3
ふと気がつくと、あたりはもうすっかり暗くなっていた。
お琴の住んでいる鍬ヶ崎から、宮古湾を囲むような竜神崎を巡ったところにある浄土ヶ浜。
ちょうど去年の秋、歳三と二人で来た時と同じような満月が空に低い。小石ばかりの浜に打ち寄せる波も、海の中を沖に向かって林立する巨大な白い三角形の岩たちもみんな去年のままだ。月の光にそれらは照らされて、やはり巨大な影を海面に落としている。
空の星だけが、あの時とは違う模様を夜空に描いていた。
お琴は浜に立った。
海の方を向いている彼女の目の前の、少し離れた所に人影があった。それは月光と海に背を向け、こちらを向いて立っている。スリムな身体の男だ。月の光の中で、まるで影だけが存在しているかのようにも見えた。
人影は静かに、こちらへ歩いて来た。不思議と足音もない。気がつけば、波の音もすべての
人影はたしかにこちらに来る。波も浜に打ち寄せている。視覚は働くが、聴覚は何かの力で奪い去られてしまったようだ。
お琴は自分の心の中の、何かを打ち破るかのようにそっとささやいた。
「トシさんね」
「何も言うな!」
まぎれもなく、返ってきたのは歳三の声だった。
やがてお琴のすぐ前まで、洋装にマントという姿の歳三は来た。そっと両腕を上げ、彼はお琴を抱き寄せた。そのまましばらく無言で、万感の思いをこめて二人は抱擁を続けた。静寂の中、時間さえ流れているのかどうかわからなかった。
「冷たい身体!」
とだけ、ぽつんとお琴はつぶやいた。
歳三は静かに、お琴の身体をはなした。そんな歳三の顔を、お琴は見ようとした。
「帰ってきてくれたのね」
歳三は、ゆっくりとうなずいた。月の光を背に受け、彼は再びお琴を抱いた。しばらくしてまた身体をはなすと、今度はお琴に背を向けそのまま満月の方へと彼は歩き出した。お琴は追おうともせず、ただその後ろ姿を見つめていた。
歳三の姿はすぐに浄土ヶ浜の、夜の闇の中に消えた。それまで聞こえなかった波の音が、急に聞こえ出した。
お琴はその場に、両手をついて座り込んだ。彼女の顔から苦笑がもれた。そして静かにつぶやいた。
「あの人、死んだのよね」
この日の昼前、宮古港に一隻の外国船が入港した。箱館行きを数日後にひかえて仕度やら何やらで、お琴の心も落ち着かないでいるそんなさ中だった。
そして夕刻、お琴を訪ねて来たひとりの若者があった。土方歳三の小姓と名のるみすぼらしいなりのその若者は口数少なく、
「総裁の命により、参上しました」
と、それだけ言って、二通の書状と包み紙をお琴に渡した。
多くは語らず、お琴はその若者を丁寧に帰した。
二階の部屋に戻り、お琴は急いで書状を開いた。一通は榎本からだった。
「
執達
慶応五年五月十三日
蝦夷嶋総裁 榎本釜次郎(朱印)
於琴殿玉案下」
包みの中は、赤地に白く「誠」一字を染めた旗だった。かつて
「誠衛館ではただ単に、道場名の一字を染めただけの旗だった。しかしこれが京に上って、新選組の隊旗となってからは『誠』の一字が生きてきた」
歳三がいつか、そういうふうに言っていたあの旗――ところどころが弾丸のためか、やぶれて汚れている。
もう一通の書状を、お琴はむさぼるように開いた。そこには見慣れた、女手とも見まごうような、歳三の細手の筆跡があった。読み終えたあと、まるで夢遊病者のようにふらふらと、お琴は浄土ヶ浜まで来てしまっていたのだった。
「願はくはこの一書、お琴女の見ん時ノ
あらかしく
おことさん
とし」
歳三はそれだけ言い遺して死んでいった。
明治二年五月十一日、歳三……三十五歳。お琴……二十三歳。
――叩かれて音の響きし
夢の中でさえも
あの人の心に
入れない私
こんなに近くにいるのに
北海の短い夏に
急ぎ咲いた
力尽きて
赤い炎とともに
あなたは何を見たの?
落日までのあいだに
過ぎし日の面影?
「僕を呼んでるんだ
先に逝った仲間たちが」
そう言って
あなたは
星の輝き続ける限り
旗おし立て進まん
流れに逆らいながらも
大空を己の羽根ではばたき・・・・・・・・・・
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