【8-23】敗走 中

【第8章 登場人物】

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【イメージ図】イエロヴェリル平原の戦い2

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 帝国暦383年7月25日午前2時――帝国本軍の下にレイス隊以下、右翼の敗残兵がよろめきながらたどり着いた。


 負傷兵のなかには、昼間のように明るい篝火かがりびを見ただけで、安心して眠りについてしまう者も多かった。しかし、そのほとんどは二度と起きることはなかった。


 敗残兵たちは汗と泥と返り血に汚れ、その場にへたりこんでいる。そうした同僚の様子を見て、帝国中軍の兵士たちは、水や食料を手渡しながら、かける言葉も見つからない。



 むしろ、アトロン総司令の依頼を受けて、付近の街――イエリン郊外――から駆け付けた老婆や中年女たちの方が、肝は据わっていた。


 特に、この婦人軍団の長と思わしき老女は、八面六臂はちめんろっぴの活躍を見せていた。


 身なりからして相当な身分のご夫人と思われるが、高価そうな衣服が汚れることなど構うことなく、炭酸水を配り歩いている。


 同時に、意識を失いかけた兵卒を見つけては、「タマも飛んでこねぇとこで、死んでんじゃよッ」と力強く叩き、蘇生させていく。


 そうかと思えば、即席ので、流血に臆することなく衛生兵の助手を務めたりしていた。



 セラ=レイスは、副官・キイルタ=トラフが敷いた毛布の上にあぐらをかき、炭酸水を飲んでいた。


 ぬるく、甘ったるい液体が、疲労しきった身体に染み込んでいく。


 明け方にもなると、さすがに前日の暑気も鳴りを潜めていた。悪路に難儀していた野砲を押した際、軍服に浴びた泥水が体を冷やしている。


 トラフは篝火から火を移し、暖をとれるよう取り計らった。


 ――どこまでも気が利くやつだ。


 薄れゆく視界に、紅髪・翠目あおめの少女が映ったのは、レイスが炭酸水を何度目か口元に運ぼうとした時だった。


 ――エイ……ネ……。

 瓶は彼の右手を滑り、音もなく地面に転がった。



***



「あにさま、おなかがすきました……」


 どぶ川に架かる小さな丸木橋の上に、紅毛の幼い兄妹は座りこんでいた。


「ととさまは、悪いことをしていなかったのに、どうして?」


 ――それは、力を持たなかったから。


 ――父上はご立派な生き方を貫かれた。


 ――しかし、一きんのパンすら買うこともできない最期を迎えられたのではなかったか。



 情景は、どぶ川の丸木橋から貸部屋の狭い玄関に変わって――紅毛の幼女は少女へと成長していた。


「おかえりなさい、あにさま……」

 ぽろぽろとこぼす大粒の涙で、少女の声はかすれていた。



***



 帝国軍は7月25日の朝を迎えようとしていた。


 先刻、セラ=レイスが寝入ったことを見届けると、キイルタ=トラフは救護兵とともに自軍の負傷兵の対応に加わっていた。


 それらの処置がひと段落し、再び上官の様子を見に戻ってきたところで、彼女は立ちすくんだ。


 上官はまだ眠っていた。



 少女の膝の上に頭を乗せて。







 ――エイネちゃん!?


 全身を包み始めていた疲労と睡魔が、一度に吹き飛ぶかと思うほどの衝撃を、トラフは覚えた。


 だが、それも一瞬のことであった。


 その娘のい髪は、記憶のなかの少女よりもくすんでいた。


 ――あの子が居るわけがないわ。

 松明たいまつの灯りのせいで見間違えたのだろう。トラフはあおみを帯びた頭を振った。


 近づいて見れば、娘の水色の瞳には、琥珀こはく色が混ざっている。



 この少女は、ヴァーラス城主の娘・ソル=ムンディルであった。


 城塞陥落の折、レイス隊の庇護ひご下に置かれたが、同隊が右翼最前線に飛ばされる際、イエリンの北外れの街に暮らす祖母に預けてきたのであった。


 その祖母は、イエリンの婦人会を束ねているとも聞く。


 街からこの帝国軍本軍まではそれほど遠くない。アトロン老将の呼びかけに応じ、少女も祖母と共に駆け付けたのであろう。






【作者からのお願い】

この先も「航跡」は続いていきます。


婦人軍団を率いるは、ソルのお祖母様だな、と気が付かれた方、ぜひこちらからフォロー🔖や⭐️評価をお願いいたします

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レイスたちの乗った船の推進力となりますので、何卒、よろしくお願い申し上げます🚢



【予 告】

次回、「敗走 下」お楽しみに。


煌々こうこうと焚かれているかがり火に吸い寄せられるようにして、帝国本軍の陣営内に小さな集団が再びたどり着いた。


あの見慣れた軍旗は、黒きコガネムシ――泥とすすに汚れていたが、アトロン家の紋章である。

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