第4話

 遠くに水の流れる音を聞いた。

 前方に開(ひら)けた一画が見えて来る。その場と歩いている道を明確に隔てる右手側の建物の下の角が、一見、岩を埋め込んでいるようになっていた。間違いなく壁を乱しているはずなのに、全体としては不思議と調和を見せている。

 違和感を覚えないという違和感。

 道を抜ければ、答えが分かる。

 あれはそのほとんどを建物と一体化させているトレヴィの泉の一部なのだと。

「ここですか!」

「ええ」

 肯定を聞いた彼女は、私を追い抜き、バッグからデジタルカメラを取り出した。そのままカメラを操作しつつ泉を見やすい位置へと向かって行く。確かに、斜めならまだしも、真横からでは繊細な彫像も白亜の壁も捉えられるはずがない。

 案内を終えたら早々に立ち去ろうと考えていた私だったが、失った一声かけるタイミングを彼女の背中に探そうと追った。

 しかし、途端、彼女は身を翻す。片手でカメラを持ち、その腕を精一杯に体から遠ざけていた。自らとトレヴィの泉を一つの画角に収めようとしていたのだ。本体から百八十度開いた画面はレンズ側からでも見えるようだが、それでも、簡単には納得できる構図にならないらしい。

「撮りましょうか?」

 思わず用意していた言葉とは違う言葉を口にしてしまった。

「いいんですか?」

 画面を閉じながら私へ近付いた彼女は、簡単な操作を説明し、誰かへ取られてしまう前に元の場所へ戻って行った。泉だけが映し出されていた画面に、程なく彼女も収まる。僅かそれだけでも、画面はまるで違って見えた。

 ボタンを押し込む。シャッター音が雑踏に溶けた。滔々と流れ落ちる滝も、動き続ける人たちも止まり、まさしく一瞬が閉じ込められる。今まで受けてきた記念撮影の経験から、念のため、もう一度、世界を切り取る。トレヴィ泉と彼女。そして、その周辺は、変わっていないようで変わっている。始めの絵とはまた別の印象を持っている。

 私がレンズを下ろす合わせ、彼女もこちらへ歩き出す。写真の確認方法を知らない私は、それ以外の操作は何もせずに彼女へとカメラを手渡した。

 やや俯き加減で画面へ目を落とした後、彼女は笑顔を私に向けてくれた。善し悪しはともかく、彼女にとって納得は出来る仕上がりだったらしい。

「じゃあ、これで……」

 手を軽く上げて女性に背を向ける。

「待って!」

 引き留める声。

 予想していた反応のどれをも裏切った彼女に、私は立ち止まって振り返る。差違や立場の逆転があるとはいえ、つい十数分前を彷彿とさせた。

「実は、この後、レストランを予約しているんです。けど、言葉もまともに伝わらなくて心配で……」

 伏し目がちに話し始めた彼女。何処か恥ずかしそうであり、何やら本題を切り出すのを躊躇っているようだった。

 しかし、話の流れからして、大方、察せてしまう。

「それで、その……、もし予定がないなら、付き合っていただけませんか……?」

 結論は決まっているが、あたかも考えるフリをして見せる。首を傾げて腕を組み、その上、幽かに唸りを漏らした。我ながら迫真の演技だった。

 そうして、しばらくしてから、あたかも申し訳なさそうに口を開く。

「ごめんなさい。予定はないですけど、なにぶん、節約しなくちゃならなくて……」

「それなら、私に払わせてください」

 女性の即答に、今度は私がたじろぐ番だった。

 ローマでの外食は、多少のネームブランドもあるのか、結構──いや、かなり良い金額だ。ピザを筆頭とする軽食に分類されそうなものは別として、レストランに入るならば、パスタやリゾットだけでも、私の描く似顔絵、一枚分と同じ値段はしてしまう。

「さすがにそれは……」

「いえ。すでにご迷惑かけてしまってますし、無茶を言ってるんですから、それでも足りないくらいです」

「いやいや! そんな大層なことじゃ……」

 言い淀む私に、彼女は表情を悲しそうなものへと変える。

 嘘から出た実。

 演技だったはずが、本当に悩まざるを得なくなっていた。

「お願いします……。イタリアに来て、ようやく、言葉が通じる方に会ったんです。ご予定が無いなら、人助けだと思って……」

 そこまで言われてしまうと断りにくい。

 気付けば、彼女の後を追って歩いていた。

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