海猫
John B. Rabitan
序
――お琴が帳場に座っていた時、店の方から
「まあ。雨、降ってるの?」
「ああ、急に降りだした。だから、高田馬場から走って戻って来たんだ」
歳三は剣撃の道具を肩からおろして腰のものもはずし、薄汚い袴の雨滴を払った。
「お琴! 土方さんかい?」
奥で父の呼ぶ声がする。
「はーい!」
お琴は大きな声で答えると、歳三を見た。二人の視線の中に、共犯めいた微笑が生じた。
父が奥から出てきた。歳三に愛想笑いを見せて頭をたれた細身の老人は、自分の娘に言った。
「奥へ入ってもらいなさい。店はわしが見ているから」
三味線のさおが並ぶ店先は、半分が土間だ。店を出た右側には冠木門があって、その奥へとわずかな庭が続いている。その庭に沿って濡れ縁となっていた。
いちばん奥の四畳半に、歳三は通された。庭と垂直になる奥の壁には、障子窓があった。お琴はそれを開けた。
「あら。雨、やんだみたい」
「やんだか」
歳三がひとつ、ため息をついた。大刀を右に置いて座布団に座り、その位置から彼は庭を見ていた。軒下にはたった今まで雨が降っていたことの証のように、雫がたれている。風にあおられ、南部鉄の風鈴が鳴った。
障子窓から見る風景は、一面わさび畑だ。曇った空の下、大地は続く。遠くには護国寺の森がこんもりと丘になって、畑の中に浮かんでいるようにも見える。
江戸郊外戸塚村――静かな農村風景である。
窓の下には神田川が、緑の土手の底に流れていた。水はわずかに増水し、茶色く濁っている。神田川はそのまま畑の中をくねり、目白台の高台の下の方へと流れていく。
「にわか雨だったのね」
「着いたとたんに、やんだようだな。
歳三はそう言って、苦笑をもらした。
「着物、濡れたでしょう」
「なあに、いいさ。じき、かわく。素浪人にはふさわしい、ボロだ」
「これから、日野?」
「ああ。また、出稽古だ」
「たいへんなのねえ」
「しょうがねえ。俺たち、天然理心流の貧乏道場は、それだけが
お琴は歳三の剣撃の道具に目をやり、すぐに視線を窓の下の神田川へと移した。
天然理心流の剣術道場誠衛館師範代、土方歳三――二十九歳。三味線屋「みちのくや」のひとり娘、お琴――十七歳。彼女が歳三の
「土方さんちは百姓は百姓でも、そんじょそこいらのどん百姓じゃねえぞ。日野のお大尽と呼ばれるほどの物持ちの家だ、土方さんちは」
その百姓の末弟であるはずの歳三が、許されたわけでもないのに勝手に武士のいでたちで、今ここにいる。幼いお琴にはそれがどういうことなのか、そしてそれ以上に、歳三は自分にとって何なのか分からないでいた。
軒下では南部風鈴が、相変わらず音をたてていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます