第2話:森の魔物
霧とともに現れた醜く肥え太った巨体を持つ
「Grrrrrrrrrrrr…….」
「まったく遅いな。眠くなっちまう。」
食卓のパンでも掴むような無造作な手つきで掴みかかるトロールの指を半歩下がって身をかわし、それよりもさらに無造作な手つきで切り伏せた。まるで霞でも切るかのようにするりと振り下ろされた剣は、一本が人間の足の太さほどもある指を人指し指から小指までまとめてまっすぐに切り落とした。
「Ga……? 」
「やっぱ痛がりもしないか。俺だったら泣いて転がるんだがね。」
トロールは親指以外を全てなくした右手を呆けた顔で見つめた。この森でずっと頂点に立ってきた彼には失った指に走る痛みという感覚をいまいち理解出来なかった。
呆けた顔のままこぼれ落ちた指を拾い上げ、それを失った箇所に押し当てる。すると、異常に高い治癒能力が、歪に、めちゃくちゃに、その指をつなぎとめた。不気味な笑みでそれを見詰める様子は、本能的に吐き気を催す。
「酷い見た目だ、落としといた方がよっぽど見れるぞ。」
歪な手で歪な拳を作り殴りかかる。軽戦士は目にも留まらぬ速度で振り抜かれた腕をすれ違うように斬りつけるが、血か脂で滑ったのか、上手く切り落とすことは出来なかった。
「浅いか?」
「浅い。これを使うがよかろ。」
「助かる、後でキスしてやろう。」
少女は剣士に、掌に収まる小瓶を投げ渡した。彼女の方を見るわけでもなく後ろ手にそれを受け取った剣士は、親指で弾いてその栓を開くと、ドロリとした銀色の液体を剣にふりかけた。それは剣に吸い込まれるように広がり、表面を包み込んで皮膜を作った。
しかし、そうしているうちに、トロールの右腕の大きな切り傷は、もう半分以上治りかけている。負傷という概念を弱い頭で記憶し、ついに激昂したトロールはまだきれいに指が揃った左腕で殴りかかる。
剣士はそれを避ける素振りすら見せずに真正面から剣で迎え撃ち、トロールの拳を腕ごと肘までまっすぐに切り裂いた。その切り口は日で炙ったかのように蒸気を上げて焼けており、トロールは人生で初めての命に関わる激痛を覚えた。肉と血が焼ける嫌な匂いが漂い、少女は顔を
「やっとこさ泣き叫ぶ用意ができたか。」
魔力の込もった武器は魔を焼く。剣に纏った征魔の水銀は、ただの剣にひとときばかり征魔の極光を宿らせ、邪悪なる者の眷属であるトロールの体を蝕んでいるのだ。こうなってしまっては、いくらトロールでも元通りには出来ない。
「UGAAAAAAAAAAAA!!!!! 」
トロールの絶叫にも似た咆哮が森に響き渡った。小指で耳をふさぐ仕草をしておどける剣士をよそにのたうち回る。痛覚の鈍いトロールも、流石に腕を半分に切られてはひとたまりもない。暴れるように振り回される腕を避けながら切り裂き、また避けながら切り裂き、その腕をどんどんズタボロにしていく。もはや原型がよくわからないほどに腕をボロボロにされたトロールは、
それは恐怖だった。ずっと森の頂点に君臨し、暴力と恐怖で支配していたトロールは、恐怖という感情を知らなかった。しかし今、周りに与え続けていた恐怖が、自分の中にあった。目の前の、『取るに足らない』ような小さな人間に、恐怖で支配されていた。トロールはその巨体を翻し、ドタドタとしたおぼつかない足取りで逃げ始めた。それは、あまりにも低い知能が故、本能が勝った結果でもあった。
「おいおい、どこ行くんだよ。まだ帰るにゃあ早いんじゃないか? 」
無論、はいそうですかと見逃すはずもなく、風のような速さでトロールに追いついた剣士は太り垂れ下がった腹の下に隠れた、体格に比較するとあまりにも小さく粗末でみすぼらしいソレを、思い切り切り裂いた。血液と共に黄色くにごった量だけは多い体液がボタボタとトロールの股から滴り落ちる。漂い来る血よりもおぞましい異臭に鋭い嗅覚の少女は酷く顔を顰める。
「食事中じゃぞ!足止めなら腱を切れ腱を! 阿呆! 」
「戦いに背を向けるのは、男じゃないだろ? 必要ないものを切ってやっただけさ。」
あまりの激痛に膝をついて倒れ込み、低いところまで降りてきたトロールの頚椎に剣を突き立てる。もはやうめき声を上げる力すらないのか、気道に流れ込んだ血液をゴポゴポと吐き出すトロールは、もはや座して死を待つしかない。もうこれ以上苦しませる趣味を持たない剣士は、そのままねじ切るようにトロールの首を切り落とした。
「よし、こんなものか。」
まるでなんでもないかのように、トロールの命に幕を引いた軽戦士はこれまた無造作にトロールの顎の骨を蹴り砕くと、
「相変わらずデタラメじゃのぅ。うぇっ……。」
「手際が悪いよりはいいだろ? 」
少女はよく知っている。トロルの巨体はたとえ指であっても容易く断てるものでは無い。ましてや太い腕や首などもってのほかだ。もちろん本来は人間程度が蹴って砕けるようなやわな顎なはずもない。そもそもトロールのような手合は名匠が鍛えた
「さ、飯の続きだ。冷める前にさっさと食わないとな。」
剣に付いた血糊を水銀ごと拭い取って、刃こぼれひとつないそれを鞘にしまうと彼はまだ暖かいスープを口に運んだ。少女はただ唖然とした様子でこの異臭の中で平然と食事を続ける男を睨んだ。
「なんだ。食わないのか?」
「こんな臭いところで飯が食えるか阿呆!!! 」
まるで自分になんの落ち度もないと言わんばかりの彼に対する少女の悲痛な叫びが遠吠えのように霧が晴れ行く静かな森に響き渡った。
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