第5話:些細な旅立ち
いつ眠ったのかは覚えていない、長い間お互いを求め合ってたようにも思えた。蝋燭の火が途中で尽きて、月明かりに透ける銀の髪を覚えていた。少なくとも日が昇る前には眠ったはずだ。
目が覚めたのはもう日が高くなった頃だった。少女はまだ縋り付いて寝息を立てている。彼は少女の頬をなでると、少女の耳が揺れた。
「おはよう、お姫様。」
「うむ、よく寝たわ。」
少女は起き上がって伸びをすると、口づけをした。楽しげにしっぽを振り、耳を揺らす。
「もう一回するかの?」
「勘弁してくれ。」
「むぅ。」
しゅんとして垂れる尻尾に罪悪感のようなものを覚えた。いつまで経ってもこの少女に抗うことは出来ないらしい。だが、ここでもう一晩明かして時間を使いすぎることも悪手だということは少女もよく分かっていた。ただ、からかいたいだけだ。彼の手が撫でた髪が名残惜しそうに揺れた。
「さぁ準備をしよう。次の宿まで我慢してくれ。」
「釣れないやつじゃの。」
「もう釣り場に魚はいない。」
「では増えるのを待たねばならぬな。」
「河岸を変えるんだよ。」
これ以上時間を使うと永遠にここにいる気がした。それは良くないとさっさと服を着る彼に頬を膨らませつつ、少女も脱ぎ散らかりた服を拾って身に纏う。かなり寝過ごしてしまったし、だいぶ汚してもいた。謝罪も兼ねてもう一枚金貨をカウンターに置いた。
「もう二度と寄らんじゃろ。もったいない。」
「礼儀を忘れたくないからな。」
預けていた荷馬車を引き取り、宿を出て酒場へと向かう。グラスと空き瓶を返すついでに、食料をいくつか買うのに酒場は手近でちょうどよかった。流石に昼過ぎにもなると冒険者の姿はほぼなく、主計は退屈極まって船を漕いでいた。空き瓶とグラスをカウンターに置いた音で彼女は目を覚ました。
「はいはい、なにを用意しましょう。」
「食料を買いたい。1週間分だ。」
主計は目をこすりながら台帳を捲る。何分街から離れた野営地だ、何をどれだけ融通できるかは、細心の注意を払わなければならない。どんぶり勘定で計算して、後々足りないから買ってきてくれなんて気軽には言えない。しかし、二人分の食料を1週間分ならまぁなんとかなるだろう。
「いろいろ融通できますけど、希望はあります?」
「芋を一袋と香辛料と塩、あとチーズの塊を半分ほど。野菜や豆の瓶詰めも欲しい。」
「塩漬けの肉、
「注文が多いですね。」
主計はブツクサと文句を言いつつカウンターの奥に消えた。しばらくして主計はいろいろと几帳面な文字を書き込まれた書類を差し出した。
「小金貨2枚、大銀貨8枚です。」
「随分と安いな。」
「昨日の
「良心的だな。」
必要分の硬貨を受け取った主計は、それを数えて種類別に片付けた。台帳にサインをして、取引は成立だ。荷物は昨日の丁稚が荷車へ運んでいることだろう。
「『取るに足らない』仕事じゃなかったのか?」
「少なくとも、あの爺さんはそうは思ってないようです。」
主計は男を見上げるようにして眠たそうに愛想笑いをした。
「お気をつけて。」
「あぁ。」
酒場を後にすると、荷車には頼んだ覚えのない酒樽が乗っていた。
「もう、行かれるのか。」
「あぁ。」
「今から出立すると、すぐ夜になりますぞ。」
「わかっているさ。夜の旅路も悪くない。」
老爺は二律背反に苛まれていた。笑って送り出したい気持ちと、もう少し、一晩だけでも話していたいという気持ちがせめぎ合っていた。
「時間はいくらでもあるが、急ぎたいんでね。」
「あの後、何があったのですか。」
「分かってるだろう。」
老爺の気持ちと裏腹に、二人は淡々と荷車の荷物を確かめていた。少女は会話どころか目を合わせようとすらせず、意図的に顔を反らしているようにさえ見えた。
「呪い、ですかな。」
「あぁ、とても強い。トロールやドラゴンなんか目じゃないほどにね。」
これでも交わす口数は多いと思っていた。彼らにとって、必要以上の会話はそれだけで心に深い傷を付けかねないと、誰もが考えていたからだ。だが、老爺は立ち去ろうとする二人に、忘れかけていたその名前を呼びかけることを我慢できなかった。
「200年ぶりでしたの。17代目勇者、
「……俺はもう
荷車の点検を終えた二人はそのまま歩き出した、振り返ることはない。彼らにとっては、もうそれで十分だった。彼らの名前を語るものは、限りなく少ない。彼らの冒険は『些細な、取るに足らないもの』だからだ。それを覚えている誰かと話し込んで本来の目的を忘れるわけにも行かなかった。
「
剣士の男は最後に
「ワシにとっては『取るに足らない』者なんかじゃありませんぞ! 」
老爺の叫ぶような声に、二人は後ろ手に手を振って応えた。老爺は二人が見えなくなるまでそこに寂しそうに立ち尽くすしかなかった。しばらくして、森の中から聞こえた懐かしい寂しげな遠吠えが、いつまでも彼の耳に残っていた。
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