青天の霹靂
キナリノ
Ⅰ
生まれ育った町は、オレンジ屋根の建物や優美な塔が立ち並ぶ綺麗なところだった。
建物の隙間から覗く青空が驚くほど綺麗だと、子供ながらに思った。
その時の記憶だけが鮮明だ。
故郷の思い出は少しずつ色褪せていくのに、真っ青な空だけが私の脳裏に焼き付いている。
「ユリウス・チェルノフ」
名を呼ばれて、ゆっくりと振り返った。
所長であるカミル・ベラクが微笑みを浮かべていた。
人の良さそうな笑みが、目尻と頬の皺をより一層深くする。
官帽子から覗く白髪と、同じ色をした口髭を蓄えた姿は、所長としての貫禄を感じさせる。
右手をこめかみに持っていき敬礼をした。
「数日降り続いていた雨も、やっとあがりましたね」
「そうですね」
運動場に佇んでいると久々に顔を出した太陽と目が合う。
眩しさに目を細めると、光と空の青さが混ざり合って一つに見えた。
湿気を取っ払った乾いた風が体をすり抜けていった。
「副看守長への昇進、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「ヨゼフ・ヴィクトラ看守長からの推薦ですからね、光栄でしょう」
「……ええ」
ヨゼフ・ヴィクトラ看守長。
30歳という若さで看守長という地位に昇りつめた人。
厳格な人で刑務官、囚人からも恐れられる存在。
新人の頃は、上司である彼から厳しく育ててもらったことを覚えている。
「しかし、貴方も28歳で副看守長だ。大したものですよ」
「恐縮です」
頭を下げた私に、カミルは小さく笑う。
そうだ、と手を叩きその優しげな瞳をこちらに向けた。
「これまで気を張って頑張ってこられたでしょう。少しひと休みしてはどうですか。毎日刑務所と官舎の往復では気も休まらない。貴方の故郷はこの海を越えたチェコだと聞きました。久々に帰られては?」
その言葉に、高くそびえ立つ塀の向こうの故郷を想像した。
高校卒業まで故郷で過ごし、ここに来てからは一度も帰っていない。
「お気持ちだけで十分です。今は与えられた役職を胸に、より一層励みたいと思っているので」
「……そうですか。貴方がそう仰るなら構わないが、無理はしないようにね。健康が一番ですから」
65歳で現役の所長が言うと説得力がある。
再び頭を下げて施設内へと戻っていく所長を見送った。
母と父は14歳の時に交通事故で亡くした。
家族と呼べる人はいない。
一人残された私には、もう故郷に居場所はない。
故郷の思い出は薄れていくのに、青い空だけが鮮明だ。
空は繋がっていて同じだと言うけれど、塀に囲まれたこの地で見上げる空は果たして同じなのだろうか。
この青を綺麗だと思いたい。
塀を越えて、海を越えて、チェコの空もこの青さと同じだと言うのなら。
海に浮かぶ孤島。
高くそびえ立つ塀の中に、アルキデア刑務所はある。
海に囲まれている刑務所のために、脱出不可能の監獄として世界からは有名だ。
実際に脱出に成功した囚人は今まで一人もいない。
所謂、普通の刑務所では手に負えないような凶悪殺人犯を収監している。
そこで私は、刑務官として働いている。
「よお、副看守長」
語尾をわざとらしく強めたこの男を横目に見遣る。
交代で入れ替わる刑務官と敬礼を交わし、椅子に腰を下ろした。
反応が鈍い私に首を傾げておどけてみせた男は、鉄格子から手を放し、後ろにある薄汚いベッドに体を沈めた。
ここで初めて、男を真っ直ぐ見据えた。
イヴァン・マイスキー。ロシア人の男。
隔離監房というセキュリティが一番高い特別な場所に収監している凶悪殺人犯。
32人を殺したという、最も危険度の高い人物だ。
「なぁ、副看守長さんよ。今日は晴れてんのか?」
「快晴だ」
「やっぱりな、雨音が聞こえねぇと思ったんだ」
この男だけは他の囚人と扱いが違った。
作業をさせることも、運動場に出すことも、この監房から出ることも許さない。
死刑執行の日まで、この湿っぽい監獄で過ごすことを命じられた囚人だった。
「分厚いステーキが食いてぇ。飽きるほどセックスもしてぇな」
死刑が決まっていながらこの男の口から出るのは、夢ばかりだった。
私には理解不能だった。
叶わないことを、こんなにも明朗な声色で言えるだろうか。
「まーた馬鹿なこと言って、と思ってんだろ」
「…………」
体を起こして私を見遣る男。
ここで出る飯は不味い、肉はペラペラで食った気がしない。
毎日毎日、自分で性欲を処理するのは飽きた。
そんなことを随分とでかい声でぼやいている。
「外に出られる日は来ないのに、とは思うな」
所長に聞かれると罰を受けそうな会話だ。
男は、相変わらずつまんねぇ奴だ、と私を揶揄した。
「だからこそだろ? 自由を奪われているからこそ夢見たくなるんだよ。美味いもん食いてぇし、いい女も抱きてぇ。普通のことだろうが」
「……そうか」
「あんたも俺たちと同じようなもんだ」
「……お前たちと?」
「ここに囚われている人間」
本当は、刑務官も囚人もここでは境目がないのかもしれない。
この孤島は、世間から切り離された場所だ。
華やかさもない、仄暗いこの場所で一生を終えるのだろうと思った。
「自由になりたいと思わねぇか」
「……何を言っている」
「この檻を抜け出して、外の世界に行きたい」
男は立ち上がり、鉄格子に手を掛けて訴えた。
その瞳は、餌に飢えた野獣のようにぎらついていた。
その強さに怯みそうになるが、食われてはいけない。
椅子から腰をあげて歩み寄り、男を睨み返す。
「言葉に気をつけろ。監視カメラがお前を囲んでいるのを忘れるな。脱走をほのめかすような言動は、懲罰房行きだ。死刑執行を待つお前の身に、自由など与えられるわけがない」
踵を返した俺の腕を、男は檻から力強く掴んだ。
体が引っ張られ鉄格子にぶつかる。
「一度でも外の世界を知っている俺たちは、自由への憧れを切り離すことなんて出来ない。強い焦燥を覚える。そうだろ?」
故郷の思い出は薄れていくのに、青い空だけが鮮明だ。
高くそびえ立つ塀の向こうには、同じ空が広がっているのだろうか。
確かめたくて何度も夢に見るのだ。
幼い頃に当たり前にあったあの真っ青な空だけは、忘れないために。
その度に、心の奥底では渇望している。
私は自由が欲しいのだ。
はっと我に返って、勢いよく腕を振り解く。
「くだらない、さっさと寝ろ」
精一杯の虚勢を張った。
あの研ぎ澄まされたような鋭い瞳に見つめられると、自分の心の内を読まれているような気分になる。
刑務官が、囚人の前で隙を見せてはいけない。
背中に纏わりつく男の視線を感じながら、私は隔離監房を後にした。
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