並行世界の旅人
針間有年
並行世界の旅人
やり場のない憎しみが私を支配した。
暗い部屋の中、何か予感めいたものを覚え、私は網戸に空いた僅かな穴に指を入れる。そして、下に指を動かし、それを裂いた。そこには、見たことのない世界が広がっていた。
*
レンガ造りの家が建て並ぶ、太陽の美しい街。階段に腰を掛け、街を見下ろす私の上に、影が差す。
「こんにちは」
男の声に顔を上げる。すぐに気付いた。
「君も『旅人』だね」
「そうだよ」
彼は笑って、私の横に座った。
世界は些細なことで異なるものになる。
火山の噴火が起こらなかった。ある兵器が開発されなかった。誰かと誰かが出会わなかった。たったそれだけで。
それらの世界は、いくら延長しようと、交わることはない。だが、時に、そんな並行世界を渡る者がいる。それが「旅人」と呼ばれる存在だ。
「君はどうやって世界を渡るんだい?」
「そうだなぁ」
彼の問いに、私は
「すごいな。君は何も使わずにそれができるんだ」
「そうだよ」
私は裂いた空を両手で引っ張り、また、繋ぎ合わせる。彼に問う。
「君はどうするんだい?」
「僕はこれさ」
彼は立ち上がり、バッグから包丁を取り出した。それは、太陽の光を反射してきらきらと輝く。彼がそれを一振りすると、空が裂けた。
「へぇ。中々じゃないか」
私が感嘆の声を漏らすと彼は目を見張った。首をかしげる。
「どうしたんだい?」
「いや、君は旅慣れていそうなのに、まだ『人間』なんだね」
思わず苦笑する。
「そうだね。少しばかり印象的な出来事があって、また、人間に戻ったのさ」
「興味深いな。よければ、聞かせてくれないか?」
彼は空を塞ぎながら、再び私の隣に腰を下ろした。
「くだらない話だよ」
私は話し始める。本当にくだらない、ある世界での話を。
*
私が旅人になったのはいつだったのか。もう、そんなことは覚えていない。
旅をする。様々な世界に行く。当然、世界によって仕組みも常識も違う。情報量が多すぎる。だから、旅人は色んなことを忘れていく。自身の記憶、人間としての欲求、身体の衰えや成長、感情、その他諸々。
旅をすればする程、我々は人間から離れて行く。それは当然のことだ。
ただ、私には忘れられないものがあった。
憎しみだ。
心の底にある憎しみ。何を憎んでいたのか。どうして憎んでいるのか。そして、この憎しみをどうしたいのか。分からない。なのに、私は憎んでいる。
馬鹿らしいが、私は正体の分からない憎しみだけを頼りに、旅をしていた。
様々な世界に行った。
恐竜が治世を行う世界、どこまでも平原が続く世界、生物が互いに殺し合うことを楽しむ世界。
私はそれらの世界を見物し、時にそこで過ごし、幸せを覚え、だが、やはり、また憎しみに駆られ、旅を続けた。
いつものように私は空を裂いて、違う世界に出た。現れたのは、家々が立ち並ぶ世界。さて、この世界の住人は何であろう。人間か、動物か、はたまた、異星人か。
私は灰色の地面に足を下ろす。覚えのある感覚。硬質で、温かみのない、ざらりとした、アスファルト。
懐かしさを覚える。どうやら、この世界には、一度、来たことがあるようだ。
町を歩いていたのは人間だった。私はそれらを観察し、ぱっと自身に触れ、衣服を変える。目立たない黒のコートにジーンズ。これは旅をするうちに身についた力。衣服を変えるだけでなく、人間以外の物にもなれる。ある時空では魔女と呼ばれ、殺されかけもした。
白い息を吐きながら、ぶらぶらと町を散策する。心動かすものは何もない。私は淡々とその世界を歩く。
ゴミ捨て場にカラスが群がっている。私はそれを眺める。そして、目についた異様な物。そこには大量のビニール傘が打ち捨てられていた。
数々の世界を旅してきた私が、こんな些細なことを異様だと思う。珍しいことだった。
気になって見つめていると、空からぽつりと雨が降ってきた。この世界の雨はまだ透明だ。この間の世界の雨は黒かった。久々に、浴びても死なない雨。私は目を閉じた。自然の息を甘受する。
「
静寂を破る、震えた声。私は振り返る。そこにはスーツを着た三十代ほどの男がいた。
男は私の顔を見ると目を見開き、手に持っていたビニール傘を投げ捨てる。男は私に駆け寄り、その手で私を抱きしめた。
男の名前は
男が狂っているのはすぐ分かった。十年前に消えた女をずっと探していたらしい。忘れもせず、ずっと。そして、その女を私に重ねた。
部屋に飾られている写真を見る。なるほど、確かに私に似ている。だが、その表情はいかにも人間らしいもので、旅人である私とはかけ離れたものだった。
男は私に何も問わなかった。どうして、ここにいるのか。何をしてきたのか。記憶はあるのか。また、男は何も話さなかった。以前の「沙也加」は、どんな人間だったか。
彼は言った。ただ傍にいてくれるだけでいい。
おそらく、彼は「沙也加」の身代わりを欲していただけ。それが本人でなくともよかったのだろう。
男は朝になると仕事に出かける。私は彼の背を見送った後、部屋の中で淡々と過ごす。
部屋の鍵は渡されていたため、外出もできたのだが、しばらく、死と隣り合わせの野宿だったので、襲ってくるもののない居心地のいい部屋に留まった。
だが、命の危機がない時間というのは暇だ。
私は男の部屋をあさる。本を読み、テレビをつけ、時に冷蔵庫に入った食材で料理を作った。男はひどく喜んだ。
男と過ごして一か月がたった。あっという間の一か月だった。休みになると男は私を街に連れ出した。甘いものを食べ、服を買い、テーマパークに行き、飽きないほど、私に笑顔を見せた。
その日も私は彼を送り出し、部屋の中でまどろんでいた。余程呆けていたようだ。私は寝ぼけてベッドから転げ落ちた。けだるく床で転がっていると、ふと、ベッドの下の暗がりに目が行った。そこには一冊の分厚い本があった。私はそれを引きずり出す。
ボロボロになった表紙。退色し、紙も劣化している。私はそれを開く。どうやらアルバムのようだ。
私は一枚一枚、ページを捲る。
そこには「沙也加」の写真が並んでいた。彼女はいつも幸せそうだ。無邪気さも、柔らかさも兼ね備えた、まさに、人間だった。
ページを捲っていく。白紙が続いた。そして、また、写真が現れる。それは、この一か月の写真だった。無表情な私を彼は嬉しそうに撮っていた。たくさん、たくさん。それは、何ページにも及んでいる。
あるページで私は手を止める。おかしなものが写っている。また、捲る。おかしい。ページを捲る指はだんだんと早くなる。
私は呆然とした。
ページが進むたびに、写真に写る私は表情を取り戻していった。笑顔になっていった。
「沙也加」と同じ顔をしていた。
*
この世界に覚えた懐かしさ。私はある考えに行きつく。ここは、私が生まれた世界なのではないか。そして、気づく。ならば、ここには、憎しみの根源があるのではないか。もし、憎しみの根源が、憎しみのやり場が分かれば、私は、もう旅をしなくていい。そうすれば―。
隣で眠る彼の髪を撫でる。
そうすれば、ずっと、智弘の隣にいることができる。
私は憎しみを見つめる覚悟を決めた。
その日から、私は、外に出かけるようになった。何か手掛かりがないか。
町を歩く。見知った景色があった。近づいてきている。だが、何かが違う。これではない。私の憎しみはこの中にはない。だったら、どこにある?
私は躍起になった。家の中を隅から隅まで探した。近い。だが、違う。核心に迫ることができない。
その日も、夜まで、そうしていた。
雨音に顔を上げる。にわか雨だろうか。窓に水滴がついていた。
そろそろ、智弘の帰ってくる時間だ。そして、彼は今日、傘を持っていない。私は、家に大量にあるビニール傘を二本持って、外に出た。
駅前に向かう。
ビニール傘とは不思議なものだ。見上げると、雨粒が見える。傘に打たれて流れていく雨が。
はじめてこの世界に来た日のことを思い出す。私は、捨てられたビニール傘達を見て、立ち止まっていたところ、智弘に再会したのだ。
智弘の家にはビニール傘がたくさんある。きっと捨てたのは彼だ。何故だろう。
ぶらぶらと歩きながらそんなことを考えていた。
駅前にたどり着く。智弘に渡されたスマホを覗く。先ほどした連絡に、返事はない。私は手持無沙汰に、屋根のある場所に身を寄せ、智弘を待った。
電車が着いたのか、どっと人が流れてくる。その中に、彼の姿を探す。そして、私の動きは止まった。彼は女と一緒に歩いていた。
私の脳で何かが弾ける。フラッシュバック。ああ、あの女は、彼の、前の、彼女だ。そう、以前、智弘は、あの女と―。
私の憎悪の根源はこれだ。くだらない。あまりにも、くだらない。
智弘が浮気をした。私はそれだけの理由で、世界の切れ目を見つけ、網戸を裂き、並行世界に足を踏み入れた。旅人となったのだ。
私はその場を後にして、家へ戻る。傘はささなかった。部屋に入っても電気をつけることはなかった。濡れた体で、玄関に膝をつける。そして、流れる涙をそのままにして、私は嗚咽を零した。
どうしてこんなに胸が詰まるのか。ずっと抱えて来たものが、あまりにくだらなかったからか?智弘が他の女と歩いているのが辛かったのか?
もう、何も分からなかった。
「ただいま」
数分後、智弘は帰ってきた。玄関でうずくまる私を見ると、彼は荷物を放り出して、私を抱きしめた。柔らかな抱擁ではない。強く、強く。まるで、私の存在を確認するかのように。
風邪をひくからと、風呂に入らされた。私は温まった体でベッドに座った。智弘がその横に腰を下ろす。
「よかった…」
智弘は何故か涙をこぼしていた。彼は私の左手に、震える右手を重ねる。
「また、どこかに行ってしまうかと思った…」
ああ、やはりそうなのだ。この世界は私の旅の始まり。沙也加が、私が、くだらない憎悪に駆られ、旅立った世界。
彼は続ける。
「君が旅立ってから、僕は何度も何度も君と同じことをした」
網戸を裂き続けたのだろうか。滑稽だ。
だが、違った。
「君がしたみたいに、ビニール傘で空を裂いてみた」
体が強張る。
「でも、裂けないんだ。傘はただ空気を切るだけで、君が消えた世界には行けなかったんだ」
智弘の手を払い、私は立ち上がった。
「沙也加?」
「ごめん」
私は空に指を入れる。そして、それを裂いて見せた。彼は目を見開く。
「私はビニール傘で空を裂くことはできないんだ」
姿を見せた並行世界に片足を踏み入れる。智弘が私の腕に縋りつく。
「待ってくれ、沙也加!また、僕を置いていくのか⁉」
「違うよ」
その手を引きはがす。
「私は君の求めている『沙也加』とは違うものだよ」
彼の悲鳴に似た叫びを聞きながら、私は裂け目を閉じた。
そう、並行世界だったのだ。
私がいた世界と似て非なる世界。ビニール傘で空を裂く沙也加がいた世界。核心にたどり着けないはずだ。
彼が愛していたのは私ではない。また、私が憎んでいたのは彼ではない。
私は、人気のない永遠と続く小麦畑を、泣きながら歩く。
きっと、私は、また忘れる。沙也加という名前も、覚えた幸せも、智弘という存在も。忘れて、憎しみだけが残って、また並行世界を旅する。
*
「あの出来事から、まだ、二、三の世界しか旅してないからね。それなりには覚えているよ」
私がそう話を締めくくると、彼は黙り込んだ。やはり、覚えがあるらしい。
隣に座る「智弘」に笑いかける。
「君の世界の『沙也加』は包丁で空を裂いたんだね。中々に物騒な女だ」
「…。沙也加。そうか、僕が追いかけている相手はそんな名前だったんだね」
彼はぽつりと呟いた。私は返す。
「いや、違うかもしれない」
「え」
「だって、並行世界だ。違う名前なんて可能性は、いくらでもある。それに、君の追う彼女が、君の世界の私とは限らない。別の女かも」
不満だけどね。
私の言葉に、彼は顔を上げ、そして、笑った。
「いや、きっと君だよ」
「何を根拠に?」
「根拠なんて問うのかい?僕ら旅人という不可思議な存在に」
それもそうだ。旅人という訳の分からない生物。いや、生物かどうかも怪しい。そんなものに根拠を求めるなんて、冗談も過ぎる。
私は立ち上がる。彼が私を見上げる。
「行くのかい?」
「ああ。私には、憎しみしかないからね」
「憎しみ、か」
彼は繰り返し、私に問う。
「君はその憎しみをどうするつもりだい?」
「さぁね」
私は彼に背を向け、空に指を這わす。
私はこの憎しみから彼の元を去った。私の存在を思い知らせたかったのか、現実逃避か、憎しみに呑まれ彼を傷つけるのを恐れたのか。
それとも、追ってきてほしかったのか。
だったら羨ましい。包丁で空を切り裂く私が。だって、私の後ろに座る彼は、その私を追っている。
僅かな沈黙。彼は口を開く。
「僕では駄目かい?」
「…」
「無限にある並行世界で、君と僕は出会った。奇跡と言ってもいいだろう」
彼は辺りを見渡す。
「ここは、いい世界だ。平和で、人々も優しい」
「…」
「僕とここで暮らさないかい?その憎しみは僕が受け止めるからさ」
私は振り返り、笑う。
「できない」
「…」
「できないよ」
「…。そっか」
彼も笑っていた。私は問う。
「君も、そんなことを言いながら、できないんだろう?君は、君の私でないと駄目なんだろう?包丁で空を裂く私じゃないと」
「そうかもしれないね」
私は、空に指を突き入れて静かに指を下ろす。ぴりぴりと小気味よく空が裂けていく。
「さよなら。違う世界の憎らしい君」
「さよなら。違う世界の愛しい君」
私達は手を振って別れた。
私は旅をする。
核で滅んだ世界を。動物と人間が対等に暮らす世界を。アンドロイドが支配する世界を。
ああ。もう、忘れてしまったな。私が憎む相手は誰だったっけ。この憎しみをどうしたいんだっけ。ぶつけたいのか、消したいのか、持ち続けたいのか。それも、もう分からない。
だけど、それでも、いいような気がする。この憎しみがある限り、私は私でいられる。
今日も、私は、憎しみを抱え、また、空を裂く。
並行世界の旅人 針間有年 @harima0049
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