第5話

「イタリアでの生活はどうですか?」

 一通りの食事を終えた彼女は、再度、店員へメニューを返しながら私に尋ねた。

 一時間半前、ローマに昔から居を構える有名レストランへと入った彼女と私は、感じの良い店員に案内されるまま席へ着いてメニューを貰った。イタリア語と英語で書かれたメニューを開き、どちらも拙い私が一段目の料理はどういった料理なのかを読み解いては、さらにどちらも拙い彼女へと説明をした。

 イタリア料理のフルコースは、全四皿で構成されている。日本でもよく知られる、カプレーゼや生ハムの盛り合わせなどの前菜。パスタやリゾットといった、第一の皿。これはメインの前に食べる皿なのだが、全体的を通して量が多いこともあり、この時点でも、かなり胃は満たされる。続いて、第二の皿。肉や魚の料理が並ぶ、コースの中心たる存在だ。そして、デザートに相当するドルチェで締めくくられる。

 そういった話をローマの名物料理を絡めて伝えると、彼女は前菜にモッツァレラチーズ、第一の皿にペペロンチーノを迷わず選んだ。恐らく第二の皿(メイン)は食べられそうもないし、ドルチェも様子を見てから決めたいとのことだった。パスタに飽き飽きしていた私はリゾットを注文した。

 そうして、会話を交わしつつ、フォークと少しのナイフを動かしていると、瞬く間に時間は過ぎて去って、ドルチェも食べられると判断した彼女は、私を介して再び注文したのだった。

「……まあ、大まかにはあまり日本と変わりませんよ。普段、気になるのは乾燥くらいですかね」

「確かに! こっちに来てから常に水が手放せません」

「でも、乾燥が酷い分、水道の水はそのまま飲めますし、家賃が高い分、食材は安いですし、何処かしらで釣り合いが取れている気もします。まあ、水が硬水で口に合わないだったり、家賃が恐ろしく高いだったりで、積もり積もって、若干、マイナスな気もしますけど」

「それで節約なんですね」

 何気ない会話を良く覚えている。

 感心している私などには目もくれず、彼女が新たな質問をぶつけてきた。

「自分が見つかるまで帰らないんですか?」

 あけすけなまでの彼女の疑問は、私に少しの不快を与えた。その物言いは、侮蔑や軽視を含んでいるように聞こえたのだ。

 しかし、実のところはわからない。彼女自身は食事の場を飾る純粋な会話のつもりで、他意は何一つ無いかもしれない。悪気が無いやもしれぬだけに、私の不満は行き場が無く、それが余計に私を苦しめていた。

「……まあ、一応」

 再び深い深い穴へと落ちた私は、一層、素っ気ない答えを返した。口から出て行った険の色を耳が掴まえ、内心で酷く後悔した。

 けれど、気付いていないのか、気にしていないのか、彼女は薄い微笑みを浮かべて、別の疑問へと移る。

「じゃあ、こちらでアルバイトを?」

「そんな大層なものじゃないですよ。ただの似顔絵描きの真似事です」

 今度は、私が私に侮蔑を込めた。自嘲気味な笑みを浮かべる。

「ああ、それで、画材をしまってたんですね」

 再度、納得した様子の彼女に、私は思わず目を丸くした。

 彼女は私がカバンへ画材をしまった直後に声をかけてきた。それ故、見られていないと思っていたのだ。

「見てたんですか」

「ええ、しばらく階段の上から日本人を探していたので。目は良いんですよ」

 彼女は得意げな表情を浮かべた。その後で突拍子もないことを口にする。

「よかったら、私にも描いてもらえますか?」

「え?」

「鍵が欲しいんです。今日の記憶の扉を開く鍵みたいな。今日、訪れた場所は写真やお土産で思い出せますけど、恩人である貴方との鍵がほとんど無いんです。だから……」

 話の途中から、私は拒絶したい一心だった。人物画は苦手。出来ることなら描きたくない。

 だが、これを好機だと思う自分もいる。彼女は食事を迷惑への対価と言うが、それでも、やはり後ろめたさは付いて来ていた。

「分かりました。良いですよ」

 画板を取り出し、紙を置く。こういう場でも絵を描けるから、画板は手放せない。

 そこで、丁度、彼女のティラミスが運ばれてきた。例に漏れず大きめで、どうにか、食べ終わるまでに描けそうだ。

 鉛筆を持ち、下描きを始める。普段、客に渡している鉛筆画は、最後に紙から絵が落ちてしまわないよう、定着スプレーを吹き掛ける必要がある。しかし、室内で使うには換気が必要であり、食事を行う場での使用などもっての外だった。そこで今回は細い線を引けるペンで清書することにした。ペン画で生きている人間は下絵も無しに緻密な絵を描くらしいが、私の力量ではまだ出来る自信が足りなかった。

 次第にモノクロームの世界が構築される。一つ、線を引く度、紙の中は私たちから遠ざかり、天然の額縁が出来上がっていった。

「やっぱり絵がお好きなんですか?」

 鉛筆からペンに持ち替えたところで、またもや彼女から質問を投げかけられた。ティラミスは三分の一ほどが無くなり、上に乗っていたココアパウダーが器を汚している。

 残り時間を確認した私は、黒鉛に沿って紙へインクを乗せながら口を開く。

「物にもよりますけど、絵は嫌いです。特に似顔絵は」

「どうして?」

「正解がないのに、正解があるからですかね」

 返ってこない言葉に、ふと視線を上げると、彼女は眉をひそめて小首を傾げていた。どうやら意味を測りかねているらしかった。

 またすぐに視線を戻した私は、出来る限りを以て補足する。

「絵の可能性は無限だと思うんです。同じ画材と紙を用意して、全世界の人に絵を描いて貰ったら、きっと、全く同じ絵は生まれない。その全てがその人の考えの反映なのだから、全てが一様に尊敬に値するはずではないでしょうか」

「まあ、そう言われれば……」

「それなのに、誰かが善し悪しを決めてしまう」

 気付けば、手が止まっていた。途端、語ってしまったことを恥ずかしく思い、私は話を切り上げ、絵の仕上げを行う。

「正解なんかある訳ないのに、美しいという曖昧な正解があるから絵は嫌いです」

「そうですか……。すみません……」

 何故だか謝られ、私は返答に詰まってしまった。黙々と絵に向き合い、細かい部分へとペンを走らせる。

「でも……。でもですよ? 似顔絵には正解があるのではないでしょうか」

「というと?」

 やおら始まった彼女の話に、私は興味を抱き、今度は意図して手を止めた。

「そうですね……。例えば、先程のリゾットにシェフの髪の毛が入っていたらどうですか?」 

「嫌ですね。折角の料理が台無しです」

「それと同じじゃないでしょうか。頼んだ相手を喜ばせられない似顔絵は、作者にとって素晴らしくとも、台無しなのではないかなと……」

 絶句。いや、無言の絶叫。

 言葉の槍が私の深くに突き刺さった。見ないよう記憶に作った殻をいとも容易く割り砕き、脳裏に粘度を持った中身をぶちまけた。

 直截に描いた対価として相手の涙を受け取ったあの日、私は二度と絵で人を傷つけないと誓った。

 今の私は、それを守れているだろうか。

 絵の世界に目を落とす。何処を探しても彼女はいない。それどころか人間自体が存在していない。代わりに数時間前に見たトレヴィの泉が広がっている。描き始める際、素直に彼女の似顔絵を描くのは無性に癪だったのだ。

 しばらく絵を眺め、私は泉の端に彼女を座らせた。全身を描くのは久しぶりだったが、下絵無しでも綺麗にはまった。初めからそこに収まるべくして描かれたかのようだった。

 それから、間もなく、ティラミスが器から消え失せた。

 ほぼ同時に絵も完成し、私は裏返しの状態で彼女へ渡した。

「恥ずかしいので、後から見てください」

「ありがとうございます。おいくらですか」

「これはお礼ですから」

 頑として受け取ろうとしない私に負け、彼女は伝票にお金を挟むだけで財布をしまった。

 並んで外へ出ると、昼の暖かさは夜の闇に溶けていた。吹く風が私の中に酷くしみた。

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Roman Dream 阿尾鈴悟 @hideephemera

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