転「隣の家」

   

 このように、お裾分けという形で、私は何度も彼女の手料理を口にしたわけだが……。

 それだけではなかった。

 ある時、回覧板を渡しに行ったら、エプロン姿の彼女が玄関先で、こう言い出したのだ。

「あら、ちょうど良いところにいらしたわ。もし、晩御飯がまだでしたら……」

「また『作り過ぎちゃって』ですか? いつもいつも、ありがとうございます」

 彼女の言葉を途中で遮る形になったので、これでは、がっついているように聞こえるかもしれない。そう思って、少しだけ内心で後悔していると、

「いえ、今日の場合は『作り過ぎた』というよりも……。実は、そろそろ帰ってくると思って料理をしていたら、夫から電話があって……」

 旦那さんから「残業で遅くなるから、今晩は会社に泊まる」という連絡が入った、と説明する彼女。

「急に言われても、困りますわよね。もう私、ほとんど作っちゃった後ですから。もちろん捨てるのはもったいないですし、かといって、私一人では夫の分まで食べるのは無理ですし……」

 話の流れ的には、いつも通りの『お裾分け』になるのかと思いきや。

「どうです? よかったら、うちに上がって、食べて行ってくれませんか?」

 なんと、一緒に食べましょう、というお誘いだった。

「いや、それは……」

 いくら天然系で少しずれているのだとしても、度が過ぎているだろう。

 旦那が留守の間に、他の男を家に引きずり込むのだから、これは「浮気だ! 間男だ!」と後ろ指をさされても不思議ではない案件だと思う。

 しかし。

「一品や二品でしたら、お裾分けという形にも出来ますが……。でも今日は腕によりをかけて、いつもより豪勢に、品数も多くしていたので……」

 困った、困った、という顔をする彼女。それを見ているうちに、私は悟った。

 そもそも彼女にとって、私は単なる『お隣さん』であり、『他の男』とは認識されていないのだ。異性の意識がないからこそ、こんな申し出が出来るのだ。

 ならば。

 彼女の期待通りに、良き隣人として振舞わねばなるまい。

「わかりました。私でよければ、喜んでご相伴にあずかりますよ」

「あらまあ、助かりますわ。では、どうぞ上がってください。スリッパは、こちらを……」


 結局。

 私は『良き隣人』として行動したつもりだが。

 心の中では、全く違う意識になってしまった。こんなに楽しい会食は人生でも数えるほどしか経験がない、というくらいに幸福を感じたのだ。大学生の頃、当時の恋人との初デートが、ちょうど似たような気分だったかもしれない。

 なお。

 この有頂天は、私の一方的な想いだと自覚しているので、二度と同じ状況に陥らないように……。

 その後は、回覧板を手渡しすることはせず、郵便受けへ入れることにしている。


――――――――――――


 突然の残業で会社に泊り込むほど、忙しい旦那さんだとしても。

 普通に帰宅できた夜には、きちんと彼女を愛していたらしい。夫婦の営み、という形で。

 今から四年くらい前に、彼女は、第一子を授かったのだから。


 旦那さんと一緒に、あるいは、旦那さんがいない時でも。

 彼女は子供をベビーカーに乗せて、よく近所を散歩するようになった。もともと笑顔の素敵な彼女が、よりいっそうの笑みを輝かせて歩く姿は、本当に幸せいっぱいで……。道ですれ違って挨拶すると、彼女の纏う幸せな空気が、私にも伝染しそうな勢いだった。

 それに。

 外を散歩するだけでなく、家の中でも彼女は、子供と一緒に日向ぼっこをしていた。


 この辺りの住宅は、猫の額ほどの大きさではあるが、どこも立派な庭を有している。うちは名も知らぬ花と雑草が生えているだけだが、頑張って手入れしている家も多い。例えば彼女のところなんて、青々と美しい、芝生の庭になっていた。

 正直、芝を張っているのを見かけた時には、私は「何をやっているのだろう?」と不思議に思うくらいだった。

 庭といっても正確には裏庭であり、表側からは見えない。そんな場所を見栄え良く整えてどうするのだろう、と疑問に感じたのだ。

 それこそ彼女の家の庭なんて、配置的に、隣である私の家からしか見えないはず。これでは、せっかくの芝生も、彼女と旦那さん以外には、私の目を楽しませるだけになる……。

 そう思っていたのだが。

 彼女に子供が生まれたことで、少し考えが変わった。

 ご近所のほとんどからも死角になる、緑のスペース。そこは、小さな子供を遊ばせるには、最適の場所だったのだ。

 生まれたばかりの赤子を抱いて、一緒に芝生の上で、太陽の光を浴びる彼女。

 やがて、ハイハイ出来るようになった子供は、ふかふかした芝の感触を楽しむようになり、さらには、よちよち歩きで芝を踏みしめるようにもなり……。

 母親である彼女は、庭で一緒に過ごすことで、そうした子供の成長を見守るのだった。

   

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