隊内に残留潜伏していた伊東の一味も処分し、これで少しは紙つぶても飛んで来なくなるだろうとひと安心だった。

 やっと事態は一段落したといえる。

 ただ、歳三の心に、もうひとつ暗い影が落ちた。茨木司のことである。

 ある日、沖田総司を見舞うと、布団の中で激しく咳こみながらも、総司は言った。

「茨木さんが出て行く前に、ここに来ましてねえ」

 年齢も同じくらいとあって、茨木は総司とも仲がよかった。その総司の話によると、茨木は伊東の高台寺党に加わる気など毛頭なく、脱隊して郷里の奥州に帰るつもりだったのだという。こそこそと逃げ出さずに堂々と会津侯の仲立ちをもってと考え、高台寺党に寝返るつもりの佐野らと行動をともにしたようだ。律義な彼なら、ありそうなことだった。

 またひとつ、これで合点がいくこともある。例の嘆願書の署名だ。茨木が佐野とともに月真院へというのなら、佐野の名こそ最初に記されていて然りだ。だが、佐野の名よりも前に、茨木の名が冒頭にあった。その時は、茨木が伍長で佐野は平隊士だからだと思っていたが、今になればこれが、茨木が佐野とは行動をともにしないというしるしだったともとれる。

 だが、もう遅い。時は戻らない。

「いずれにせよ、脱隊は切腹だ。局中法度書は、まだ死んじゃあいねえよ」

 歳三はぽつりと吐き捨てた。

 その日近藤は、佐野、茨木らの斬殺のあと始末に、京都守護職上屋敷に行っていた。戻ってきた近藤は、暗い顔だった。

「叱られたよ」

 と、近藤は歳三に言った。

 守護職上屋敷を斬殺の場にというのは、会津侯の耳には入ってはいなかった。すべては公用方の小野権之丞の一存だった。だから小野ともども近藤も、会津侯松平容保から直々のお叱りを受けたという。そればかりではなく、新選組から倒幕組織高台寺党が生まれてしまったことについても、はじめて叱責されたということだ。歳三は納得がいかなかった。

「なんで近藤さんが…… 悪いのは伊東たちじゃねえか」

「そうなんだけど、事は大坂城代のお耳にも入っているようで、会津様への風当たりも強いようだ」

「だからといって、近藤さんを叱ることはねえだろう。いいとばっちりじゃねえか。何も近藤さんが悪いわけじゃあねえ」

「ああ、まったくその通りだよ。しかしなあ、ここで会津侯と喧嘩したってはじまんねえしなあ」

 それぞれの身分は幕府直参旗本になったとはいえ、組織としての新選組が会津侯の配下であることは、依然変わらない。

「会津侯の我慢の限界が来て、新選組解散などという事態を私は恐れていたんだけど、なんとかそれはなさそうだ」

「あたりめえだ。あってたまるか」

「それでだなあ、トシさん」

 近藤は身を乗り出した。

「いよいよ、新しい体制固めをする時だ。新選組再建のためには、新しい隊士がいる」

「そうだとも」

 歳三の顔が輝いた。新隊士募集について近藤は、ようやく重い腰を上げるようだ。

「トシさん。ひとつ頼む」

 歳三は二つ返事だった。手だてはある。まずは募集は、江戸で行なうことだ。

 近藤が三年前に自ら江戸へ赴いて隊士を募集して来た時は、ついでに伊東一派というお荷物もつれて来てしまった。今度は歳三は、人選には最大の注意を払うつもりでいた。

 学問のある者は採らない。学問があるということは、士道においては馬鹿である。洗脳されやすいし、またしがちでもある。

 剣も北辰一刀流などのような、名門の者は採らない。特に北辰一刀流は、虫が好かない。歳三の知っているかぎりでも清川八郎、山南敬介、伊東甲子太郎、藤堂平助・・・・・・ロクなやつはいない。

 他にも歳三の江戸下向には、また別の理由もあった。誠衛館の先代あるじで近藤勇の養父でもある近藤周斎は、ここのところずっと病の床に伏せていたが、いよいよ危ないという知らせが主治医の粕屋良循から早飛脚で届いていた。その見舞いも兼ねている。歳三の出発に当たって近藤は、新選組の後援者でもあり天然理心流の同門、歳三にとっては義兄でもある日野宿名主の佐藤彦五郎に書状をしたため、歳三に託した。

 月真院の方からは時折、こちらが放った密偵の斎藤一からの報告が入る。町人に化けた監察の山崎がうまく受け取って持ち帰るのだが、それによると高台寺党はますます勤王色を濃くしてきているという。かの党の衛士たちは頻繁に薩摩屋敷に出入りし、薩摩藩の倒幕の大物の大久保一蔵などとも親交を結んでいるらしい。またこの夏には伊東自身が九州に下り、太宰府へと落ちている反幕公家の三条実美とも面会したとのことだった。太宰府に行くにも、長州領を通る。伊東は当然のこととして、素通りはしなっただろう。

 どうやら彼らは新選組隊士を引き抜くよりも、より勤王倒幕派との親交を深めるという方に重点を置くよう、路線を切り換えたらしい。

 彼らの動向も気になる。だが、こちらも新しい方に目を向けようと、秋の風を肌に感じながら歳三は江戸へと出発した。


 江戸で集まった新隊士は、二十人ばかりだった。どうもはかばかしくない。歳三は人選に神経質になりすぎたということもあろうが、やはり時勢というものが物を言っているようだ。

 その二十人ばかりをつれて歳三が京都に戻ってきた時は、すでに季節は冬となっていた。近藤周斎は歳三の滞在中はもちこたえていたが、彼が帰路の途についたあとに他界した。その知らせの方が歳三を追いぬいて、先に京都に達していた。

 だがそれよりも、歳三はこの頃民衆の間で大流行の「ええじゃないか」の大乱舞の渦をかき分けて東海道を京へと上る間に、もっと大きな世の中の激変を聞いた。

 征夷大将軍徳川慶喜が、その政権のすべてを朝廷へと還した。いわゆる大政奉還である。そしてそれと同日に、明治天皇から薩長へ討幕の密勅も下されていた。

 世の中は大きく変っていった。その知らせを聞いた時も、歳三は思わず「おもしれえ」とつぶやいていた。

 屯所でわらじを脱いでから歳三は、さっそく近藤と対座した。

「トシさん、今度こそ本当に、新選組は解散かなあ。なにしろもう、幕府はないんだ」

「近藤さん。あんだがそんな弱気なことでどうする。新選組は変わんねえよ」

 たしかに依然として二条城代もいる、京都守護職も京都所司代もある。二条城には、将軍慶喜もいる。急に薩長の天下になるはずがない。

 一度はあれほどスネてそっぽを向いた歳三だったが、今は逆に闘志を燃やしている。江戸、そして故郷の多摩での日々が、彼をリフレッシュさせたらしい。

 留守の間に高台寺党の方は、際立った動きは見せなかったようだ。だが時流に乗って彼らは、これから勤王倒幕の動きをますます顕著にするだろう。歳三は山崎を使って、高台寺党に入らせていた斎藤を召還した。まだ、近藤には言っていないが、とにかく事を決する時が到ったと思ったのである。


 斎藤がもたらした情報は、それだけではなかった。向こうも新選組の来襲を恐れて、刀を抱いて寝ている者もいるという。何しろもとは新選組から出たとはいえ、今や宿敵ともいえる尊王攘夷の志士の集団と化している。新選組への敵対心も強いだろう。

「それでも毎晩、伊東先生は一時いっときほどの書見を続けてますよ」

 いやなやつだと、つくづく歳三は思った。脱走して切腹させられた山南敬介もそうだったが、本当に学問のできる者にロクなやつはいない。新選組が生まれるきっかけとなった浪士隊を作り、それを勤王化しようとして幕府に暗殺された清川八郎も、その例外ではなかった。さらに先述のとおり、この二人の剣はともに北辰一刀流である。

 そこまではよかった。ついに次の報告に、歳三は切れた。

「水野弥太郎が、月真院に出入りしています」

「なにッ!」

 歳三は、思わず立ち上がった。水野弥太郎とは、隊士ではない。美濃大垣の出身で、かねがね新選組の裏の用を務めている町のその筋の大親分だ。京都の町のあちこちに、賭場を開いている。新選組はそのような世界の者とも、裏ではつながりがあった。

 ただ、水野のせがれを新選組にという話もあったが、これが父に似ず凡くらの臆病者で使い物にならず、近藤は手をやいたこともあった。

 その水野一家を、高台寺党は抱き込んだ様子なのだ。糸口はわかっている。藤堂以外にわたりをつけられる者は、向こうにはいないはずである。

「トシさん、どこへ行く!」

「大砲を借りる」

 新選組の所有する大砲は、今のところ二門ある。これは幸い、伊東らに持っていかれはしなかった。

「どうするんだ。まあ、座れ」

 近藤に強く袖を握られ、しぶしぶ歳三は座った。

「いいか、近藤さん。もう我慢がなんねえ。月真院の裏山に大砲をあげて、木端微塵にしてやるんだ、やつらを。それから斬り込みだ。いや、斬り込みじゃ甘え。鉄砲を隊士たちに持たせて銃撃をくらわせ、皆殺しにしてやる。ホイホイついて行った、馬鹿隊士たちもいっしょにな!」

 新選組にも一応、今の残っている隊士分くらいなら銃もある。ただし火繩銃と的中率は五十歩百歩の旧式のゲベール銃だし、それでさえ撃ち方の調練はいきわたってはいない。

「まあ、待て」

 すぐにまた立ち上がろうとする歳三を、近藤は必死でおさえた。

「白昼大砲をぶっぱなしたりしたら…」

「白昼ではない。夜襲をかけるんだ」

「同じことだ。いいか、冷静に考えろ。やつらは、悔しいが朝廷の伝奏から御陵衛士に任じられているんだ。それを大砲で撃ったら、俺たちは朝敵になってしまう」

「近藤さん。あんたもずいぶん毒されてるね」

「いや、尊王の志は、大和武士として変わんねえはずだ。朝敵にだけは……。今はなあ、上様は政権を朝廷に還されたのだぞ」

「俺たちは、朝廷に仕えてんじゃねえ。あくまで、幕府のために戦うんだ」

「幕府はもうねえ」

「いや、まだなくなっちゃいねえ!」

「あのう、近藤先生。土方先生」

 そこへ、斎藤が口をはさんだ。

「申し上げにくいことなんですが、もうひとつ情報が…」

 近藤と歳三の言い合いは、ひとまずおあずけとなった。

「伊東先生と鈴木さんの密談を、実ははっきりと耳にしてしまったんです」

「何だ」

 いきりたって、歳三がつめ寄った。それを近藤は制して、おだやかに言った。

「何だね。言ってごらん」

「実は、近藤先生の暗殺計画が…」

 これには近藤も黙った。黙ったまま歳三を見た。歳三は逆に、妙に落ち着きはじめた。沈黙が流れた。それを静かに破ったのは、歳三だった。

「殺られる前に、殺るしかねえだろう」

 近藤も大きく、ゆっくりとうなずいた。

「しかし、大砲はまずいぞ」

 近藤の声は低かった。

「まずは、伊東ひとりを殺ろう」

 と、歳三は言った。近藤は少し間をおいてから、ゆっくりうなずいた。


 約束の時刻どおりに、伊東は駕籠でやって来た。場所は屯所からも近い、近藤の愛人宅である。島原の御幸大夫と呼ばれていた女を買い受け、近藤は七条醒ヶ井に邸宅を購入して住まわせていた。そこへ伊東を招いた。

 近藤は玄関まで迎えに出た。やけにニコニコしている。実はこれも策略なのだ。伊東も薄ら笑いを浮かべていた。

 歳三はそれを、陰で見ていて驚いた。自分が考えた策ではあるが、こうものこのこと伊東がやって来るとは意外だった。しかもたったひとりである。やつは思っていたよりも、案外馬鹿なのかもしれない。警戒心というものがないのだろうかとも思う。もちろん、充分な餌は用意していた。近藤が国事を論じたいので是非、という名目だった。

 ひと月ほど前、歳三は江戸へ行っていて留守の時のことだが、会津侯の招きで近藤は祇園の一力楼という料亭に赴き、薩摩や土佐の藩の重役相手に国事の大演説をして、薩士の藩士たちを感服させたという。そのことは薩藩を通して伊東の耳にも入っていただろう。その近藤の高説は拝聴する価値ありと、今や勤王の最先端をいく伊東だから、そう思っても不思議ではない。しかしそれにしても、あまりにもすんなりとやって来たのは、やはり不思議だった。

 昔と違って今は将軍が政権を朝廷にお返しした、そんな時勢の変化が伊東をして安心させたのかもしれない。

 近藤の妾宅には山崎烝や原田佐之助、吉村貫一郎などが集まっていた。

「いやあ、お懐かしいですな」

 迎える者たちの笑顔の中、伊東もそう言っていつしか本格的な笑みを浮かべていた。

「なあに、伊東先生。同じ釜の飯を食った仲じゃあないですか」

 原田はほとんど伊東の肩を抱かんばかりにして、廊を歩いている。やがて座敷に酒が運ばれた。この席に自分がいたら逆効果だと心得ているので、歳三は自分が同じ屋敷内にいることすら伊東には悟らせず、もの陰からじっと見ていた。場所を屯所ではなくここにしたのも、同じ理由からだった。

「いやあ、こちらこそ懐かしい。伊東先生のお顔を拝することができない毎日は、本当に淋しいものですよ」

 やはりニコニコして、吉村を酒を勧める。

「いえいえ、そんな」

 伊東もだんだんと、上機嫌になってきた。

「いや、感服つかまつりました」

 近藤も大芝居に、お道化笑いのまま畳に両手をついたりしている。

「負けました。先生は二手に分かれて競い合おうとおっしゃいましたが、伊東先生の手腕には、新選組の完全な敗北です。時勢は変わりましたよ。尊王という点では、思いは同じです。しかし、先生にはやはりかなわない。さあ、どうぞ」

 近藤自らが、酌を勧めたりしている。それが重なる。伊東も近藤の酌なら拒めまい。まだ少し警戒の色がその顔にはあったが、やがて杯を重ねれば消えるだろう。あとはいい。歳三は自分の用をなすべく、そっと屋敷をあとにした。すでに十一月、京の底冷えの寒気が歳三の全身を襲った。


 近藤の妾宅の玄関は北の七条通りではなく、南の木津屋橋通りに面していた。伊東は帰途に七条に出るにしても、堀川までは木津屋橋通りを東進するはずだ。木津屋橋通りが堀川を越えるには、土橋を渡る。その手前に法華寺という小さな寺がある。そその名が示すとおり日蓮宗の寺で、道をはさんでは火事の焼け跡、そして草むらという淋しい光景だ。

 夜空は晴れている。月は満月よりも少しだけ欠けた状態で、中天にある。だから提灯がなくても、まわりの景色はよく見えた。

 法華寺の手前の建造物の板囲いのうしろに、歳三はいた。他に人斬り鍬次郎こと監察の大石、それに宮川信吉、横倉甚之助などという隊士や、勝蔵という馬丁をつれてきている。

 寒さが身にしみた。歳三は自分のからだを抱きしめ、思わず身ぶるいをした。寒さのせいだけではない。ここ数ヶ月間の、すべての憎悪を爆発させるべき瞬間が、刻一刻と近づきつつある。誰もが黙って、息をひそめていた。ただひたすら、駕籠が走ってくるのを待っている。

 歳三は月を見上げた。一句作ろうかと思った。だが、浮かばない。だからやめた。

 その時、西の方から、謡曲の竹生島を歌う声が聞こえてきた。声の主はゆっくりと、徒歩で近づいてくる。板囲いのうしろの五人はさらに息をひそめ、身を固くした。近づいてくる人影は、手に菊桐の提灯を持っている。まぎれもなく伊東甲子太郎だ。

 伊東はたったひとりで歩いてくる。しかも策略どおり相当に飲まされたらしく、足元がおぼつかない様子だ。まっすぐに歩いていない。それが幸いした。伊東にすれば不幸にもというとこだが、彼の歩くコースは大きく湾曲して、歳三らが隠れる板囲いのすぐそばまで来た。

 今だ!

 歳三の無言の怒声が飛ぶ。

 宮川の槍が音もなく突き出され、まちがいなく伊東の肩から喉にと突き刺さった。伊東の手から提灯が落ちる。炎は提灯の紙を燃やしはじめ、伊東の全身がその照明の中に、はっきりと浮かび上がる。そこへ大石が抜刀して飛び出す。守護職上屋敷で受けた傷は、もうすっかりいい。

「天誅!」

 と、大石は叫んだ。続いて勝蔵も刀を抜き、大石よりも先に伊東に斬りかかる。槍で刺されていても、さすがに伊東だ。刀を抜き打ちで、勝蔵をなぎ倒した。大石は一瞬ひるんだ。

 伊東の首の槍が抜かれる。どっと血が吹き出す。バランスを失って、伊東はよろめいた。そのままふらふらと法華寺の門前まで歩き、大きな碑の脇に崩れた。手には血刀をぶら下げたままだ。

 大石が、刀をふりおろそうとした。

「待てーッ!」

 と、歳三は叫んで大石の背後から前へ出ると、彼の愛刀の和泉守兼定がすーっと抜かれた。刀身が月の光を受けて、きらりと光った。

「伊東ーッ! 思い知れーッ! 死ねーッ!」

 歳三は平晴眼に刀を購え、思い切り叫んだ。伊東も血まみれの顔で、歳三を見上げる。憎んでも憎みきれない男が今、目の前で弱りきっている。みっともない姿だ。それを見て憎悪の他に、歳三の心の中に少しだけ愉悦が生じた。

「姦賊腹ッ!」

 伊東の絶叫が響く。その叫びが、歳三の心を再び鬼にした。次の瞬間にはすべての憎悪をこめて、和泉守兼定は伊東の右肩から左腰にかけて斬り裂いていた。

 大石が静かに、伊東の左足を斬ってみた。伊東は動かない。ここ数ヶ月、歳三にとっての芸術作品ともいえる新選組をかきまわした人間が、もはやただの動かぬ屍となっていた。歳三は何度も、その屍体の脇腹に蹴りを入れた。


 策略はまだ終わらない。宮川と横倉が伊東の屍体の両肩を持ち、ずるずるとひきずって行く。堀川に沿って北上し、堀川からはひとつ東側の油小路と七条通りの四ツ辻までひいて行った。これが手筈だ。ちょうど堀川通りに面した新選組屯所からは、見えはしないが走ればすぐの所であった。そこへ伊東の屍体を放置した。

 本来なら勝蔵を月真院へ走らせる予定だったが、深手を負っている。そこで別の馬丁を呼び出して、月真院へ報じに行くように歳三は命じた。あくまで油小路の、町役人の使いを装えとの指示もつけ加えておいた。

 その間、屯所から多くの人が吐き出され、打ち合せどおりの持ち場についた。なにしろ今夜をのがしたら、機会は二度と訪れない。もし失敗したら、高台寺党を潰滅させることは永久にできなくなるのだ。いつしか歳三も、これまでにないほどの緊張を覚えていた。

 伊東の屍体は七条油小路の十字路の中央に、仰向けに大の字に横たえられた。その脇に、彼の大小が並べられている。武士の死にざまとしては、この上なく不名誉なありさまだった。

 それを遠まきにして、それぞれの角の物陰に隊士を潜ませている。場所ごとの指揮は二番隊永倉新八、九番隊原田佐之助、以上誠衛館以来の同志である。他に伍長の島田魁、勘定方の岸島芳太郎、三浦常三郎などが主だったメンバーだった。隊士の多くは伊東の屍の横たわる七条油小路からは一つ西の十字路の七条堀川の左右の角の陰に控えさせ、いつでも出撃できるようになっている。

「来るかねえ」

 その七条堀川の四つ辻で腕を組み、近藤は月を見上げて言った。隣には、伊東の返り血をあびたままの歳三がいる。血は寒気で凍り、羽織は固い糊にさらしたようになっていた。

「来るさ。少なくとも向こうの幹部はな。自分たちの頭目の屍体が、街頭にさらされてるんだ。その屍体を引き取りに来ねえわけがねえ」

「幹部だけかな」

 おそらく敵も、新選組の罠であることぐらいは察していよう。多勢で押し寄せてくることもあり得る。この四つ辻近辺に控えさせている隊士たちは、そのためのものだ。もし向こうが幹部だけで来たら、油小路近くでで張っている隊士たちだけでことは足りる。

「トシさん、幹部はわかるが、その他の連中が多勢で攻めてきたら、その連中もるのか」

る」

「向こうの隊士たちは、かつては新選組隊士だった者たちばかりだよ。それを殺るのか? かつての同志を」

「殺る」

「彼らをひっこ抜いて行ったやつらだけでいいじゃねえか」

「近藤さん」

 月明かりの中の近藤の横顔を、歳三は見た。

「臆したのか? いいか。伊東ら一派は人間のクズだ。虫ケラだ。あんな虫ケラにしっぽ振ってついて行った連中も、同じ虫ケラじゃねえか。どうせロクな人間じゃあねえ。全員叩き斬ってやるんだ。皆殺しだ!」

「来ましたッ!」

 油小路の方から、知らせが飛んできた。たしかに足音がする。七条通りを東から、駆け足でこっちに向かってきている。多勢ではない。七、八人といったところだろうか。四つ辻の角の陰から歳三が見ていると、彼らは伊東の屍体の所まで到着すると、かついで来たからの町駕籠を、屍体の脇に下ろした。その駕籠に伊東の屍体を、抱きかかえて乗せようとしている。月の光の中、彼らの顔もよく見える。條原がいる。鈴木もいる。そして藤堂平助の姿もあった。彼らはまったく無言で、作業を行なっていた。

 原田の合図の掛け声が上がった。その瞬間、手筈どおり外で張っていた連中が一斉に抜刀して、高台寺党の幹部たちに斬りかかった。敵も伊東の屍体どころではなくなり、刀を抜いて応戦する。掛け声、金属音、絶叫、それらがたちどころに、静まりかえっていた夜の町に響きわたった。近隣の家の二階の雨戸が、開けられる音もする。そして女の悲鳴が上がる。

 どうやら、七条堀川からの隊士の出撃は、必要がなさそうだ。味方は外組だけでも二十人はいよう。敵はその半分もいない。

 歳三がそう思った瞬間、怒涛のような足音が響いてきた。刀を抜き、それに月光を反射させてはふりまわして、おびただしい数のさむらいたちが駈けて来る。結局、幹部だけではなかったのだ。おそらくは高台寺党の全隊士が、繰り出してきたと思われる。見通しのいい七条通りは避けて別の小路を、自分たちの幹部たちと平行して進んで来たようだ。

 歳三は合図をした。掛け声とともに営内に待機していた隊士たちが、刀を抜いて躍り出た。数は向こうの方が多い。だが、突然の大部隊の出現に、敵方が狼狽しきっている様子がよく分かった。

 敵味方は、黒い新選組制服羽織ですぐに見分けがつく。赤地に「誠」一字を白く染めぬいた隊旗も、夜空に高々と揚げられた。

 あの旗があるかぎり、新選組は不滅だ――隊旗を見つめながら、歳三は強く思った。

「皆殺しだーッ! 皆殺しだーッ!」

 七条通りに出て、歳三は叫び続けた。

 つい半年前までは同じ新選組隊士として同じ制服を着用し、同じ任務についていた仲間同士が、今は二つに分かれて、血しぶきと絶叫をあげて修羅場を展開させている。何もかもが、伊東というひとりの男のせいだ。まだ、今でも憎しみはつのる。その伊東は動かぬ物体と化し、争いの渦の中にあってとり残されていた。

 ふと、戦う者たちの輪の一角が、不自然にあいているのを見つめた。急いで斬り合う敵味方の間をすりぬけ、その場に向かう。どうも原田と永倉が、故意にあけているようだ。その外側に、歳三は腕を組んで仁王立ちに立った。

「逃げろ! 平助! 逃げろ!」

 たしかに小声で、原田がそう言っているようにも聞こえた。果たして、藤堂平助が出てきた。その道を歳三がふさいでいる。

「土方先生……」

 憐れみを請うような目を、藤堂は歳三に向けた。原田、永倉は誠衛館以来のよしみで、藤堂を救おうとしたのだろう。だが、自分は違う、と歳三は思った。伊東に対してそうだったが、この藤堂はそれ以上に許せない存在だ。憎悪の炎で、真冬でも顔が熱くなるのをすら、歳三は感じていた。

「土方先生! 昔からの仲間じゃないですか。土方先生!」

 原田が脇から叫ぶ。ほとんど泣き顔だった。しかし歳三はそれを無視し,立ちすくんでいる藤堂を見据えた。

「裏切り者ッ! おめえだけは許せねえ!」

 低い声で歳三は言った――何に対して許せないのか――士道に対してのみである。士道だけが、新選組の絶対君主なのだ。


 新選組局中法度書

 一、士道ニそむ間敷事まじきこと

 一、局ヲ脱するヲ不許ゆるさず

 ・・・・・・・・・・


 音もなく歳三の、和泉守兼定が抜かれた。

「死ねーッ!」

 刃先が頭上に触れた。あとは刀の重みで、頭蓋骨が砕ける。顎あたりで、刃はとまった。頭は半分になっていた。刀を振り上げて抜くと、一瞬だけ間をおいてから血が吹き出した。そのあと、伊勢国津藩藩主藤堂家の、自称御落胤の体は倒れた。自分の方へと倒れかかってきたので、歳三は慌てて蹴り上げ、向こう側に足で押し倒した。藤堂は仰向けに倒れた――つまり藤堂は、武士として最もみっともない死に方をした。


 翌朝の町の体験談では、油小路には高台寺党の衛士たちの屍体がごろごろ転がっていたほかは、無数の手の指がちぎれて、凍った血の海の中に散在していたという。また、家々の戸も軒も血をかぶっており、壁には毛のついた血肉もべたりくっついていたということだ。

 いずれにせよ、慶応三年十一月十八日、高台寺党は跡形もなく崩壊した。

 その約一ヵ月後の十二月九日には王政復古の大号令が出され、年が明けた慶応四年の正月早々に戊辰戦争が始まった。この慶応四年は、九月に明治と改元される年である。


(高台寺党始末 おわり)

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高台寺党始末 John B. Rabitan @Rabitan

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