眼球商店

小鳥遊 慧

眼球商店

 不思議な店の話をしよう。その店を訪れたのは、十年以上昔の冬のことだった。



 頭上には今にも雪が降り出しそうな鈍色の曇天が重く伸し掛かり、まだ普段なら明るい時刻にも関わらず黄昏時のように薄暗い。俺は右手でコートの襟を掻き合わせ、悴んだ左手をポケットに滑り込ませた。じゃらりと音がして、氷のように冷たい物が指先に触れた。病弱な末の妹に買ってきてほしいと頼まれたビー玉だった。


 寒さに背中を押されるように早足で家に向かっていたのだが、ふと寂れた商店街の一角に目が止まった。普段なら目に付かないような小さな店の曇った窓硝子からぼんやりとした薄明かりが漏れている。灯の落ちた商店街の中ではその明かりはひどく目立つ。つい、ふらりと惹かれるように近付いてしまった。


『眼球商店』


 青銅板に刻まれた文字が白熱灯の軟らかな明かりに照らし出される。眼球という文字を見て、俺は思わず包帯の巻かれた右の瞼に指を押しつけた。その下に眼球はない。ただ空虚である。いつからなかったかは記憶になく、物心の着いた時には既に存在しなかった。生まれた時あったかどうかすら定かではない。


 まだ店は閉店していないらしく、試しにドアを押してみるときぃっと蝶番の軋む音がして存外軽く開いた。と、そこで思わず立ち竦む。店内には所狭しと天井まで届くほどの棚が並び、看板と同じように白熱灯の明かりに照らされていた。棚には埃っぽい店内に似合わないような整然さで、色とりどりの眼球が液体に満たされた瓶の中で浮いていた。


「いらっしゃい」


 奥の方から嗄れた声が聞こえた。棚ばかりが明るく照らされて、人影しか分からない。


「ここは……何の店なのですか?」


 数え切れぬほどの眼球に見つめられて、いたたまれぬ思いをしながら尋ねる。


「見ての通り眼球を売り買いする店さ。もっとも眼球に値段なんぞつけれないから、物々交換が原則だがな。例えば……その入口の前の棚、上から二番目にある『真夏の空の青』を見てみろ。そこの脚立を使え」


 ぶっきらぼうな命令口調には少しばかりムッとしたが、好奇心には逆らえずに瓶の中を覗きこむ。そこには真夏の空の目に痛いほどの深い青の眼があり、光の方を見て透明な液の中で浮いていた。瞳孔は大きく広がっており、その反対側からは視神経と思しき細い糸が無数に出て、水中を漂ったり、眼球に絡み付いたりしている。ところどころ細かな泡が視神経にくっつき、きらきらと輝いていた。


「それは戦前に手に入れた物だ。その青い眼が原因で酷い暴力にあった異国人の少女が、この国ならどこにでもあるような『夜空の黒』の眼の代わりに置いて行ったものだ。そんな風に、真にその眼球を必要とする者だけが訪れて必要のない自分の物と交換していく。それで、何を求めている?」


 一度、片方しかない眼で瞬き、それから店主の方に近付いて行った。


「これと、同じ眼はないだろうか?」


 そう、残っている左目を指す。店主は今までカウンターのごく狭い範囲を照らしていたスタンドを顔に向けてきた。眩しくて思わず眼をすがめると、暗闇から伸びてきた指が瞼を持ち上げ、しげしげと見られた。


「『秋の嵐の前の雲の灰色』か……そう、確か片目だけぽんと持って来られて、現金で払えと無茶を言ってきたから覚えている。そうじゃなきゃ、そんなに希少価値のあるものでもないから忘れていただろうな」


 ありかを早口で呟き、俺に行くように指図する。言われた通り棚を数えて中腰になって覗きこむ。はたして、そこには曇天の色をした眼球が一つ浮かんでいた。鏡でずっと見てきた左目と同じ色のそれが。何度も何度も見つかることを願った、顔の右側の虚無を埋めることのできるたった一つの物が。


 震える手で瓶を持ち上げると、中で眼球が漂う。そうして眼の高さにそれを掲げると、視神経が白熱灯にキラキラと輝き、虹彩が角度によって僅かに色を変え、瞳孔の奥まで見透かせるような気さえした。


「それに決めたか?」


「はい………」


 まるで熱に浮かされたような気分で答えた。


「瓶ごと持ってこっちへ来て、包帯を外せ」


 瓶を両手で抱えて運ぶと、眼球はまるで俺から眼を逸らすように回った。言われた通りにスルスルと慣れた動作で包帯を解く。そしてその下の意味のない瞼をゆっくりと開いた。


「ほぅ……本当にきれいに何もないな 」


 言った店主は、手術で使うようないビニールの手袋をして、瓶の蓋に手をかけていた。


「見える方の眼は閉じていろ。なに一瞬だ。痛みもない」


 片目だけ閉じるという器用なことができなかったので両方閉じてしまうと、先程と同じように瞼をこじあけられた。だが当然のごとく、闇が広がるだけで視界には何の変化も起きはしない。顔に開いた深い空洞に、ぬめりを伴った物が押しつけられた。すると唐突に眼窩の奥が蠢きだした。まるで押し当てられたそれを迎え入れるように、帰ってきたことを歓喜するように。外の眼球から視神経が伸び、騒いでいる眼窩と絡み付く。そしてそのまま引きずり込まれるように、ずるりと眼球が滑り込み本来あるべき場所に入り込む。それと同時に酷い激痛が、眼の奥に走った。まるで神経を直接焼き焦がすようなその痛みに、思わず強く閉じた瞼の上から手で押さえて呻きを漏らしてしまう。しかしその痛みも一瞬で何事もなかったように消えてしまった。


「てめぇ、痛くないって……」


「やはり、本人の物でも痛くならないっていうのは無理な相談か」


 飄々と悪びれるでもなく言い、涼しい顔で煙管を吹かされると言い返すのも馬鹿らしくなる。一瞬で吹き出した額の脂汗を手の甲で拭って、落ち着いてからようやく気付いた。


「見えるようになってる……」


 今までと比べ、格段に広がった視界。


「どうやら視神経を繋ぐのに痛みをともなうようでな。それで、どうだ?」


「すごい……」


 白痴のようにそんな言葉しか思い付かないほどに、視界は、世界は広かった。


「そりゃよかった」


 彼はそんな客の様子も珍しくないのか、気のない調子で相槌をうつ。


「で、お代のほうだがな」


 店主のその声に、すっと興奮が引いていく。


 代価………。普通は自分の眼球を差し出して、欲しいものを手に入れる。先程この店主はそう言ってはいなかったか。だがしかし、俺には渡す眼球はない。


「もう片方の眼球でいいだろう。左眼と右眼の交換だ。大したことはない」


 店主はそう言ってカウンターの下から硝子の筒を出してきた。太さはちょうど眼球くらい。聞いたことがある。眼に筒を押し当てて勢いよくその筒を押すと、眼球は簡単に外に飛び出してしまうと。


「嫌だ………」


 思わず後退る。しかし店主はカウンターから出てきて、俺との距離を詰める。暖房器具もなく、暑いどころかいっそ寒い店内で、俺の背中は冷や汗で濡れていた。透明の忌まわしい筒を持った店主が片足を引き摺りながら近寄ってくる。そのズルリズルリという足音が狭い店内に響き渡る。店主から目が離せずに大きく後ろに下がって、先程使った脚立に足をとられた。派手に背中から床に倒れて息が詰まる。ポケットに入れていたビー玉が飛び出し、ぶつかり合いながら床の上を音を立てて転がった。それを気にもせずに店主は近づいて来て、筒を構え俺の顔を覗き込んだ。


「止めてくれっ」


 自分の一部が欠ける恐怖。明らかに不完全な自分への不安。それらがせっかく解消されると思った矢先に、この老人はもう一度その恐怖を味わえと言うのだろうか。


「やめ……っ」


 顔を覆った俺の手を、店主が骨ばった老人の手とは信じられないような力で握った。


 と。


 そこで動きが止まる。恐々と眼を開けると店主の視線はもはや俺の眼を捕らえてはいなかった。倒れた俺の頭上、ビー玉の転がった辺りを見ていた。


「なんだ。持っているではないか」


 腕を掴んでいる力が緩み、店主は床から何かを拾い上げた。白地に橙の点の描かれた少し大きめのビー玉。店主はまた足を引き摺ってカウンターへと戻っていく。そしてさっきまで俺の右眼が入っていた瓶に、そのビー玉を沈めた。俺はその様子を呆然と床に座り込んだまま眺めていた。


「何をしている? お代は貰ったから帰って良いぞ」


 震える足で店を出て行こうとしてビー玉を踏んで転びそうになる。しかし、もうそれを拾っている余裕が俺にはなかった。


「ありがとうございました」


 その声を背中に聞きながら、俺は家への道を必死で走った。


 眼球に囲まれて日々を過ごす老人には、あんなビー玉さえ眼球に思えたのだろうか。それとも…………あの、ビー玉にも視神経が生え、瞳孔が開き、橙色の虹彩を持つ眼球に変化する日が来るのだろうか。


 

 今でも時々、何百何千の眼球に満ちた店内で、柔らかな白熱灯の光に照らされ、鮮やかな橙色の眼球が瓶の中で静かに漂う様を想う。



    了

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眼球商店 小鳥遊 慧 @takanashi-kei

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