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明治二年五月十八日、五稜郭降伏。ここに戊辰戦争は終わりを告げ、東京の薩長による新政府の天下となった。
投獄されていた榎本釜次郎は明治五年の大赦によって放免となり、四等官北海道開拓使次官として新政府に出仕した。
その榎本釜次郎武揚が北海道調査のために渡道し、すでに函館と改称されていた懐かしい箱館を訪れた時のことである。
函館山から湯の川へ続く東側の大森海岸の砂浜で、彼はひとりの婦人と会った。砂浜にかがみこみ、手で砂を握っては掌から落とすという動作をくりかえしていたその婦人の顔を見た時、榎本は思わずその場に立ちすくんでしまった。すぐに声をかけようと思ったが、なぜかためらってしまう彼だった。
六月――太陽暦に移行する前の最後の旧暦六月――北海道もようやく短い夏の盛りを迎えていた。函館山の山麓には木々が繁り、海峡の向こうには内地の山がかすんで見える。海は叫びとともに砂浜を駆け上がってきては大急ぎで逃げていき、その上に次の波が重なって、単調な光景をくりかえし見せていた。
北海道の表情は、どこまでも固い。海はどぎつい青で、空もまた透きとおるような青さで大地を覆っている。そして平原は、果てしなく広い。
風が心地よく吹いた。頭上を烏の群れが、鳴きながら飛んでいく。
榎本は意を決して、婦人の脇に静かに歩み寄った。
「お琴さん」
お琴は榎本の方をふりかえり、ゆっくりと立ち上がった。その瞳はうるんでいた。
「榎本様……」
「榎本武揚です」
「お久し振りで」
お琴はうるんだ瞳のまま、頭を上げた。
「いつ、函館へ?」
と、榎本は聞いた。
「昨日、着きました」
お琴はぬれた瞳をぬぐい、海の方へと身体を向けた。
「あの人が戦い、そして死んでいったこの地を見たくて、来てしまいました」
そのまましばらく黙って、お琴は海を見ていた。そして厳かに、口を開いた。
「あの人も、あの函館山を見ていたのでしょうか」
「ええ、あの頃は冬でしたから裸の山でしたが、たしかに同じ山です」
「もう、かれこれ三年前のこと……」
「三年……」
「私、もう疲れました」
「疲れた?」
「泣く力も笑う力もなくして、もう涙も出ないんです。ここでこうしていたら、時間というものを忘れられるかも、そんなことを考えていたりして」
お琴は少し、苦笑をもらした。
「馬鹿ですね、私。何を言っているんでしょう」
榎本は黙って聞いていた。お琴はひとりで、海を見たまま話し続ける。
「でも私、今、生きています。これからもひとりで生きていけるでしょう。なぜなら、あの人の面影が、いつまでも私と一緒にいてくれるから」
お琴はさらに続ける。
「あの人はどうしようもなく過去の人です。でも、だからこそいつまでもあの人は、私とともにいてくれると思うんです。だって現在は無常ですけれども、過去は永遠ですものね」
「全くそのとおりです」
「遠い昔、私の家の窓の下を流れる神田川を、ふたりで見つめた日。面影橋の上で夕陽を見つめた日。誠衛館の剣の響き。みんな何もかもが懐かしい」
お琴は目を伏せた。
「もうやめましょう。ふりむいてばかりいるのは」
無理に微笑んで、お琴はまた海を見た。波は何も知らぬかのように、砂浜に打ち寄せてくる。
「海って不思議ですね。あの時はとてつもなく恐ろしくて…、あの銚子沖での嵐の時のように。でも今は、こんなにも優しい」
「それは海が大きいっていう、いい証拠ですよ」
榎本はお琴の背後から、そっと声を掛けた。お琴はふりむかず、語り続けた。
「この海は、何もかも見ていたのですね。何もかも。そしてあの人の面影をしっかりと抱き込んでいる。だって海を見てると、聞こえてくるんですよ、あの人の声が。待ってろ、じき帰るからって」
榎本はうなだれてそれを聞きながら、右手で自分の上着のポケットをさぐった。取り出されたのは詰め衿の軍服を着て、椅子に腰掛けている歳三の写真。榎本はそれを無言で、お琴へ手渡した。手を震わせながらお琴はそれを受け取り、しばらくじっと見つめていたが、やがて頬を写真にこすりつけて彼女は目を閉じた。
「土方さんは私にとっても、忘れがたい人だった。だからその写真を、いつも肌身離さず持っていました。だけど今、それを持つべき人は、お琴さん、あなただという気がしたんです」
「トシさん……」
榎本の言葉には答えず、お琴はその頬に一筋の涙を流した。
「海は少しも変わってはいない」
海に目をやって、榎本は言った。お琴も顔を上げた。
「はい」
「海はあの時と同じ海だ」
「でも短い間に、世の中は変わってしまいましたね」
「だがしかし、ごらんなさい。世の中はいくら変わったとしても、大自然は少しも変わりはしないじゃないですか」
「わかります。人間が
「いつまでもお元気で、しっかりと生きて下さい」
榎本の言葉に、お琴はうなずいた。
「はい。あの人の思い出が、私にはありますから」
「では、また、いずれ」
榎本が頭を下げてその場をあとにしたので、お琴も榎本とは反対の方へと、波打ち際に沿って歩いた。砂の上にくっきりと足跡をつけ、ふりむくこともなく……
雲が砂浜の上に影を落として、またひとつ飛び去って行く。烏の群れの鳴き声は、相変わらずだ。波もまだ、打ち寄せては返すことをやめようとはしなかった。
お琴は歩きながら、海の方へと目をやった。
海という名の、とてつもなく大きな
(海猫 おわり)
海猫 John B. Rabitan @Rabitan
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