【13-10】 蜂蜜と煙草

【第13章 登場人物】

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【地図】ヴァナヘイム国

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 銃弾の摘出と止血の手術は終わった。


 弾は、心の臓への直撃を回避していたという。


 黒ずくめは殺しのプロだろう――仕損じるとは思えない。


 おおかた、インパクトの瞬間、クヴァシル次官こやつ咄嗟とっさに身をひねったのだろう。絶体絶命時における、執念の反射神経といったところか。



「飲まないのかい」

 バー・スヴァンプ特製の蜂蜜酒だよ。今日はニード産の高価な蜜をこれでもかと注いでやった。


 しかし、女医・ダイアン=キェーフトがさかずきをあおることはなかった。


「……患者の容体が急変するかもしれんからな」

 キェーフトは、わずかにめただけで、コップを胸元に下ろしてしまった。


 そうだった。この女医はいつの頃からか、アルコールを必要以上に口にしなくなった。


 酒に強くはなかったものの、下戸ではないはずだ。昔は、ここで酔い潰れた彼女を介抱している。


 もう何年も前から――人が変わったような様子で来店したあの日から――その小さな体に、白衣と共にまとった緊張感を、決して脱ごうとはしないのだ。


 カウンター越しに、ますスープに続いて数点のさかなを差し出すと、キェーフトは少女のように



 すると彼女は、ぽつりぽつりと口を開いていく。白髪は汗にまみれたまま――。


「もう10年になるじゃろうか――ワシは、1人の少女を助けられんかった」

 救えたはずの命じゃった……そう吐露する女医は、先刻の大手術の最中よりも苦しそうだ。


 彼女が両手で握ったままのコップからは、湯気がたゆたう。


「ワシは己の腕におごっていたのだろうよ。患者の家族への配慮が足らんかった」

 心の面の学問が不足しておったのだと、キェーフトは寂しそうに笑った。


「最年少オラヴ様が勉強不足ねぇ……」

 あたしは杯をあおった。



 帝国人の紅毛の兄妹――その話を聞いたのは初めてのことだ。



 この傲岸不遜ごうがんふそんな童顔女医が、このように己を責める姿は見たことがない。それだけ、軍務次官の手術に神経をすり減らしたということだろうか。


 女医の問わず語りに、どう合いの手を入れれば良いのか分からなくなり、あたしは紙巻を一本取り出した。


「……煙草はやめとけよ。体に悪い」

 ひととおり懺悔ざんげして落ち着いたのだろうか。いつものペースには程遠いが、キェーフト女医はを取り戻しつつあった。


「そのうちね」

 あたしは口元に紙巻をくわえたまま、マッチを手にする。


「だいたい、お前さんは料理人じゃろうが」

 味覚が鈍らんのか――ぶつくさ言いながら、キェーフトはスプーンを手に取った。


 ところが、鱒スープをすくって口に含むや、彼女の表情は、たちまち恍惚こうこつとしたものに支配される。

「~~~~~ッ」


 どうだい。店で仕込んだ燻製鱒くんせいますは、臭みなく甘みすら感じる間にほろほろと崩れていくことだろう。キェーフトは、口にしかけた苦言もスープとともに、飲み下してしまったようだ。


 誰の味覚が鈍るって?あたしの舌や腕が、紙巻で劣化するわけがないだろう――その一皿で納得いただけたのなら結構だ。


 あたしは笑みを浮かべつつ、店の奥へ歩を進めた。そして、無人の厨房に戻るや、マッチに火を点ける。


 それにしても、世界一の名医様とはいえ、この至高の一本に文句をつけてくるとは片腹痛い。


「90歳過ぎたら、余生のためにやめてやるよ」

 独語すると、あたしは美味そうに吸ってやった。






【作者からのお願い】

この先も「航跡」は続いていきます。


レイス兄妹のこと、キェーフト医師はずっと引きずっていたのだな、と気がつかれた方、ぜひこちらからフォロー🔖や⭐️評価をお願いいたします

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ボーデンたちの乗った船の推進力となりますので、何卒、よろしくお願い申し上げます🚢



【予 告】

次回、「正規兵と特務兵 上」お楽しみに。


物語の舞台は、再び最前線へ――ヴァナヘイム軍優勢の戦局に影が差します。


よほど急いで駆け戻って来たのだろう。馬はその場にうずくまり、斥候兵も大きく息を乱していた。

「……ミュルクヴィズの街は灰燼かいじんに帰しておりました」

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