記憶。
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