千咲と早苗

やまめ亥留鹿

千咲と早苗


 昼休み。

 窓際の一番前の席で本を読んでいると、いつものように彼女がやってきた。


千咲ちさき、きたよー」


 少し離れたところから私の名前を呼び、歩み寄ってくる。

 私の机に弁当箱をふたつ乗せた彼女は、隣の席から椅子を拝借して私の目の前に座った。


「いつもすまんな」


 本に目を落としたまま簡素に述べる。

 すると、彼女の腕が私の方へ伸びてきた。

 思わず首をすくめる。

 彼女の手が私の頭を優しく撫でた。


「いいってことよ」


 これもまあ、いつものことと言えばそうである。

 本を閉じ、彼女の端正な顔に視線を移す。

 大きな目に潤んだ瞳、高くはないが筋の通った鼻、薄めの唇、白い肌に赤みのさした柔らかそうな頬、肩上まで伸びた艶のある綺麗な黒髪。

 いつ見ても可愛いが、それがなんとなく憎たらしい。

 

 彼女の名前は早苗さなえといって、幼稚園の頃からの友人である。いわゆる幼馴染というやつだ。

 家も徒歩二十秒程のごくごく近所で、付き合いもかなり親密にしてきた仲だ。

 だから、ただの親友と言えばどこか物足りなさを感じるくらいの……それくらいの親密な関係だ。


 そんな彼女が、高校に入学してからというもの、毎日のように私のために弁当を作ってきてくれているのだ。

 この無償の世話焼きをありがたいと思ったことは数知れないし、私のことを気にかけてくれることは心から感謝しているのだが、私からすればおかしな奴である。


 両頬に手を当て頬杖をつき、上目遣いにニヤニヤと私を見る彼女に対して、これ見よがしにため息をついてやる。

 その行為に特に意味はなく、一種の戯れに過ぎない。

 私のため息を聞いた彼女はというと、どこか演技っぽくムッとした表情をみせた。


「もう、ため息つくと幸せが逃げるんだよ」

「逃げないよ」


 即座に返してやると、よくわからない謎の沈黙が流れた。

 彼女は人差し指を顎に添えて、何事かを思案しているようだった。

 そしてすぐに、首を傾げながら口を開いた。


「ため息をついた人には言わなきゃいけないことでしょ?」

「なんだそれ」


 そんな定型句はない。

 ……はずである。


「まあ冗談だけどさ。幸せが逃げるなんて誰が言い出したんだろうね」

「さあね」


 ぶっきらぼうにあしらいながら弁当の包みを広げる。

 蓋と箱の側面にアニメのキャラクターが描かれた小さな弁当箱が姿をあらわした。

 私たちが小学校低学年くらいの頃の朝にやっていた、魔女っ子のあれだ。  

 元は早苗が小学生の時に使っていた子供用のものなのだが、なにぶん私が小食なもので、このくらいの大きさで十分だろうと彼女の独断でこの弁当箱を使っているわけだ。

 最初こそは、いかにも子供っぽいコレを人前で披露することに多少の気恥ずかしさを覚えたものだが、今となっては慣れたものである。


「大体さ、ため息をついたくらいで逃げる幸せってなんなの?」


 こいつ、まだ同じ話題を続ける気らしい。

 何か適当に返答してやるとしよう。

 箸でミニトマトを軽く小突きながら、ゆっくりと喋り始める。


「それはあれだ、幸不幸云々じゃなくて前向きでいろってことだよ。ネガティブ思考はやめろってことだな……知らんけど」

「千咲はしょっちゅうため息ついてるけどね」

「え、まじで?」

「うん、まじで」


 彼女がコクコクと首を縦に振る。

 全然自覚はないが、早苗が言うのならそうなのだろう。


「でも千咲がため息をつくのってわたしといるときだけだよね」

「へえ、そうなのか」


 何気なくそう言った後に、彼女が言った言葉が何故か引っかかった。

 少し考えた後、喉の奥から押し出されるようにして声が出た。


「……え?」

「え?」


 再びの沈黙。

 これは彼女が会得した新手のジョークだろうか。

 それともただのバカなのだろうか。

 彼女はというと、心なしか瞳孔の開いた目で私を見つめている。


「いや、一緒にいない時のことは知らないだろ?」


 私がそう言うと、彼女は不思議そうにパチパチと瞬きをした。

 少し間が空いて、彼女が小首を傾げて意味深長ににこりと微笑む。


「わたしはいつでも見てるよ、ちぃちゃん」

「こえーよ」


 途端に、彼女が口に手をあてて笑い声をあげた。

 

「ごめんごめん、冗談だよ」

「いやまあ……わかってるけどさ」

「さあ、食べたまえ」


 大げさに両手を広げる彼女を尻目に、卵焼きを口に運ぶ。

 いつも通りの、甘めの味付けだ。


「おいしい」

「そっか、よかった」


 彼女が微笑を浮かべ、私はコクリと頷く。

 黙々と食べていると、彼女が不意に箸で掴んだ卵焼きを差し出してきた。


「ちぃちゃん、あーん」

「その呼び方やめろ」


 文句を垂れつつ、差し向けられた卵焼きを口に入れる。これも、甘い。

 実のところ、彼女は甘い物が苦手なのだ。甘いもの全般が。

 ただ私がこっちの方が好きだからと、味付けを甘くしてくれている。


 ならば分けて作ればいいじゃないかと言いたいところではあるのだが、「それだと余っちゃうから」という理由でやらないそうだ。

 そして、結局こうやって私に食べさせるのが当たり前になっているわけだ。


 思えば、幼少の頃からそうである。

 遠足の時も、どちらかの家で一緒にご飯を食べる時も、彼女は何かしらの自分のおかずを私に食べさせていたものだ。

 これはもはや、ある種の癖のような習慣なのだろうか。

 彼女としては、動物に餌を与えるような感覚なのだろうか。

 私自身、彼女に差し出されたものを食べるという行為は、“彼女が「あーん」というから口を開けてそれを食べる”、という一連の条件付けのようなものなのだ。

 幼少の頃から感覚的に覚えてきたこれは、よくよく考えてみれば何とも言い難い不思議なことである。


 そうやって考えていると、ふと気付いたことがあった。

 私はここ数年、おそらく小学生以来だろうか、彼女に同じようにして食べさせることがなくなったのだ。

 まあ、私がそれに気付いたところで今更そんなことは絶対にやりはしないが。

 幼い頃ならまだしも、この年齢になるとなんだか照れ臭いではないか。


「ところで話を戻すけどさ、ちぃちゃん」


 さっきやめろと言ったはずだが、調子に乗った彼女はしばらくその呼び方を変えることはないだろう。

 ということで、指摘するのはよしておくことにする。

 面倒だから。


 ちなみに、「ちぃちゃん」というのは幼い頃の私の愛称で、彼女とはお互いに「ちぃちゃん」「さっちゃん」と呼び合っていたものだ。

 しかし小学六年生の辺りから、何故だか自然と、本当にごく自然と名前で呼びあうようになっていた。

 だが、早苗はこうやって、時たま私のことを「ちぃちゃん」と呼び始めることがある。

 急にその呼び方をされると、全身がむず痒くなるような気恥ずかしさに襲われる。

 ただそれは、彼女にそう呼ばれることが嫌だからというわけでは勿論ない。

 

「ちぃちゃんの幸せって何?」


 唐突にそんなことを聞いてくる彼女を訝しげに見やる。

 何故そんなことを聞くのだろうか。

 単なる興味本位で聞くことではないだろう。

 それとも先程の会話の流れからなんとなく、だろうか。


「何をしてる時に幸せだなあ、って感じる?」

「どうして」

「いやあ、さっきため息の話をしたけどさ、わたしがちぃちゃんを見てる範囲では本当にわたしの前でしかため息ついてないんだよ」

「へえ」


 よくもまあしっかりと観察してくれているものだ。


「だからもしかしたら逆に、ちぃちゃんのため息は幸せを感じているサインなのではないかと!」


 何故そうなるのだろうか、さっぱりわからない。


「つまり、ちぃちゃんはわたしと一緒にいる時に……いやむしろ一緒にいる時にだけ幸せを感じているのだと!」


 力強く拳を握りしめる彼女。

 頭の中がお花畑である。

 今は四月も下旬、なかなかに見応えのある花々が咲き誇っていることだろう。

 ついでにその上を蝶々やら蜜蜂やらが飛んでいれば、なおさら心満たされる景色に違いない。


「つまりつまり、ちぃちゃんの幸せとはまさにわたしという存在なのではと!」

「ねえよ」


 目をキラキラと輝かせたまま、えへへと無邪気に笑う彼女。

 まったく、これがいつもの調子だというのだから、甚だ困りものである。

 

「もしかして恋煩いかな? わたしに対して? わたしも愛してるよ、ちぃちゃん」

「ねえよ、黙って食え」

「はーい」


 ニコニコしながら返事をして、彼女はソーセージを口に放り込んでもぐもぐと咀嚼を始めた。

 私もさっさと食べてしまおう。

 早苗にいつまでも付き合ってはいられない。

 口元に手を当てて、むふふと気味悪く笑う彼女は無視して結構。


「千咲千咲」


 無視して結構。


「さっそくため息ついたね」

「え?」


 思わず顔を彼女に向けると、したり顔でニヤつきながら首を縦に振っていた。


 よし、脳内ガーデニングが趣味の彼女に現実的な一言を浴びせてやるとしよう。


「あのな、私は今、早苗の相手って相変わらず面倒だなあって思ってたんだよ。つまりそういうことだな」


 彼女は、えー、と不満気な声を出して、白く柔らかそうな頬を膨らませた。

 しかしまあ、早苗のその面倒さというのは、私にとって全くもって嫌いなものではないのだが。

 十年以上の付き合いなのだ、あしらい方さえ心得ていればむしろ心地よささえ感ずるというものである。

 こんなことは決して声に出して言えることではないから、彼女に言ってやるなんてことはあり得ないが。


「はい千咲、もうひとつ卵焼き」


 彼女が残りの卵焼きを差し出してきた。

 近いうちに、久々に私も彼女にこれをやってみることを検討しようか。

 彼女の箸から卵焼きを食べると、口内に砂糖の甘さが広がった。



*****



 わたしには、千咲というとてもとても大切な友達がいます。

 それはもう、わたしの過去から未来すべての人生において絶対に欠けてはならない存在です。

 わたしという人間を、千咲なしで語るにはもはや不可能なのです。

 これっぽっちも大袈裟ではありません。

 もしも千咲と出会っていなかったら……なんてそんな恐ろしくも馬鹿馬鹿しい想像はかなぐり捨ててやりましょう。

 だって今のわたしにはそんなこと関係ありませんから。

 

 わたしと千咲の付き合いは、かれこれ十年以上になります。

 まだ四歳だった時に、わたしが千咲の家のすぐ近くに引っ越したのが始まりでした。

 あれから、わたし達はもはや一心同体と言ってもまったく過言ではない程の仲になったのです。

 

 しかしまあ、およそひと月前、せっかく一緒の高校に入学したというのに別々のクラスになってしまった事実を突きつけられた時には、それはもう腰がすっぱ抜かれたような絶望を味わったものです。

 ああ、わたしはとうとう天に見放されたのだと、本気で神という存在を恨みました。

 まあ正直に言うと神などという存在は信じていないのですが、その時は都合よく存在を認めて恨ませていただいたわけです。

 その手の方々には本当に申し訳ないと心から思っています。


「早苗ちゃん、お友達が呼んでるよ」


 声をかけられたので顔を上げると、同じクラスの女の子が廊下を指差していました。

 その指の指し示す先にはなんと、彼女が立っているではありませんか。

 教室の後方のドアから二、三歩後ろに下がったところ。

 別のクラスに赴いて少々緊張しているのでしょうか、戸惑い気味な表情を浮かべて、両手で制服の裾をぎゅっと握っています。

 ああ可愛いねえ、なんていじらしくて可愛いのでしょう。

 小柄な身体を少し大きめの制服に包まれて、スカートの下には黒タイツを履いています。

 もう五月になるけど、まだ少し冷えるもんね。

 わたしよりも少し短いショートヘア、そして目が隠れるほどの長めの前髪は顔の右側に流して二本のヘアピンでとめています。

 その片方のヘアピンには親指サイズのいびつな形をしたよくわからない布製の花の飾りが付いています。

 実はあの花飾り、わたしが幼稚園生の時に作ったものなんです。

 わたしが見栄えの悪いそれをプレゼントしてから今日まで、文字通り毎日つけてくれているんです。

 ピンが古くなればわざわざ新しいピンにつけかえたり、飾りの部分が痛めばその都度補修しているそうです。

 普段は基本的にはわたしに冷たい態度をとる彼女ですが、そういう一面もあるんです。


 そう、あそこに立つ彼女こそが、わたしの最愛の千咲ちゃんなのです!


 千咲が眉間にしわを寄せ、しびれを切らしたようにわたしを手招きします。

 おっといけない、少々お怒りのようです。


「やっほー千咲、どうしたの」

「遅い」

 

 千咲のもとへ駆け足で向かうと、第一声で怒られてしまいました。

 恐いどころかむしろかわいいんですけどね。


「あはは、ごめんごめん、つい見とれちゃってた」

「はあ?」


 そう言って、千咲は心底意味が分からないとでも言いたげな顔をしました。

 しかし珍しいこともあるものです、千咲の方からわたしのクラスに来てくれるなんて。

 まあ、それだけ急な用事があるからなのでしょうが。


「それでどうかしたの?」

「数学の教科書を忘れてしまいました」

「あー」


 しっかり者の千咲が忘れ物とはこれまた珍しいことです。

 

「あー、じゃなくて。貸してほしい」


 わたしよりも十五センチ程身長の低い千咲が、踵を上げ下げしてつま先立ちを繰り返しながらお願いしてきます。

 思わず頬が緩むのが自分でもわかりました。

 何気ない仕草がいちいち可愛いことこの上ないです。


 千咲の頭に手を乗せてから、「ちょっと待ってて」と言って教室に戻ります。

 数学の教科書をかばんから取り出して再び千咲のもとへ向かいます。


「はいよ、何かお返ししてね」


 そう言って教科書を手渡すと、千咲はふふんとどこか得意げに笑いました。

 

「ありがとう。だったら今日の夜早苗の家に行く。早苗がつくったクッキー食べたい」

「ほんと?じゃあそれで手を打とう」

 

 勿論本気でお返しを望んだわけではなかったのですが、これは教科書の見返りとしては十分に満足に足る代物でしょう。

 何かがおかしいって? いやいや、何もおかしいことはありませんよ。

 わたしの作ったものを千咲がおいしそうに食べてくれることは、そのままわたしの幸せになるのですから。

 それに、千咲には普段から勉強を教えてもらったり、わたしの買い物に付き合ってもらったりと、何かと感謝をしているのです。

 

「明日は休みだし大量に焼くか」

「やった。それじゃまた後で」


 小走りで自分の教室へと帰っていく千咲の小さな背中を見送ります。

 別に千咲がうちに来ること自体はまったく珍しいことではないのですが、やはり今から楽しみです。

 さて、どんなクッキーを作ってあげましょうかね。

 甘いお菓子が大好きな千咲ならばどんなものでも喜んでくれるでしょうが、それなりの種類と工夫が欲しいところです。

 千咲の笑顔が待っていると思えば、考え甲斐もあるってもんですよ。


 //


「早苗ってさ」

 

 千咲がそこで言葉を切り、指でつまんだクッキーをぱくりと食べました。

 そう、数学の教科書を貸した見返りに食べてもらうと約束した、あのクッキーです。


 千咲は宙をぼんやりと眺めたまま、機械的に口を動かしています。

 はて、いったい何を言おうとしたのでしょうか。

 円形の座卓の向かいに座る千咲が、カーペットの敷かれた床に気だるげに寝ころびました。

 そのまま数十秒が経過します。


 わたしはいつまでも待ちますよ。

 テーブルに両肘をついて頬杖をつきながら、どこか憂いを帯びた表情をみせる千咲を見つめ、この居心地の良い静寂を過ごします。

 それからさらに三十秒ほど経ってから、仰向けに寝転んでいた千咲がゆっくりと起き上がりました。

 

「今日は私も手伝ったけどさ」


 さらにそこで発言をやめ、クッキーをひとくち。

 そうなんです、今日は夕方から千咲がうちに来て一緒にお菓子をつくって、夕飯も一緒に食べて、今に至ります。

 わたしのお母さんも千咲のことは自分の娘のように可愛がっているので、普段よりも嬉しそうに料理をしていました。

 逆にわたしが千咲の家へお邪魔するときには、千咲のお母さんから、「まあさっちゃんいらっしゃい、せんべい食べる?ビスケットもあるよ。あ、今日泊っていきなさいな」、なんて手厚い歓迎を毎回受けます。

 

 千咲が今度はテーブルに突っ伏して、上目遣いにわたしを見て再び口を開きます。


「私がいない時は味見どうしてるの?」


 その問いに、思わず笑いが漏れてしまいました。


「え、今更?」

「うん、なんとなく気になった」

「まあ大抵はお母さんに食べてもらってるよ、いないときは勘」

「すごいな」

「これだけ頻繁に作ってたらね。普通のお菓子だったらもう千咲の好みは把握してるから、最近は味見なんてしないけど」

「早苗は食べないのにこんなに作らせてすまないなあ」


 そう言って千咲が目を閉じ、眠そうにもぞもぞと体を動かします。

 

「わたしはほら、砂糖なし胡麻クッキーを食べるから」

 

 手元のそれをつまみあげると、千咲が顔をあげておもむろに口を開けました。

 うぐ、かわいい……。

 このクッキーを食べさせろということでしょう、かわいいかわいいちぃちゃんかわいいよ。


 しかしこのだらしのなさ、少ししつけが必要みたいですね。

 私は千咲の可愛さにあらがって心を鬼にします。


「おすわり」

「もう座ってるし」

「ふせ」

「もうふせてるし」

「床にふせ!」

「やらねえよ」


 そしてまた、あー、と言って口を開けます。

 これに逆らえるわけもなし。

 仕方なく食べさせると、千咲は唸り声を出してテーブルから体を起こしました。


「おいしいけどさ、ちょっとしょっぱくない?あと胡麻だね」

「そうかなあ、わたしは丁度いいと思うけど。あと胡麻だよ」

「ごまごましい」

「胡麻多かった?」

「いや別に。ごまごましい」


 よくわかりませんが、「ごまごましい」という響きが気に入ったようです。

 小声でさらに何度も「ごまごましい」と繰り返しています。


 千咲がわたしの真似をするように頬杖をつきました。

 

「どうして早苗って甘いものが苦手なんだろうね」

「さあねえ、生まれた時からだからね。でも千咲は甘いものが超大好きだからさ、それでプラマイゼロだよね」

「意味わからん」

「ほら、私たちってふたりでひとりだから」

 

 色々なクッキーの乗ったお皿を物色して、千咲がその中からひとつを取りました。

 砂糖は控えめにしたアーモンドクッキーです。

 

「これなんか食べられそうじゃない?そんなに甘くなかったよ」

「まあ食べられないことはないと思うけど」

「けど?」

「食べたくはない」


 正直にそう言うと、千咲は面白そうにけらけらと笑いました。


「それだけ苦手なのに作るのは得意なんだもんな。変なの」

「全部ちぃちゃんのためですよ」


 千咲が体を重そうにして、床に横たわりました。


「嬉しいよー」

「棒読みじゃない?」

「じゃないよ」


 確かに気のない声ではありますが、それが千咲の照れ隠しだということは承知しているので、よしとしましょう。

 それにしてもまだ9時くらいだというのに、千咲はすごく眠たそうです。


「千咲眠い?」

「いや、眠くはないな」


 そう答えて、千咲は四つん這いになってわたしの方へとにじり寄ってきました。

 その姿に少しだけどきりとしたのは秘密です。

 そのままわたしのすぐ隣に座ると、千咲はベッドの側面に背中をあずけて深呼吸をしました。


「はー、背もたれが欲しかったんだ」

「さっきから寝転んでたのはそういうこと?」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「ぼんやりしてるなあ」


 しかしこの若さでそんなことを言うとは、筋力が低下しているのではないでしょうか。

 ちょっと心配になってきました。


「ねえ早苗」


 千咲の顔を横目で見遣ると、思案顔でもじもじしています。

 あれ、なんでしょうかこれは。

 ついに早苗ちゃん大勝利ルート突入でしょうか。


 なんて、そんなことを考えていると、何事か決心した様子の千咲がわたしを見て言います。


「たぶんだけどさ、早苗が甘いものを食べたがらない理由って単に味が苦手だってことだけじゃないよね」

「うん、そうだけど」

「えっ」


 わたしが普通に返答したことに拍子抜けしたのか何なのか、千咲は眉をひそめて唇を突き出しました。

 それは一体どういう感情からする表情なのか、さっぱりわかりません。

 ただ、どことなく困惑しているようなその千咲の表情はなかなか見られるものではないので、ありがたく拝んでおきましょうか。


「あー、なんだよ、せっかく頑張って聞いたのに」


 千咲が頭を抱え、足をぱたぱたと動かします。

 まああれですね、千咲なりに気にしてくれていたのでしょう。


 もう大分前のことになるのですが、小学三年生の頃に誤ってチョコレートを口に入れてしまい、大勢の人前で嘔吐してしまったことがあるのです。

 その時千咲もその場にいました。

 その出来事があってから、わたしの甘いものに対する拒絶に拍車がかかったのです。


 千咲が言いたいのはおそらくそのことでしょう。

 勿論、あれは千咲のせいで起こったことではありません。

 今も昔も千咲はいつだって、わたしの嫌がることは絶対にしませんし常に味方でいてくれるのです。

 その時だって例外ではありませんでした。


 甘いものが嫌いな私をからかおうと、クラスメイトの数人が悪ふざけをしたのです。そしてまんまとチョコレートを口に入れた私が吐いてしまうと、その子たちは笑い出し、まるで踏みつぶしたアリを見下すようにして馬鹿にしてきました。鼻をつまんで臭いと罵倒し、顔をひきつらせて不快そうに後ずさって。

 騒ぎに気付いた千咲は、真っ先に私の元へ駆け寄ってきました。はじめ私に優しく声をかけてくれ、一転して怒鳴り声を張り上げました。

 「ふざけるな! 笑うな!」。千咲の怒りに満ちたその声は、不思議なほど鮮明に思い出せます。

 あの時、わたしを守るために声を荒らげた千咲の背中は、今もなおわたしの宝物とも言うべき大切な記憶なのです。

 

 千咲は依然として頭をかかえたままです。

 悶え続けている千咲には悪いですが、ちょっと面白い光景ですね。

 

「まあまあ、千咲がわたしのことちゃんと考えてくれててすごく嬉しいよ」


 そう言って肩をやさしく叩くと、心なしか赤くなった顔をあげました。


「アレがトラウマになってるの?」

「うーん、確かにそうかもしれないけど、半分くらい違うかな」

「どういうこと?」

「好きな人の前で、もしものことがあったら嫌じゃん。ある種の乙女心ってやつさ」


 人差し指を立ててわざとおどけて言ってみせると、千咲は妙に納得した顔をしました。


「子供の頃とは味覚変わってるかもよ」

「嫌だよ、食べないよ」


 そっぽを向いて言うと、千咲がわたしの着ている洋服の袖を軽く引っ張ります。


「作ってる時の匂いは平気なの?」

「匂いは全然嫌いじゃないよ、むしろ好きなくらい」

「へえ、そうなんだ」


 千咲がほっと息をついて、少し安堵した表情を浮かべます。

 ちょっと矛盾することかもしれませんが、わたしが千咲のためにお菓子を作るようになったのも、実はあの出来事があってからすぐのことなんです。

 初めて作ったお菓子が、まさに今食べているようなクッキーでした。

 お母さんに手伝ってもらいながら精一杯作った見栄えのあまり良くないミルククッキーを、千咲が本当にうれしそうに食べてくれた瞬間は今でも忘れられません。

 

「どうしたの?」


 ついぼーっとしていたようで、千咲がわたしの顔を覗き込んできました。

 丁度いい位置に頭があったので手を乗せてなでなでします。


「ありがとう、ちぃちゃん」

「何が?」

「んー、いろいろと」


 千咲が口をへの字に曲げて、私の太ももをてのひらで叩きます。


「なにするの」

「なんとなく」


 そう言って、さらに叩き続けます。

 まあ別に痛くはないので一向に構わないんですけどね。

 左手で千咲の頭を撫でつつ、右手でお皿からクッキーをとります。

 

「千咲、あーん」


 それを千咲の口元へ運ぶと、太ももに感じていた振動が止みました。

 千咲がもごもごしながら何かを言おうとしていますが、全然聞き取れません。

 

「行儀悪いよ」


 千咲がこくりと頷き、ゆっくりと口の中のものを飲み込みました。


「おいしい」

「そっか、ありがとう」


 お礼を言うと、千咲がもう一度頷きます。

 しかし先ほどのもごもごは、もっと別のことを言おうとしていたように思うのですが、気のせいでしょうか。

 おそらく気のせいではないのでしょうが、問い詰めるつもりはありません。

 気にはなりますが、千咲に直接聞いてみたところで素直に答えてはくれないでしょうし、何より今は千咲の口から「おいしい」という言葉が聞けるだけでわたしは幸福なのです。

(終)

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