直径1cmの心臓

隠伽透栬

第1話 天才で勝手

 「1218円になりまあす」

しまった。一円足りない。さっき部屋の床に落としたあの一円を拾っていれば、この財布から諭吉が出ていく事もなかっただろうに。そんなことを考えながら、僕はまた彼を思い出していた。結論から言ってしまえば、これは誰も救われない話だったのだろう。あのとき僕は一年足らずで人生を大きく狂わされた。いや、元々狂ってはいたのだけれども。

泣く泣く諭吉を手放して、引き換えに手に入れたおにぎりを、コンビニに売っている手握りを称して機械で作られたおにぎりを、すでに張り裂けそうなカバンに詰め込んで、僕は彼の通った高校を目指した。見上げた空は、彼の瞳のように青かった。

 

 その日は憎たらしいほどの見事な晴天で、一日ずっと綺麗な青色をしていた空が眩しい橙色に染められてゆく様は、とても夏らしい。夏らしさは視覚的にも、もちろん、気温から見ても。

「ねえ、おっかしくない!?おかしいよね!?何なのこの暑さ、もう夕方だってのに!俺はこんなにかわいいのに!!!あ~~神様ぁ、俺の可愛さに免じて今すぐ気温を下げてよ!!氷点下まで!!!」

怜悧が今にも暴れだしそうな勢いで叫ぶ。暑さに頭がやられてしまったような異常な言動だが、驚くべきことにこれは彼──本町怜悧の通常運転である。透明感のある白い肌と、陶器の造形物を思わせる整った顔立ち、ミルクティー色に近いグレーの髪が日の光に透ける姿は美少女と呼んで差し支えないだろうが、170㎝を超える背丈と男性らしい声にはアンバランスだ。

「はいはい、わかったわかった」

 「そう言うとコージが神様みたいだね。ぷぷっ…コージ様……」

 「だァーーーーーッ!!ウッゼーーーー!!!」

そうやって怜悧の戯言に付き合っているのは戸塚浩司。怜悧とは所謂幼馴染である。体格と生まれ持った険しい目つきから一見に怖がられることが多い彼だが、見た目に反した好青年である。怜悧が「知っている人間の中で一番やさしい」と評するくらいのお人好しだ。蚊の一匹も殺さない彼だからこそ合理主義の化身たる怜悧とうまくやっていける。

 「にしても本当に暑いな……わざわざ日が落ちるまで教室で時間つぶしたのに、意味なかったか」

 「おなかすいたな~」

 「話聞けよ!!!」

合理主義の化身たる怜悧だが、同時にマイペースの化身でもある。もっとも、世間ではそれを自己中や自分勝手と呼ぶのだが。

 「コージ夕飯うちで食べていくでしょ?」

 「あ、あぁ。……悪いな、いつも」

命の恩人でも見つめるような目で心から申し訳なさそうに謝る浩司を見て怜悧は思う。


おなかすいたな、と。


 赤信号を前に二人は立ち止った。人気のない住宅街の小さな横断歩道。怜悧一人なら信号なんて目もくれずに渡っていただろうが、マジメの権化たる浩司が許すはずもないので、大人しく足止めを喰らう。

 「そういえば怜悧、今日の小テストどうだった……って、訊くまでもないだろうけど」

 「うん、ほとんど寝てたよ!!」

 「はぁ……」

浩司はもちろん真剣にテストを受けていた。後ろの席から聞こえる寝息が気になって仕方なかったが。

 「でもどうせ満点だろ」

 「たぶんね」

 なぜこんな不真面目の塊にかなわないのだろうか。幼い頃から天才だ神童だともてはやされてきた怜悧のそばで、そんな幼馴染に置いて行かれまいと努力の限りを尽くしてきたのに、いまだその天才に敵うどころか、隣にも立てていないような心地がしていた。

 「まっ、余裕だね。俺は天才だから」

自慢げな顔を向けられて少しだけ苛ついたが、見下すような奴じゃないから深い意図はないだろうと軽く流す。浩司の大人びた性格は、いつまでたっても子供のまんまの怜悧が大きく影響している。

「はいはい、置いてくぞ、天才サマ」

信号の青い光を確認した浩司が早足で横断歩道を渡っていく。怜悧の反応を窺おうと振り向くその瞬間彼の目が丸く見開かれた。

──刹那、響き渡る。


「だめッ!!コージッ!!!!」


怜悧の叫び声、ブレーキの音、身体を強く打ったような鈍い音が、二つ。

「……れい、り…?」

何が起こったかもわからないまま浩司は起き上がる。擦りむいた体の痛みが残酷な現実を彼に突き付けた。

(嘘だ。そんなこと、あるはずがない。嘘だ嘘だ嘘だ)

その言葉を繰り返したところで現実が夢に変わることなどない。そんなことは充分理解できたが、目の前の凄惨な光景を理解することはどうやら脳が拒んでいるらしい。

「れいり……怜悧、怜悧ッ!!!!」

理解及ばぬ頭が体を動かす。震える足で立ち上がり、赤色に染まった幼馴染のもとへ駆ける。焦りでまともに走ることもできず、崩れ落ちる体は地面に手をつけて支えた。転げるようにたどり着いた肉塊に手を伸ばす。

(抱き上げろ、すぐに止血を…!)

脳の指示するままに抱き上げたそれはもはや人間ではなくなっていた。


肉が露出し、骨が飛び出していた。いったいどんな轢かれ方をしたらこうなってしまうのか、そんなくだらないことを考えているのは人間の本能的な現実逃避だろう。浩司は受け入れられなかった。受け入れることを拒んでいた。誰が見ても一目でわかるだろう。人のような形をしたそのかたまりはもう命でいられないだろうことが。

すぐ横にサイレンの遠音が聞こえる。複数人の男が駆け寄ってくるも、その声は浩司に届いていなかった。黒みがかった赤に落ちた雫は涙ではなく、その正体は流した本人にもわからなかった。

視界がかすむのは瞬きを忘れているせいだろうか。呼吸さえも忘れているような気がしていたが、傍から見れば浩司は過呼吸を起こしているようにも見える苦しげな声ともつかぬ息を漏らしていた。

赤色が心拍の加速に拍車をかける。ドクンドクンと激しい心臓の喘ぎはまるでそれが耳の中に存在しているように思わせた。


(なんてうるさいんだ)


浩司の息が漸く整うとき、その身は病院にあった。連絡を受けて駆け付けた美代子と、浩司の母である千聖もその横に立っていた。美代子は立っているというより、落ち着きなく歩き回っている様子だ。その場にいる全員の手が震えていたが、怜悧の体の状態を知っている浩司は震えているなんてものではなく、わざとらしくも思えるほどであった。




「傷が…消えた……!?」

運び込まれて四半刻を待たず駆けてきた医者が言った言葉に浩司は耳を疑った。そして次に目を疑った。

(あの時確かに見たはずだ…)

焼き付いた赤が蘇る。露出した肉に飛び出た骨、綺麗に残った顔に主張する虚ろな目を思い出し、さあっと血の気が引くのを感じた。漫画やアニメで見たように頬を抓ってみてもいつもと変わらない痛みが走る。

(傷が消えたってどういうことだ…!?傷なんてかわいいものじゃなかった……治るなんてことあるはずない!!)

困惑した様子の医者に「とりあえず…」と案内され怜悧のもとへ向かうと、そこには体も顔も普段通りの彼の姿があった。

「あ、コージ!怪我はなさそうだね?あれだけの事故で二人とも無傷なんて奇跡だよッ!俺たちラッキーボーイじゃないっ?」

美代子は安心から涙を流し、千聖は安堵の息を漏らしたが、浩司は信じられない光景に未だ動揺していた。怜悧が身に着けている制服はぼろぼろに破れ、赤黒く汚れていた。しかしそこから覗く白い肌には傷どころか傷跡さえ残っていなかった。

「……コージ?どしたの、鳩が豆鉄砲を食ったような顔して」

怜悧が首を傾げ、髪が揺れる。女神像のような顔立ちは、何も変わっていなかった。淡く色づいた薄紅は湛えた微笑に花を添えるようで、いかにも人間らしい。

「…怜悧、なんだよな?」

「うん、俺だよ!」

(どうして?…いや、理解できないことは、理解できなくていい。怜悧が生きて笑顔でいられるのなら、それで)

浩司にも穏やかな笑みが戻る。涙をぽろりと一粒こぼしてから怜悧を力いっぱい抱きしめると消え入りそうな声でありがとうと告げる。身代わりになったことではなく、生きていてくれたことに。


「今日で一週間じゃん?」

 一瞬、聞き逃がしそうになった。浩司はぼんやりと外を眺めるばかりで、人の話など耳に入っていない。神経質な彼の普段の姿からは想像もできない状態だった。生返事を喰らって不貞腐れたクラスメイトが出ていくと、入れ替わるように女子生徒がやってきた。

「本町クンいつ来るの?」

怜悧がセンパイと呼んでいた女だったように思う。怜悧をえらく気に入っているからか、怜悧が来ないことを気にしているようだった。窓の外を舞うコンビニの袋なんかを眺めながら哀愁漂う声で返す。

「俺が知りたいくらいです」

 あの事故以来、浩司は怜悧と連絡がつかない状態になっているのだ。何度か怜悧の家まで行ってみたものの、美代子に「とても会わせられる状態じゃない」と言われ、断念していた。

 踊るレジ袋の舞台となっている晴れた空は怜悧の瞳と同じ色のように思えた。怜悧のことを思うたびに、浩司の脳裏に浮かぶ事故の光景。人間と鉄の塊がぶつかり合う鈍い音、目に刺さるほど真っ赤な血の色。怜悧の持つきれいな空色の瞳と赤のコントラストが脳に針を刺すように浩司を責め立てる。

(怜悧……)


その日、美代子は不在であった。と言っても、美代子が夕飯の買い出しに行く時間を狙ったのは浩司なのだが。

 「怜悧、怜悧」

二階の奥、怜悧の部屋の戸をノックしながら呼びかける。何度呼んでも返事はなかったが、浩司は人のいる気配を感じ取っていた。彼は他人の呼吸音さえ聞き分ける聴力の持ち主だ。扉の向こうに人がいるかどうかなんてことは集中するまでもなくわかる。浩司の耳には怜悧の呼吸する音がしっかりと聞こえていた。

 「いるんだろ、怜悧」

 「…………帰って」

間に戸を挟んでいるせいでこもった音ではあったが、怜悧の声に違いなかった。

 「怜悧!ここを開けてくれ……やっぱり事故の怪我が……!」

縋るようにドアへ身を預けながら、浩司は言う。心配そのものを音にしたような声色で語り掛けるも、ついに怜悧からの返答はなくなり、浩司の不安は募る。強引に部屋へ入るべきか、浩司は迷っていた。怜悧の部屋に鍵はついていないため、入ろうと思えば簡単に入ることができるのは確かだ。

(でも、)

今ここで部屋に押し入って信頼を失いでもすれば、怜悧を失うことになるだろう。怜悧に異常なほど依存している浩司にとって、それ以上に恐ろしいことはなかった。

 「怜悧……」

 「コージ、帰って」

 「開けてくれ」

 「嫌だって、言ってるでしょ!」

 「怜悧!!」

 「浩司ッ!!」

 「……っ!」

怜悧がいつになく真剣な声色で怒鳴った。浩司は驚き、予定していた説得の言葉が霧散してしまった。静まり返った廊下は、扉の奥からかすかに怜悧の荒い息遣いだけが響いている。数分の沈黙を破って、怜悧が言葉を続ける。

 「来ないで、お願い」

先程とはうってかわって、喉が千切れる寸前のような、切ない声で言った。その声だけで浩司には怜悧が震えているのがわかった。

 (月並みかもしれないが、今度は俺が助けたいんだ)

大きく息を吸って、吐き出す。その数秒間に覚悟を決めるために。そして、ゆっくりとドアノブに手をかける。

 「失礼しまあああああああああああああああす!!!」

 「ぎゃあああああああああああああ!!!!何!?日本語わかんないわけ!?馬鹿なの!?」

 浩司が風を起こす勢いで扉を開くと、尻もちをついた怜悧が蜘蛛のようにかさかさと後ずさる。普段と変わらない軽口を叩いていたが、その双眸は焦燥と恐怖に揺れているように見えた。いっそ強気な浩司は口をへの字にして怜悧を見下ろす。カーテンを閉め切った薄暗い部屋に廊下の光が差し込み、逆光の中に立つ浩司のかげった顔は、藤黄色の瞳だけが強い光をたたえている。

 「出てこい!!怜悧!!!」

 床に尻をついたままの怜悧に浩司が右手を差し出す。

 「駄目だよ、ダメなんだ。俺、人間じゃないんだ」

 何を言っているのだろう。浩司は数回瞬きをしながら考えた。確かに事故を思い出すと人間じゃないと言いたくなる気持ちもわかる。わかる、が。

 「お前は人間だよ。俺が保証する」

 だから、この手を掴んでくれ。こんなじめついた暗い場所なんてお前には似合わない。

(なんて、クサいだろうか)

口にはしなかったが、そんな思いを胸にもう一度手を差し出す。怜悧はおそるおそるといった様子で自らの手を伸ばし、浩司の指先にちょんと触れた。

(あたたかい)

浩司は基礎体温が高かった。

(いいかな、掴んでも、いいのかな)

床に目をやる。明るい茶色のフローリングに、黒い焦げ跡がある。どくんと心臓が跳ねる。もう一度浩司を見上げ、藤黄色の瞳を見つめる。相変わらず目つきが悪い。自分も人のことを言えない目つきをしているが、さすがにここまではひどくない。本当にひどい目つきだ、優しいのに、誰よりも優しいのに、この目を怖がって、誰も近づきやしない。俺だけが知っている、優しい瞳。

「浩司……ありがとう」

浩司の手のひらを撫でるように震える指先を滑らせ、手をぎゅっと握った。その瞬間、浩司の手から炎が上がる。炎と煙が浩司を包んでいく。 

(ああ、やっぱり)

浩司は叫びも痛がりもしなかった。一瞬で炭のようになってしまった。やさしい幼馴染はもういない。死んでしまった。怜悧が殺した。怜悧が燃やし、黒い塊にしてしまった。

「ごめんね」

怜悧も浩司も、すでに人間ではない。

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