私が18歳でこのアルキデア刑務所に刑務官として配属された時には、すでにイヴァン・マイスキーは死刑が決まった凶悪殺人犯として檻の中にいた。

当時、ひっきりなしに報道されていたのを覚えている。

世間が騒いだのは、32人の人間を殺めたことはもちろん、犯行当時イヴァンは15歳の子供だったというところだろう。


イヴァンは元軍人で、軍事作戦の際に民間人を32人虐殺した罪で死刑となった。

私が見聞きしたのはそれくらいの情報だった。

アルキデア刑務所に収監されることは、なんとなく予想がついていた。

未だかつてない凶悪事件として、今でも世間では記憶されている。

刑務官としての人生が決まった時に、ふと思い出した。

イヴァン・マイスキーのことを。

大量殺人を犯した男は、どんな人間なのだろうか。

だから、アルキデア刑務所への配属を希望した。


新人の間しばらくは、イヴァンがいる隔離監房に近づくことは許されなかった。

私が初めてイヴァンと顔を合わせたのは、今から5年ほど前だった。

元軍人というだけあって、筋肉質でがっちりした体型、背が高い印象だった。

鋭い切れ長の目で射抜かれ、体が縮こまった。

囚人の前で怯えてはいけない、目を逸らしてもいけない。

その教えを守ろうと、私は必死に視線を合わせ続けた。

しかし、そんな私とは裏腹、イヴァンは良くも悪くも気さくに話しかけてきた。

くだらない世間話や、独り言に近い文句を表情をころころと変えて話すのだ。

この男が、本当に32人もの人間を虐殺した凶悪殺人犯なのだろうか。

私は、そう思った。

切れ長の目を細めて笑う姿は、ただ普通の青年だった。

それから、イヴァン・マイスキーという男に興味を持つようになった。



奴の言葉は掴みどころがない。


"この檻を抜け出して、外の世界に行きたい"


本気で言っているわけはない。

収監されて16年経つが、イヴァンは隔離監房にいながら目に余るような行動はしたことがない。

模範囚とまでは言わないが、ただじっと死刑執行の日を待ち続けている。

そう思っていた。


"一度でも外の世界を知っている俺たちは、自由への憧れを切り離すことなんて出来ない。強い焦燥を覚える。そうだろ?"


奴の声が頭から離れない。


刑務所のすぐ隣に刑務官が住む官舎がある。

職務を終えてエントランスを潜り抜けてエレベーターへと向かった。

自分の部屋がある6階で降りて、廊下を進むと見覚えのある姿が目に入った。


「……ヨゼフ」

「おう、ユーリ」


私を愛称で呼ぶのは、ヨゼフ・ヴィクトラしかいない。

もちろんプライベートでのみだが、私は愛称で呼ぶことを許していない。

ヨゼフが佇んでいるのは、私の部屋である602号室の扉の前。

私が帰ってくるのを待っていたようだ。


「何の用でしょう。看守長の部屋は7階でしょう」

「なんだ、よそよそしいな」


鍵を取り出して扉を開けようとする私の肩を引き寄せて、唇を奪われた。

ヨゼフの舌が口内を弄ぶ。

私は顔を背けてヨゼフから逃れた。


「……っやめろ」

「祝ってやろうと思ってたんだよ、副看守長昇進」

「看守長専属のボーイだと色扱いされてる」


ヨゼフの推薦で副看守長になったのは、ヨゼフに取り入ったからだと他の刑務官から疎まれている。

孤島の塀の中だけの小さな箱庭。

刑務官同士の立場の争いも絶えない。


「……まぁ、あながち間違ってはいないけどな」


鋭く睨みつけると、ヨゼフは冗談だ、と溜息を吐いた。

扉を開けてヨゼフを招き入れる。

ガチャンと閉めた音と共に、後ろから抱きすくめられた。

耳元を掠めるヨゼフの息遣いに身を捩る。


「お前を副看守長に推薦したのは、実力を買ってだ。わかってるだろ」


ヨゼフが仕事に対して真面目なことはわかっている。

厳格だと恐れられる人だ。

実際にヨゼフに取り入って昇進を狙おうとした奴が腐るほどいたが、そういうことが一番許せないのはヨゼフ自身だった。

それでもくだらない噂に右往左往してしまうのは、体を重ねる関係が事実だからだ。


服の隙間から武骨な手が体を撫でる。

私は身を屈ませて苦しい息を吐き出した。

明かりもない玄関で唐突に始まる行為に、めずらしく性急だと思った。

尻にヨゼフのモノが当たっていて、その硬さに情けなくも興奮する。

お互いの息遣いだけが、暗闇に響いていた。


恋人同士というわけではない。

男しかいない環境で、後腐れのない性欲処理に都合がいいと思っただけだった。

お互いゲイというわけでもないし、行為中に愛の言葉を交わすわけでもない。

ただ、気持ちいいだけだった。

お互い欲望を発散するためだけに関係を続けている。

私を四つん這いにさせて、力の限り腰を打ち付けるヨゼフを受け入れるだけ。

最初は確かに、尻の穴にモノを突っ込むなんて正気じゃないと思っていた。


「……っあ、あん……、や、イキそう……っ」


今ではそれで簡単に果ててしまう。

パンッパンッと肉がぶつかり合う生々しい音が、二人の興奮を絶頂に持っていく。

この快感は、一人で扱くのじゃ味わえない。


「……くっ……俺も射精る……!!」


流し込まれた熱に、眉を顰めた。

果てた後、すべてが汚く思えてしまうのが嫌だ。

余韻に浸る暇もなく私はシャワーを浴びて綺麗さっぱり洗い流す。

そうしないと、耐えられなかった。


ベッドで体を沈めているヨゼフを一瞥して、私はソファに横たわる。

体を重ねた日は、こうして夜を明かして朝方にヨゼフは静かに帰っていく。



微かな物音で目が覚めた。

時刻は4時23分。

体を反転させると、散らばった服を拾い上げるヨゼフと目が合った。


「すまない、起こしたか」

「……いや。戻る?」


服を頭からかぶり頷いたヨゼフは、私の右腕に視線を止めて細い眉をピクリと動かした。

そっと私の腕を取るヨゼフを怪訝に思い、体を起こす。


「この痕、俺がもしかして知らないうちに強く握ってたか? 痛かっただろう、申し訳ない」


腕の内側に薄っすらと内出血のような痕が刻まれていた。

そこで思い出す。


「いや、違う。ヨゼフがつけた痕じゃない」

「……じゃあ、誰が」


逃げ道を探すように視線をヨゼフから逸らし、俯いた。

その反応にヨゼフは眉を顰めて私に詰め寄った。


「囚人に乱暴されたのか?」

「違う、そうじゃない。腕を掴まれただけだ」


刑務官は常に危険と隣り合わせだ。

作業中に隙をつかれ、工具で殴られたり刺されたりなどの傷害事件が起こることもある。

暴力を振るわれたり、それが死亡事件に繋がった事例もある。

性被害にあった刑務官も過去に多くいた。


私が言い淀んでいても、ヨゼフはその先を待つかのように視線を逸らさない。

観念するしかなかった。


「……イヴァン・マイスキー」


そう口にした瞬間、ヨゼフは鼻から大きく息を吐いて顔を背けた。

またそいつの名が出るか、とうんざりしたような表情だ。


「お前、新人時代からイヴァン・マイスキーに興味を持っていたな」


新人の頃からしつこいほど、イヴァン・マイスキーの担当刑務官にしてほしいと上の者に懇願していた。

その必死さに、周りからは気色の悪い奴だと敬遠されてきた。

実際に、ヨゼフも不信な顔をしていたのを覚えている。

一人の囚人に固執するのは良くないと、何度も窘められてきた。


「それで? 腕を掴まれる状況とは一体何があったんだ」

「……別に、いつものくだらない世間話に付き合わされていただけだ」


それでも疑念の目を向けるヨゼフに、少し苛立つ。


「隠しようがないだろ!? そんなに疑うなら監視カメラを見たらいい!」


刑務所内外には、数えきれないほどの監視カメラがある。

怪しい行動、会話はすべて監視カメラに収められる。


ヨゼフは過保護すぎるくらい、私の中へと踏み込んでくる。

新人の時に直接指導を受けた近しい上司だったこともあり、育ててもらった恩もある。

厳しく叱られた過去もあるし、挫折しそうになった際に励まされた思い出もある。

しかし、距離が近すぎた分、他の刑務官からの嫉妬も多かった。

体の関係を持つようになってからも、仕事上の接し方は変わらない。

変なやっかみも噂も無視してきたが、順調に昇進していく度に取り入ったのだと言われると、さすがに精神が擦り減る。


ソファの下に投げられていた下着を手に取り身に着ける。


「しばらくこうして会うのもやめましょう。誰がどこで見ているかわからない」

「……今までこの関係が露見したことなどないだろ。仕事の上では誰にも贔屓したことはない。お前にもだ」


そんなことはわかっている。

それでも理屈では説明できない感情が、ひしひしと流れ出る。

代わり映えしない日常に、ふしだらな関係を続ける自分がどうしようもなく嫌になったのだ。


この檻を抜け出して、外の世界に行きたいと願ったイヴァン・マイスキーに触発されるように、変わろうとしなかった自分を変えたかった。


「別に愛し合ってるわけじゃない。セックスするのはお互いにとって都合が良いからですよね。貴方なら少し言い寄れば相手してくれる人なんてたくさんいますよ。私にそうしたように」

「本気で言っているのか!? 俺は――……」


掴まれた腕を弾き返した。


「誰からも慕われている貴方にはわからない! どんなに頑張っても必ず媚を売ったと色眼鏡で見られる私の気持ちを!」


狭い部屋に吐き出すような怒号が響いて消えた。

静けさが二人の空間に纏わりつく。

今、傷ついた、とわかるほどヨゼフは表情を顰めた。

そこで、もう戻らない吐き出した言葉に後悔した。


その時だった。

静かな空気を切り裂くように、けたたましくサイレンが鳴った。

私たちは勢いよく視線を合わせる。


このサイレンは、刑務所内の異常を知らせるものだった。



刑務官の気が休まる時はない。

如何なる状況でも、緊急事態が起きれば制服と官帽子を身に着け駆けつけなければならない。

サイレンが鳴り響く中、私とヨゼフは急いで刑務所構内へと入った。

中は刑務官が忙しなく行き来している。


「おい! 何があった!」

「ヨゼフ看守長!」


状況を聞き出そうと刑務官を呼び止めた。

瞬時に敬礼をするが、刑務官の顔色は芳しくない。


「……イ………キ……した……」

「声が小さい!」


あまりにもか細い声に、ヨゼフが怒鳴りつける。

びくりと肩を揺らした刑務官は、叫ぶように声を振り絞った。


「イヴァン・マイスキーが脱走しました!!」


耳を疑った。

イヴァン・マイスキーの脱走は、アルキデア刑務所を混乱に陥れた。

他の囚人たちにこのことが知れれば、脱獄を助長しかねない。

刑務官は普段の職務を普段通りに全うするように指示し、囚人たちを刺激しないようにと伝えた。

私とヨゼフを含む20人体制で、イヴァンを探すことになった。

まだそこまで遠くへは行っていないはず、もっとも孤島のため脱出は不可能。


「必ず捕まえる。生死は問わん。抵抗するようなら射殺しろ」


普段は携帯を許されていない拳銃が、一人一人に渡された。

ホルダーにしまいこみ、散っていく刑務官たちの背中を見送る。


「ユリウス」


ヨゼフに名を呼ばれて、振り返った。

二人だけが取り残された空間に、今朝の空気を思い出した。

結局、曖昧なままこの騒ぎだ。


「監視カメラを確認した。昨日から、脱走までの瞬間を」


イヴァンが脱走したのは、正確に朝の4時43分。

見張りをしていた刑務官を、どこでいつ入手していたのかわからない拳銃で脅し檻の外へと出た。

監視カメラを確認していた他の刑務官が3人ほど駆けつけたが、銃を向けられ下手に動けなかった。

そして、元軍人のイヴァンに武術や体術でねじ伏せられ、奴は堂々と刑務所の外へと脱走した。

刑務所の入り口に、イヴァンが持っていたと思われる拳銃が落ちていたが、それはどうやらおもちゃの拳銃で偽物だった。


ヨゼフは激昂し、易々と逃がした刑務官たちを殴り飛ばしていた。

最高峰と呼ばれるセキュリティさえも、人間の弱さや恐怖心につけ込まれると意味を成さない。

特別な訓練を受けた刑務官も、元軍人のイヴァンには敵わなかった。

何より、おもちゃの拳銃で堂々と脱走をしたなめ腐ったイヴァンの態度が、ヨゼフにとっては耐えがたい屈辱だったのだ。


「この檻を抜け出して、外の世界に行きたい」

「……!」

「熱心にお前に話していたようだな」


冷酷な光を宿した目に射抜かれる。

指の一本でさえも動かせないほど体を雁字搦めにされ、息苦しさを覚えるような視線を受け止める。


「お前は、奴につけ込まれたんだ」


胸倉を力強く掴まれる。


「報告を怠った。囚人の些細な変化も見逃さず逐一報告しろと、一番最初に教わったはずだ」

「はい」

「 このまま脱獄された場合、お前に罰を受けてもらう」


反抗などできるわけがない。

罪意識が石のように重くのしかかってくる。

イヴァンはいつから脱獄を計画していたのか。

なぜ自分に“自由になりたい”などと話したのか。

イヴァンは今までそんな話をしたことはなかった。

珍しいことを言うと思ったが、いつもの冗談だと流してしまった。

奴の脱獄を助長したのは、私だ。


塀の外は木々が生い茂った森が続いている。

少し行った先に、刑務官が休日などに利用できる小さな喫茶店がある。

その喫茶店からまた少し行ったところには、食料や日用品を売るマーケットが存在している。

まずはその二か所を回って、事態を知らせなくてはならない。

何の罪もない喫茶店のマスターやマーケットの主人に危険が及んではいけない。


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青天の霹靂 キナリノ @kinarino

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