一章:森の野営地の話

第1話:森の運び屋

 降り注ぐ太陽の恵みを全て受け止めようと木漏れ日すらも葉が遮る、深い、深い森。葉を透過した光だけが照らす足元は、苔が生い茂り注意を怠れば、根に足をかけかねないほどに暗く、道を歩くにはカンテラか松明を用意しなければならない。また、朝冷えのような静謐な空気に大きく吐いた息がやや白み、代わりに吸い込む息で肺が痛むような、それほどに空気は冷たい。


 その森を切り開いたあまり踏み固められていない、わだちおぼろな道には、こぼれ落ちた枝葉が無秩序に降り注いで絨毯のように敷き詰められている。その一つを踏み折りながら、荷車が通り過ぎた。旅の運び屋である。


 ボサボサの黒い髪、ボロボロのマント、安っぽい革鎧、使い古されたグローブにブーツを身にまとい、これまた安っぽい長剣を腰に下げ、そして首から下げた馬の蹄鉄を模した運び屋ギルドや盾を模した冒険者ギルド等の認識票を首からかけた、どこにでもいる一山いくらの運び屋に見える剣士の男だった。認識票に書かれた名前はTrivialトリヴィアルと読み取れる。古い言葉で、「取るに足らない」という意味だった。


 彼は狼を連れていた。人用のマントをスカーフのように首に巻いた、牛馬のような大柄な体格に見事な白銀の毛を身に纏う、美しく、威厳に満ちた狼だ。狼はハーネスを着けられ、樽や木箱を山ほど詰んだ荷車を引かされていた。今度はその太い脚が、ぱきりと枝を踏み折った。


「なぁおぬしよ、まだ着かぬのか? 」

「もう少しだ。夕暮れには着くさ。」

「遠いのぅ。こんなもの荷物がなければ一足で駆け抜けるというのに。」

「我慢しろ。飯のためだ。」

「それにしても、本当にこの先に野営地があるのかのぅ。」

「あぁ、でないと道はできないだろう。」


 会話こそあるが、人影は1つしかない。しかし、話し相手は彼のすぐ側にいた。


 それは狼だった。


 その声は威厳ある風貌からは想像もつかない、鈴のように美しい少女のようだった。


「飯といえば、そろそろ昼食の時間ではないかの?」

「道理で腹の虫がうるさいと思ってた、一度休憩しよう。」


 光がほとんど届かないこの森の中では日の高さで時間を計れないが、正確な体内時計は腹の虫で確かに昼を告げていた。荷車を止めハーネスを外すと、狼は大きく伸びをした。


 すると、牛馬のような逞しかった体躯は縮んで猫のような華奢なものになり、美しい白銀色の毛並みは、そのまま長い髪となる。変化が止まると、そこには声にふさわしい少女の姿があり、狼の痕跡は耳と尻尾だけとなっていた。首に巻いていたマントが彼女の豊かな胸と細い腰を覆い隠した。分厚い毛皮がなくなり、その細い体が小刻みに震えた。


「さて、飯の時間じゃ。はよう用意せい。」

「寒いなら服を着ろ。それとも泉で水浴びでもするか?」

男子おのこには目の毒かの?」

「堂々と見せている女ってのは、案外色気を感じないものだ。」


 くすくすと笑う狼の少女だが、睨みつけるでもなく、かといってその肢体を見つめるでもなく、路傍の石でも見るような目を剣士から向けられた。まるでつまらない男だと、不満そうに頬を膨らませ、体を抱くようにマント腰に体を擦った。やはり、寒いのだ。


「苦しくてかなわん。マントで勘弁してくれ。」

「今だけだ。野営地に入る前には着ろ。」


 心底面倒だという風に、剣士は火を焚いて昼食の準備を始める。薪には事欠かないが、燃え広がらないように彼葉や枝などを取り除くのが億劫なほどだ。苔むしているということは、湿っているということだが、木は火を生ずる。丁寧に取り除かなければ、森が日に包まれかねないことは、常識だった。火がつくと我先にと少女が駆け寄って暖を取り始める。


「塩漬けがあったじゃろ。肉が食いたい。」

「もったいないだろ。」

「もうすぐ野営地じゃろ。腐らす前に使ってしまえ。」

「…………道理だ。」


 鍋を火にかけて、肉が食いたいと喚く少女のために、味付けもかねてスープの具材に塩漬けにした肉の塊を刻んで入れた。しばらくして具材の豆や芋が適当に柔らかくなってきた頃に、仕上げにナイフで削ったチーズと香辛料をふりかける。旅の最中の食事としては、豪勢と言えるだろう。目的地手前、使って惜しくないものは、使ってしまえ。


「それにしても、お主の作るスープはいつも芋ばかりじゃのう。」

「芋はいい。美味うまいし腹にたまるからな。」


 少女は鍋になみなみと注がれた、芋が7割、肉が1割、豆とチーズ、そして煮汁が残りを占めるスープの具材の偏りに文句をつける。まずいわけではないが、こうも芋ばかりだと食べてる途中で飽きが来るとでも言いたげだった。しかし彼女の願い虚しく、剣士は芋が何よりの好物だった。


わしはもっと肉が食いたいぞ。」

「自分で狩ってこい。狼だろう。」

人狼ワーウルフじゃ。荷車を引くと狩りなどする体力など残っておらぬでな。」

「だったら、文句を言わず食え。」


 彼は自分の分だけを器によそい、残りを鍋ごと少女に分け与える。狼の巨体を維持するには、相応の食事が必要だ。少女は芋ばかり取り分けられ相対的に肉の割合が増えたスープに匙を突っ込んで行儀悪く掻き回し、1番大きな肉の塊を探って口に放り込んだ。温かいスープが染み入るかのように間抜けな吐息を吐きつつ咀嚼しながら行儀悪く苦言を呈した。


「そうじゃ、おぬしが狩ればよいことではないか。まだ力は有り余っておるじゃろ。」

「お前が荷を引き、俺がそれを守る。そういう役割分担だ。」

「ふむ。そうか。それでは役割を果たしてもらうとしようかの。」

「給仕を呼んだ覚えなんかないが、仕方ない。」


 剣士はまだろくに手もつけていない器を置いて立ち上がると腰に差した鋼の長剣を抜いた。みすぼらしいが、よく手入れされて欠けも曇りもない刀身が焚き火の灯りを照り返して光っている。


 木々がざわつく、逆に獣や鳥の声が遠ざかる、生暖かい微風そよかぜが頬をなで、あたりに霧が立ち込めはじめる。この森の魔物は、霧とともに現れるという。狼の嗅覚と剣士の直感は霧が出る前からその予兆を確かに感じ取っていた。


 料理の匂いにつられてか、あるいはそれを食べる人間の匂いにつられてか、人が両手で抱えきれないほどの太い木を、それより太い腕で軽々となぎ倒して、醜く肥え太った巨大な人型が現れた。


霧の大妖鬼ミスト・トロールか。食えたもんじゃないな。」

「醜いのぅ。さっさとやってしまえ。」

「レディとの食事の邪魔をしたんだ、ただで帰さないさ。」

「一応、術は用意しておくでな。」


 グルグルという低く鳴り響く音は、その鳴き声かあるいは腹の音か、どちらにせよボタボタと口から漏れ腹を伝う涎は目の前の得物を食らうために分泌されていた。しかし、彼らは特段平静を崩すことはなく、静かにトロールを見上げた。

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