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桜のつぼみを見れば開花時期がわかると、前に誰かが言っていた。江戸ならもう桜も散って、ひと月ばかりたっている頃だ。しかし北国ではまだ、ようやくつぼみがふくらみ始めたばかりであった。
閉伊川の河口の渡船場から、お琴は渡し舟に乗った。六人も乗れば満員となるような、そんな小さな舟だった。まだまだ冷たい風が頬にあたる。風の中に潮の香りがあった。船はゆっくりと対岸に向かった。
河口はその幅をかなり広げ、そのまま宮古湾へと注ぐ。川の流れと波とがぶつかるあたりでは、音をたてて水しぶきがあがったりしていた。今日の海は荒れ模様のようだ。
舟もかなり揺れた。海猫が河口いっぱいに広がって飛び来たり飛び去り、手をのばせば届きそうだ。その鳴き声はすさまじく、けっして潮騒に負けてはいない。空は雲が深くたれこめて、今にも泣きだしそうだった。
対岸に着くと他の乗客とともにお琴も舟を降り、海岸に沿って歩いた。湾はここから
お琴が目指しているのは、そんな遠くではない。川を渡ってすぐの、藤原という小さな漁村だ。その寒村に、幕府軍の軍服の腕に「誠」の文字の入った腕章をつけた将官らしき男の、首のない遺体が打ち上げられたということを、今朝お琴は聞いた。胸が張り裂けんばかりに驚いた彼女は、とるものもとりあえず出かけて来たのだ。
もしやトシさんでは――箱館に行った歳三の遺体では、――お琴の心は、不安でみなぎっていた。
今、歳三は、榎本釜次郎らとともに蝦夷地の箱館にいる。
昨年の秋、行方不明だった歳三が宮古へ来た。思いもよらぬ再会に、お琴はいつぞやの夢の続きを見ている気分だった。いや、今でもそれが夢であってほしかったと時々思う。
会津、庄内と転職した歳三は、仙台で榎本釜次郎の艦隊と合流、ともに蝦夷地へ行くことを決心したという。無論、薩長と戦うためだ。宮古へは艦隊の薪水補給のために、寄港したということだった。
榎本の援助のお蔭でこの地に来ることができたお琴は、またもやその榎本のお蔭で思いがけない所で思いがけない人と再会し、甘い時間を過ごすはずだった。
ところが歳三からは誠衛館のあるじだった近藤勇が、元新選組局長として薩摩の手で処刑されたということを聞いたのみで、二人の間の空白の時間を埋めることはできなかった。歳三は昔の仲間達とも別れ孤独な境遇で、馴染めない榎本軍に加わっているらしい。
それはお琴にも分かる。
だが彼は、お琴を見ようとはしなかった。「過去はふり捨てた」という彼の言葉。
「世の中も、とんむぐれせえんすたあねんす。徳川様がかま
そんなお妙の言葉に時勢の非情を感じたお琴はただ、酒で気をまぎらわせるだけだった。
榎本艦隊のあとを追うようにして、イギリス船に身を寄せて箱館に向かう伊庭八郎が、お琴のもとを訪ねてきた。歳三とは誠衛館時代からの古い友人である伊庭と語っているうちに、お琴は歳三が自分にとっていかに重要な存在だったかを思い知らされた。今は戦いの中。そして伊庭もすぐに、箱館へと向かって行った。
それからというもの何もかもが時勢と、お琴はわりきって月日を過ごすことにした。今は歳三が、箱館にいることはわかっている。かつて行方不明だった時とはわけが違う。そのことのみが、彼女にとって歳三を想う力となった。
そして年も明けて、明治二年三月……
官軍となった薩摩長州の艦隊が、宮古へと入港して来た。行き先はわかっている。箱館だ。
町には言葉もわからぬ薩長の兵士であふれ、彼らを官軍などとは思わぬ宮古の市民達は、憎悪の念からその家々の雨戸を固く閉ざしていた。
――ピーヒャーラ、ラッタッタ、ピーヒャーラ、ラッタッタ……
あの下総
――宮さん、宮さん、お馬の前にひらひらするのは……
そんな歌詞の歌に、お琴は思わず耳をふさいだ。
ある朝お琴はまどろみの中で、汽笛の音を聞いたような気がした。薩長艦隊が出航して行く。そう思った彼女の胸の中には、複雑な思いが渦巻いていた。やっとこの町から薩長がいなくなるという安心感……しかし官軍北上は、歳三ら箱館に籠る幕府軍との全面戦争の開始を告げるものでもあった。
お琴は雨戸のすきまから、港の様子をのぞいてみた。その時彼女は薩長艦隊が出航して行くわけではなく、メリケン船が入港してきただけだということを知った。船尾の星条旗はいつか品川宿で、それがメリケン国の旗だと歳三から教えられたことがあったので分かる。お琴は雨戸をしめ、暖を求めて布団へと戻った。イギリス船が来た時と同じように、今日からは薩長に混じってメリケンの船員の姿がこの町にあふれるであろうことを想像した。そして、もう少し眠ろうとした。
その時、「ガシッ」という大音響が、朝の港に響いた。もう一度慌てて雨戸を開けてみると、メリケン船の星条旗はいつの間にか箱館軍の日章旗へと変わっていた。そしてその船は、菊章旗の薩長艦のひとつに舳先をのりあげている。メリケン船だと偽装していたのは、箱館の幕軍艦だったのだ。外輪船であるため完璧な接舷はできていないが、それでも兵が官軍艦へと乗り移って、修羅場がそこに展開されていた。そのような中でも海猫たちは、無数に二つの敵味方の軍艦のマストに群れてとまっていた。
「何があったんであんすか?」
お妙が階段を駆け上がってきた。お琴の肩越しに港の光景を見たお妙は、すぐに大声を出した。
「ありえ、こどだあ! 先生、ぐぐっと逃げとであんせ!」
お妙はまた、階段を駆け降りていった。
艦の上の水兵の叫び、剣撃の響き、連発式銃の音、それらが陸の上の人々の声と重なった。あわてふためく上陸していた薩長兵、逃げる鍬ヶ崎の人々、何ごとかと見に来た宮古市街の人々、それらの騒ぎがいっしょくたとなって怒濤となり、町じゅう渦を巻いていた。
艦砲射撃が始まった。船の上の海猫は、一斉に飛び立つ。海面には無気味な水柱が、何本も上がる。
お琴の足は震えていた。
世界の海戦史上でも名高い、宮古湾海戦である。
今日、藤原村に打ち上げられたという遺体は、その時のものに違いない。もし歳三もあの海戦に参加していたら、メリケン船に偽装して入港して来た箱館軍の軍艦に乗っていたとしたら……可能性は充分にある。
この地方には珍しく、藤原村は砂浜だ。湾の対岸の閉伊崎、その上の月山も、かなり緑が濃くなってきている。
細い道の右側、人だかりが見えてきた。小さなお堂があり、手前のわずかな空地を、人だかりは埋めつくしている。
お琴は小走りに走り寄り、人垣のうしろから背伸びしてのぞいてみた。遺体には薦がかけられてあった。薦の下は見えない。僧がひとりその前に座り、経をあげて、いる。読経の声は海の方から吹いてくる強い風に、時折とぎれたりしていた。
息をのんで、お琴は立たずんでいた。やがて読経も終わり、一度だけ薦がとられた。人々の間に、どよめきが上がった。首のない遺体は、たしかに金ボタンの将校の士官服を着ていた。だがその体格から、歳三ではないことだけはすぐにわかった。今までお琴の中にあった不安は、すべて消え失せた。そのかわりに、言いようのない哀れさが、彼女の胸に飛びこんできた。
戻ってから店のとまり木に座って、お琴はお妙に言った。
「トシさんじゃなかった」
「そうでごぜえんしたか。それはよごぜえんしたあごど」
「でもトシさんだって今頃どこかで、今日の人と同じ姿になっていないとも限らないのよ」
お琴は卓上にうつ伏せた。
お琴が再び藤原村を訪れたのは、それからひと月あまりたった頃だった。
空はよく晴れていた。こんな北国でもそれなりに夏めいてきて、空の青さも濃くなっている。朝の陽射しを受けて海も胸騒ぎの香りを漂わせ、五月の風がそれを運んでいた。
将校の遺体を埋葬した観音堂の手前には、「幕軍勇士之墓」と刻まれた木製の仮りの墓碑が立てられていた。お琴は持参した花を、その墓碑に手向けた。――トシさんももしかしたら――そんな思いがあるので、いやでも墓の下の人への憐れみが増してしまう。
背後に人の気配を感じた。漁師ではなさそうな、町人風の細身の中年男が立っていた。
「あの」
と、お琴の方から声をかけた。
「こちらに葬られた方は?」
「さあ、『誠』の腕章から、新選組の野村利三郎というんだあども、はっきりしたごどはわがんねえがねえ」
「やっぱり新選組」
新選組があの軍艦に乗っていたということは、歳三も間違いなく海戦に参加していたということになる。なにしろ歳三は、かつて京都では新選組の副長だったのだ。
「失礼だども、
「ええ、いささか」
「江戸から、あ、いや、
「そうです」
ためらいもなくお琴は言った。そして海に目をやった。観音堂と海との間には、小屋がひとつあった。
「淋しい風景ですね」
「そんだあ、その小屋は仕置場でえんす」
海猫の声がここでも波の音と重なって光景を覆い、より一層の悲哀感を増していた。
お琴はその男に目礼をして、ひとりで波打ち際まで歩いた。そして放心したように、湾の入口に向こうの水平線を無言で見つめた。さっきの男は、もういなくなった。お琴はひたすら海を見つめ続けた。そしてここひと月考えて決心したことを、水平線を見ながら確認していた。
暖簾をわけ、お琴は店に入った。若い二人の魚師が、ちょうど出ていくのとすれ違いだった。店の中に、残された客はいなかった。
「お
と、お妙は言った。
「ただいま」
「そろそろお昼でごぜんす」
「え? まだ早いんじゃありません?」
「ん?」
店の中を歩いてくるお琴の足に、お妙は目をとめた。
「ありえ。先生、びっこひいで、怪我でもせえんすたあのんすんかあ?」
「ううん。さっきね、帰ってくる途中すぐそこで、
「んなあ、
お妙は先の客が使ったどんぶりを、洗い場の方へ持って行った。お琴は腰掛けに座った。
「それよりねえ、おばさん。私、決めたの」
「何を決めとがったあの?」
どんぶりを洗いながら、お妙はお琴に背中だけ見せていた。お琴は目を伏せ、卓の上の唐辛子の容器を手でいじりながら言った。
「ここひと月考えて、決めたのよ。私、箱館に行く」
お妙はどんぶりを洗う手を休め、ふり向いた。
「そうでごぜえんすか。
「ええ」
「いいがもしれねえがねえ」
お妙はわずかに
「行がれんのう」
「行く。行ってトシさんに会って、素直に謝るつもり。真心を見せれば、あの人も許してくれると思うの」
「それがいちばんだ。で、
「トシさんが箱館でいっしょに暮そうって言ったらそうするし、迎えに行くのを待ってろと言ったら、またここに戻ってきてあの人を待つことになると思う」
お妙は完全に仕事の手を止めて、前かけで手をふきながら、とまり木の向こうに腰掛けた。
「よごぜえんした」
「こんな素直な気持ちになれるまで、ずいぶん時間がかかったけれど、やっぱり私、あの人がいないと生きていけないってようやく分かったの」
「それだあども、今は五月だがえ。もうじき、
「ううん、蝦夷地には五月雨はないそうよ」
お妙は優しくうなずいて立ち上がり、もとの作業を再開した。
「んで、船のあては?」
「ないけど、これから探す」
「んだったらあ、早ぐ廻船問屋さ行っとがん」
「そうね、善は急げっていうし、今から行ってくる」
お琴は草履の花緒を切っていることも忘れてあわてて立ち上がったので、不意につまずきそうになった。お妙はそれを見て大笑いをした。
「あわてねで、
お琴もちらりと舌を出し、肩をすくめて笑った。
廻船問屋は同じ鍬ヶ崎の、割りと近くにあった。暖簾をわけて入ると、大きな店の中は土間となっており、帳場に手代が座っていた。
「何か御用でごぜんすか?」
手代は頭を上げて言った。
「はい。箱館へ行く便がないかと思いまして、お伺いしたんですけど」
「箱館って、あの蝦夷地の箱館すか?」
「ええ」
神経質そうな若い手代は、いぶかしげにお琴を見た。
「なしてまた?」
「ええ、便乗させて頂けたらと思いまして」
「あんだが?」
「はい」
手代は珍しいものを見るかのように、お琴の頭の上からつまさきまで、じろじろと見つめた。
「ひと月ほど前、薩長の黒船が箱館さ行ったばかりで、向こうは
「知り人を訪ねて行くんです」
「知り人? 知り人をねえ」
手代は何か書き物が、とじてあるものをめくった。
「えっと、今日は五月の……えっと…」
「十一日です」
「ほんでばあ、今月は二十日過ぎねえど、船は出なごぜんすんが」
「二十日過ぎ?」
「そうだがねえ」
「じゃあ、それでもいいです」
「それでは、二十日頃にもう一度来てみどがんせ。途中に青森ど小泊さ寄ってから箱館だから、着くのはたぶん六月になるごったあども」
「分かりました。じゃ、よろしくお願いします」
お琴は自分の行動力にわくわくして、微笑みっぱなしのまま帰って行った。
「おばさん! 行ってきた!」
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