【8-24】敗走 下

【第8章 登場人物】

https://kakuyomu.jp/works/1177354054894256758/episodes/16816700429051123044

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 7月25日の夜明けを迎えようとしている。


 煌々こうこうと焚かれているかがり火に吸い寄せられるようにして、帝国本軍の陣営内に小さな集団が再びたどり着いた。


 上官と少女へ向けていたトラフの軍靴が、新たに漂着した友軍の生き残りに、素早く向き直る。


 泥とすすまみれの軍旗に描かれているのは、見慣れた黒きコガネムシ――アトロン家の紋章である。



 夜半過ぎから敗残兵を受け入れてきた帝国陣営は、夜明け前に落ち着きつつあったが、アトロン連隊の生存者を迎え、再び活況を呈し始める。


 それらの物音に、レイスは眼を覚ましたようだ。


 彼は、少女の膝から身体を起こすと、懐中時計を取り出している。


 針は、早朝5時にさしかかろうとしているはずだ。周囲はほのかに明るい。足元には、先ほどまで彼が口にしていた炭酸水の小瓶が置かれたままだ。


「お、おはよう、ございます……」


「おはようございます。すぐに朝食の用意をいたしますか」


「……」


 赤髪の少女のぎこちない挨拶にも、黒髪の副官の沈着な問いかけにも応じずに、紅髪の将校はと立ち上がる。


 そのまま黒コガネの旗に向けて、のろのろと歩を進めた。彼女たちもその後に続く。



 ふらりと現れた背の高い青年将校とその女性副官の姿を見て、本軍にたどりついたばかりの者たちは一様に緩慢かんまんな敬礼を行う。


 誰もが頭部や腕、足に傷を負い、そこからは血がにじんでいた。


 正視に耐えなかったのだろう、少女ソルは、両目を強くつむってしまった。おまけに足がすくんでしまっている。


「アトロン大佐……連隊長殿はどうなされた」

 そう言うレイスもこうべは垂れたままであり、答礼もおざなりだ。言動にいつもの躍動感はない。


「……現時点において、自分が連隊長代理を務めている」

 右腕を左手でかばうようにして、ブライアン=フェドラー中佐がよろめき出た。


 思わずトラフは灰色の両の目を細め、形の良い口を引き結ぶ。



「……そうですか」

 レイスは、頭を上げずに一言だけつぶやいた。



 傷口が痛むのだろう、中佐は歩を進めた途端、表情が歪み、その場に膝をつく。介抱のため、すぐにトラフは歩み寄った。


 彼は、レディ・アトロン麾下の筆頭将官であった。


 帝国軍のなかでは優秀な部類に入るはずの中年士官も、軍服だけでなく顔や頭髪にまで泥と血糊がこびりつき、まったく覇気に欠いた。


 レイスもそこに片膝をつき、自隊が離脱したあとの戦況について聞き込みを始める。



「……総司令部への報告は、自分が行きます」

 レイスは立ち上がるや、ゆっくりときびすを返す。紅色の前髪が顔にかかったままであり、トラフは上官の表情をうかがい知ることができなかった。


 ビレー中将以下、帝国軍右翼・第1軍団司令部は、その機能を失って久しい。


 代わりに撤退戦の殿しんがりとして、最後まで味方の敗走を見届けたのは、レディ・アトロン連隊である。


 だが、連隊長以下、軍議や演習で顔を合わせてきた士官たちも、傷を負った中佐を除き、その姿は見えない。


 アトロン連隊の生き残りのなかで、身体健全という条件を付ければ、最も階級が高いのはレイスのようだ。



 紅毛の将校は、1人総司令部へ歩いていった。


 トラフの視界を遮るように、衛生兵たちが慌ただしく駆け寄り、連隊の生き残りの看護を始めていく。


 黒髪の副官は、かたわらで震えている少女をそっと抱き寄せると、彼の背中をそれ以上、追いかけなかった。







【作者からのお願い】

この先も「航跡」は続いていきます。


レイスたちの乗った船が止まらぬよう、レディ・アトロンの冥福を祈っていただけましたら、幸甚です。



【予 告】

次回、「陰日向 上」お楽しみに。


朝陽が昇り夜の帳が開いても、老司令の表情は冴えないままだ。

数カ月ぶりに顔を合わせた総司令官は、心持ちやつれたようにレイスのあおい瞳には映っていた。


「イース将軍の予備兵力を右翼にさし向けよ」

せきとした空気を破ったのは、そのアトロンのぼそぼそとした声であった。

老将は白色の眉を心もちしかめ、静かに命じた。

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