一ノ坂川は小さな川だ。緑の多い町中を、さらにその両側に緑を侍らせてくねっている。

 川の脇の小径を、弥市はひとりで歩いていた。昨晩露山堂を辞してから見つけて泊まった旅篭から、藩庁へ向かうためだ。

 藩庁で高杉に会う。この国の、今や藩主よりも実力者の男に会うために、今夜は歩いている。そればかりではなく、その実力者の洋行に自分も同行させてもらうことを頼みに行くのである。昨夜の申し出は、幾分酒のせいもあったかもしれない。しかし今はまじめに洋行のことを考えている。

 彼の胸は、はち切れんばかりに高鳴っていた。洋行――本来なら生涯自分とは無縁の存在であったはずの地に、自分の足で立つことである。まだ実感が沸かない。洋夷の国の何もかもが、想像すらできないのだ。しかし今その想像もできない国に向かって、自分は一歩ずつ歩いているような気がする。

 新選組から逃げるために、新選組が絶対手の届かない場所としてこの長州を選んだ。しかし今や想像を絶するほど新選組とは無縁の地、洋夷に向かって歩いているのだ。

 堀が見えてきた。藩庁の表門も見える。その門の中で待っている昨日会った高杉のことを、弥市は考えていた。

 弥市の胸が高鳴っていたのは、実は洋行のことだけではなかった。

 高杉という人物に、弥市は初めて会ったという気がまるでしなかった。

 本来百姓だった彼がずっと憧れて、そしてやっとなることができた武士。武士は主君に忠でなければならない。新選組には主君はいなかった。そして今、この人こそ主君といえるような人物に、彼はようやく出会えたという気がしていた。少なくとも自分を認めてくれた、そんな人物が高杉なのだ。

 藩庁の表門で番兵に来意を告げた。高杉の名を出すとすぐに通してくれた。彼が考えていたのは来意を告げると、ニコニコして高杉が出迎えてくれる光景だった。そこまでは想像どおりにはいかないようだ。しかし逆の心配、すなわちそのようなことは聞いていないといって門前払いにされるようなことはなかったので、一応は安心だった。

 いかにも事務的な役人に、弥市は狭い部屋に通された。そのまま待たされること半時、ようやく現れたのは高杉ではなく、これまた役人然とした武士だった。

「お待たせ致した。僕は高杉君の配下で、伊藤と申す者であります。少々お尋ね致したいことがござるのでありますが」

 弥市は姿勢を正して、伊藤という役人と対座した。

「実は高杉君から、あらかじめお伺いしておくように仰せつかっちょるんですが、その、君はここへ来る前はどちらに?」

「京におりました」

「京では?」

「志士として活躍してました。長州藩邸にお世話になったこともありますけど」

 よくもまあこう嘘が出るものだと、弥市は自分でもおかしさを感じてしまった。役人は弥市が言うことをひとつひとつ、横長の帳簿のようなものに筆記している。

「して、そのお顔の傷は?」

 いいかげん取り調べを受けているようで、あまりいい気はしなくなってきた。しかし今や藩の第一の実力者の高杉とともに洋行させてもらうのだから、このくらいの身元調査は必要なのかもしれない。おそらくはこの面接次第で、洋行の可否が定められるのではないかと、弥市は密かに憶測していた。

 それなら顔の傷は名誉の負傷として利用できる。惣兵衛を信じさせたのも、たしかこの傷だった。

「これは新選組とやりあっての傷でして」

「ほう、どこで?」

「ええ、西本願寺ででした」

 西本願寺に土佐をはじめとする長州系浪士が潜伏していたのは事実である。それを知っている彼は、話に信憑性を加えるのに有利だった。

「その時の様子を詳しく」

 役人の目が、少し輝いたようだ。

「実は今年の正月なんですが、土佐勤皇党の方々と大坂で決起しようとしたんですよ。ところがそれを新選組に察知されましてはね、ぜんざい屋を襲撃されて、それを免れた同志たちは京に上って、御懇意にして下さっていた西本願寺にご厄介になっていたんです。そうしましたら、ひと月ほどたってからでしたかねえ、また夜中に新選組の来襲がありましてね。この傷もその時のものなんです」

 何しろ背景が実話なのだから、ばれるはずのない嘘である。

「それはたいへんでありましたな。で、何ゆえ尊攘の志士たる君が洋行を?」

「高杉君の御高説に感服したからです」

「分かり申した」

 役人は帳簿を閉じた。

「しばらくお待ちを」

 役人は立ち上がった。

 どうやら第一次面接は上々だったようだ。やはり高杉ほどの地位の人になると、いきなり直接の面接はしないようだ。これが可ならば、次は直々だろう。気に入ってもらえれば「はぐくみ」も、あるいは藩士お取り立ても夢ではないかもしれない。何もかもが自分のまわりで、嘘のようにうまく回転しつつあった。

 障子があいた。入ってきたのは先ほどの役人の伊藤だった。

「高杉君がお待ちであります」

 弥市の顔にパッと陽がさし、彼は慌てて右側に置いていた大刀の鞘を握った。

「ただ、話が話だけに藩庁内ではどうもということで、別の場所で待っちょっておいでであります。今から御案内申します」

 案内されるまま門の外に出ると、そこに町駕篭が待っていた。弥市はそれに乗った。駕篭かきにはすでに行き先は告げられてあるらしく、乗るとすぐにかけ声とともに駕篭は走りだした。

 駕篭は郊外の、露山堂へと続く小径を走った。道はわずかに登り傾斜だ。弥市は高杉との会談場所は、てっきり昨日の露山堂だと思っていた。しかし露山堂へ行くならば曲がらなければならない所を、駕篭はそのまま通過した。五重塔のある璃琉光寺の門前をも過ぎ、駕篭はさらに山に向かって進んでいった。

 道がかなり急な登り坂になった頃、山口の町並が右手遥か下に一望できた。もはや人家はなく、完全に市街からははずれている。

 道の左側に、ちょっとした空き地がある所へさしかかった。そこに高杉が立っていた。懐の中で腕を組み、草の薬をくわえている。まわりにも武士が四、五人はいた。

 駕篭がとまったので、弥市は降りた。

 高鳴る胸とともにゆっくりと高杉のそばまで行き、弥市は地にひざをつけて畏まろうとした。高杉は表情ひとつ変えずに立っている。

 その時、脇にいた武士のひとりが高杉の前に出て、弥市との間に立った。

「ご苦労」

 と、武士は言った。厳しい表情をしていた。弥市は身をかがめた。

「先ほどの調べについて、聞かせてもろうたよ。君は西本願寺におったそうな」

「はあ」

「実は、僕もおったんだぜよ、西本願寺にね」

 弥市は何も返すことばが言えなかった。ぽかんと口をあけて、ただ武士の顔を見上げていた。しまったと思うまで、ずいぶん時間がかかった。

「そうでしたか」

 やっとそれだけ言って、あとはどうごまかすかで彼の頭はいっぱいになった。少なくとも自分が西本願寺に潜伏していたというのが嘘であるということは、これでばれてしまったのである。

「そのお顔の傷は西本願寺でっちいうんは、これだけは嘘じゃないのう」

「え?」

「よく覚えとるぜよ。その傷は僕がつけたんじゃきに」

 全身の血が、一瞬のうちに凍結した。西本願寺で自分と格闘して頬を斬り、そのまま闘争した敵の、その顔が今目の前にある。

「君は間違いなく新選組におったな」

「それに」

 別の武士が口を開いた。

「我われが手に入れた新選組の名簿の中にだな、五番隊岩田弥市というのがおるんじゃがな、ただの同姓同名か?」

 また弥市はしまったと思った。長州に来るにあたって、少なくとも名ぐらいは変えて来ればよかった。

「君は新選組の密偵かね、間者かね。よくもまあここまで入りこんだもんじゃ。感心すっぜよ」

 武士の吐き捨てるようなひとことを合図に、他の武士たちは一斉に刀を抜いた。

「そんなんやあなあい!」

 弥市は叫んだ。それでも彼を包囲した白刃は、じりじりとその輪を縮めてくる。

「僕は新選組はやめたんや。もう新選組やない。ほんまやで!」

 そのまま地を這いつくばって、弥市は高杉の足にすがりついた。

「高杉君! 信じてくれ! 僕はもう新選組やない。もうきっぱりと足を洗ったんや。間違いなく志士やで。ほんまや。僕は勤皇の志士や!」

 高杉の目は、虚空を見ていた。そのあとゆっくりと、口びるだけが動いた。

「新選組は、斬れ!」

 弥市は目の前が真っ暗になった。さっきの武士が、そんな弥市を横から見下ろしていた。

「君はあの時、僕を卑怯者だっち言うたのう。武士に向かって卑怯者と言うたら、どうなるかは分かっとるな。君も武士なんじゃきにのう」

 ついに白刃が、彼に向かって次々に降り下されてきた。弥市は自分の腰の物を抜く暇とてなかった。

「俺は、新選組やあ、なあい!」

 背中に氷と、激痛が走った。頭がクラッとする。さらに二、三太刀あびて自分の血しぶきが地を染めるのを、弥市の目はおぼろに見ていた。それでも弥市はふらふらと歩いて、高杉にすがろうとした。

「武士らしく、観念せい!」

 高杉が叫ぶ。

「わっちゃ百姓や! 武士やないッ!」

 またひと太刀あびて、ついに彼は倒れた。そして地に転がりながら瀬死の息であえぎ続けた。その間――百姓でいればよかった――という思いが、彼の脳裡をかすめた。

「この期に及んで百姓だと? この卑怯者!」

 高杉の言が、最後の彼の意識に突き刺さる。実際自分は卑怯者だった。どんな大義名分をこじつけたにせよ、自分は新選組から逃げた。その逃亡を自分の中で正当化し続けてきた。しかし結局逃げたにすぎない。そして逃げきることはできなかった。どこまで行っても逃げることはできなかったのだ。

 弥市はそれ以上のことは考えることはできなかった。とどめのひと太刀が慶応元年の空から、弥市めがけて振り下ろされた。


(新選組脱走録 おわり)

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新選組脱走録 John B. Rabitan @Rabitan

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