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宮古は本州最東端、最初に朝日を見る町だ。この
お琴も毎朝、海猫の声で目覚めた。
目覚めとともに、二階の部屋では、雨戸のすきまからさしこむ光で、その日の天気がわかる。今日は鋭い光線が、はっきりと畳に突き刺さって見えた。雨戸を開けてみると、やはり快晴だ。
目の前はすぐに漁港で、いくつもの漁船が岸壁に並んでいる。湾を隔てた向こうは月山だ。海は朝日を受けて、波間に無数の金粉を漂わせていた。
お琴は、自分が今まで見ていた夢を思い出した。限りなく平和な夢。心のどこかはまだあの神田川の見える窓辺に残してきているようだし、その想いもまた歳三の上を寸時も離れぬらしい。
窓から身をのり出し、お琴は朝の漁港の空気を吸い込んだ。頬に十月の風があたる。息が白く凍った。確実に冬がやって来たようだ。
あの夢の中の頃から五年。お琴はもう二十二歳。自分も世の中も、あまりにも目まぐるしく変わりすぎた五年間。お琴は海の雪のように群れ飛ぶ海猫を見つめながら、ここへ来るまでのことを思い出してみた。
江戸に進駐する薩摩や長州の軍を避けて店もたたみ、父と二人で下総、安房と疎開。その安房で誠衛館時代の歳三の友人である伊庭八郎と偶然再会し、彼に幕府海軍の榎本釜次郎にひき会わされたのがほんの四ヶ月前。それから榎本の援助で父の故郷、しかし自分にとってははじめての土地である宮古へと、お琴はやって来た。
ここへ着くやいなや、港に近い鍬ヶ崎のそば屋の二階に間借りできた。明日は家財道具などを求めに行こうなどと父と相談していたが、翌朝になってみると父は、一晩だけ借りた布団の中で冷たくなっていた。長い船旅は、老体の父には無理だったらしい。父が故郷の土にかえることができたことだけが、お琴にとってせめてもの慰みだった。
葬儀をすませ、必要最低限の家具や着替えなどをそろえると、父が背負ってきた銭箱の中味はあらかたなくなっていた。
ひと月前からお琴はここで、三味線の師匠を始めた。今はそれで何とか食いつないでいる。鍬ヶ崎は花街だけあって、弟子はすぐについた。みな芸者になるための修行だという。彼女らを魅きつけたのは、やはりお琴の「江戸から来た」というふれこみだろう。地方都市特有の中央指向は、ここでも旺盛のようだ。
月日は静かに流れていった。
お琴は身だしなみを整えて、下へと降りた。すぐにそば屋の店に出る。店は二間ばかりの土間で、とまり木と卓が二つだけの小さなものだった。とまり木といっても腰掛けではなく、土間から一段高くなった畳が敷いてある台の上に草履を脱いで上がって座る。卓もまた、畳の台の上だ。
とまり木の中には、夜になると居酒屋ともなるこの店の
「あれ、先生。おはやごぜえんす」
「おはよう、おばさん」
とまり木の向こうとこちらで、二人はそばをすすった。
宮古に着いた日、まずは腹ごしらえにと、お琴と父はこの店に入った。
「どごが部屋を貸してくれっどこ、知らねえすか?」
久々に使う故郷の言葉で父が言ったところ、
「そんだったら、おらほうの二階さ住んでくだせんせ」
と、軽く言ってくれた、お妙はそんな人なのだ。
「先生。今日は機嫌がいいがねえ」
「ちょっと、夢見がよかったから」
「夢?」
「そう、昔の夢」
「昔でごぜえんすか」
お妙は少し含み笑いをして、お琴を見た。
「先生のようなめんこい娘っこだら、嫁のもらい手を多がったでやんすべえなあ」
「そんなあ」
「好ぎようと、おらあねえすべえが?」
はにかみながら、それでもお琴はゆっくりとうなずいた。
「ありえ、すぐね。どこさおれえんすのえ?」
「さあ、それが全然わからないの」
「まさが…」
「本当に全く消息不明。生きているのか死んでいるのかも。幕臣のひとりとして、薩長相手の
つぶやくように言い捨てて、お琴は箸を止めてうつむいた。
「先生の好きようとは、おさむらいさんであれえんすべ」
「最初は違ったの。もともと百姓のせがれだったのに、剣術の道場の師範なんかやってて、勝手に武士のかっこうして…。それである日突然、京なんかに行っちゃった。浪士隊に参加するってことで。許嫁の私をおいて…。それで四年もしてやっと帰ってきたと思ったら、百姓のせがれだったはずのあの人は、幕府直参旗本なんて手の届かない人になっちゃってて、そんでまたすぐにどっか行っちゃった。薩長と戦うためにですって」
「それだったら、ここにいればそのうちに分かっかもしれねえがねえ」
わざと励ますように、お妙の声は明るい。
「こごはあちこちのことはすぐ知れる港だ。南部様の盛岡よりは
たしかにこの町に情報が入ってくるのは早い。情報は海路で入ってくる。年号は慶応から明治へと変わったこと、まもなく天朝様が京から江戸へと移ってこられることなど、いち早く伝わっていた。
「そんで会津も負けて、仙台も薩長に降伏して、奥羽列藩同盟も壊れたずうもの」
「そうですか」
かえってこの情報は歳三の所在を、完全に迷宮入りさせてしまうことになった。
「先生も淋しいごどでおれえんすべ。お父ちゃも、あんなあごどになって。今まで父一人娘っこ一人だったあべえが」
「ええ、母は小さい時に死んだから」
「んだったら、
お琴はやっと笑った。ちょうど食事も終わったので、どんぶりにお妙に返した。
「ごちそうさまあ」
「はい、おおきにィ」
こんな言葉の端にも、宮古が上方と接触の深いことが表れている。二階に戻ると、もう日は高くなっていた。弟子が来るまでの時間を、お琴はぼんやりと空を眺めて過ごすことにした。
たしかに目まぐるしかった五年間。しかしとりわけ、この一年間の世の中の変わり様――四年ぶりに京から江戸に戻ってきた歳三や井上源三郎と三人で、歳三の故郷の日野を訪れたのはちょうど去年の今頃だった。誠衛館の先代
ふと海猫の声で我に返り、お琴の想いは去年の今頃から 現在へと引き戻された。
窓のすぐ下は港通りで、倉一棟の向こうはすぐに海となる。湾の対岸の月山がそびえているのは閉伊崎で、左の方は竜神崎が湾の入口をふさぐように突き出ていてここから水平線は見えない。目の前の湾だけが湖のように、山に囲まれている。
たしかに中央との接触は深い港だ。しかしここでこうして目の前の風景を見ている限り、お琴はどうしても自分が絶海の孤島にとり残されているというような感覚に陥ってしまうのであった。
「先生! お弟子さんでごぜえんす」
階下から、お妙の声がした。
「はーい!」
お琴は立ち上がった。
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