葬祭の色と祝祭の色(2)

「ちょっと出かけてくるね。多分お昼はいらないから」


「あー、行ってらっしゃい。夜、グラタンと野菜スープどっちがいい?」


「グラタン」


「じゃあチーズ買って来て」


「……やっぱり野菜スープでいい」


 珍しく出かけると言った時、仕立屋はいつもの地味な灰色の服のうえにエプロンという作業着ではなく、ふわふわとした生地で作られた薄いピンク色のワンピースに、白のカーディガンだった。デートかなぁとか軽く考えながら、俺は見送ったのだった。


 ミシンの音すらしない家で、一日中一人でいた。何だか落ち着かなくて何度も何度も、台所の小さな窓から外を見ていた。


 夕方になって雨が降り出した。確か仕立屋は傘を持っていなかったはずなので、濡れてるかな、と心配しながら、夕飯の準備を始めた。身体のあったまるようなメニューにしよう。何だか落ち着かない気持ちのまま準備に取り掛かったのだが、注意力散漫なのか、二度指を切りかけ、火にかけている鍋に触れてしまい火傷した。


 日が暮れ始める時刻にはしとしとと静かに降っていた雨が、料理も仕上げにさしかかった今では土砂降りになっている。こんなに降ったのは、俺が崖から落ちたとき以来ではないだろうか。


 迎えに行ったほうがいいかもしれないけど、俺外に出れないし、何より行き先わかんねぇよ………と無闇に考えながら落ち着かずに竈の前を行ったりきたりしていたら、ようやくドアの開く音が聞こえた。


「おかえり。遅かったな。濡れただろ?」


 玄関に佇んだ、びしょ濡れの仕立屋にタオルを投げた。そのタオルは上手く仕立屋の頭にかかり、その表情を隠す。仕立屋は黙ったままそこに立ち尽くしている。出かける時はふわふわだったスカートが雨に濡れてぐっしょりとうなだれ、裾からポタポタと水滴を垂らして、床に水溜りを作っていた。


「そこ、後で拭くからさっさとあがって着替えて来い。今火使ってるから台所で暖まれ。風邪ひくぞ」


 仕立屋は軽く俯いたまま、おぼつかない足取りで歩き出し、クローゼットのある寝室ではなく作業室に歩いていった。すれ違う一瞬、タオルとクシャクシャになった髪の影から隠れていた表情が見えた。


 寒さのためだけではなく怯えたような、真っ青な顔色。

 雨にまぎれることのない、見間違いようのない涙の痕。

 どこも何も見てない、ぽっかりと開いた穴のような瞳。


 その切迫した様は普段の軽口を叩く仕立屋よりも、悲しみの色の服を縫っている時の鬼気迫る表情の仕立屋を彷彿させた。


 不安になって作業室の扉をノックしても返事がなかったが、少し躊躇してから入る。


 そこにはまるで糸の切れた操り人形のように、力なく椅子に身体を放り出した彼女がいた。


 出来上がった喪服は床に投げられ、壁に掛けられ。

 ミシンには途中まで縫われた布が絡み付いている。

 糸屑や布切れが、散りゆく花びらの様に散らばり。

 床には型紙が待ち針によって布に留められている。

 針山からこぼれ落ちた針が薄い光に不気味に輝き。

 竹製の定規は折れ、ささくれた断面を無様に曝す。


 ランプもつけずに廊下からの明かりだけがこの部屋を照らしている。戦場跡のような殺伐とした様子。生気の感じられない荒れ果てた様子。まるで、廃墟のようだった。


「仕立屋……」


 思わず呼びかけた声が擦れた。それでも仕立屋はピクリともしない。息を詰めて、廃墟の様相を呈している部屋に踏み込んだ。頭にかかっているタオルを取り、肩を掴んで力任せに揺すった。 仕立屋がどこか遠くに行ってしまったようで、酷く不安だった。


「おい、仕立屋、何があったんだ?」


「……痛いよ、マレビトくん」


 そこまでしてようやく、仕立屋は俺に視線を合わして呻くように言った。


「その濡れた服着替えろ。それから台所に来て暖まれ。飯喰え」


「ここまでして言いたいことがそれ? お母さんみたいだよ。あー、肩痣になったらどうしてくれんの?」


「風邪ひかなかったことに感謝するんだな」


「……なんかちょっと前までと立場逆だね」


 そう言って、彼女はぼんやりと笑って見せた。


 ぼけーとした仕立屋を寝室に押し込んで、慌てて台所に戻る。案の定鍋の底が焦げる寸前だった。あぶねー。


 普段着に着替えた仕立屋のために竈の前に椅子を出してやる。鍋を火からおろし、仕立屋にスープを手渡す。


「髪、乾かせよ」


 そう言っても、何もしないので勝手にリボンを解いて髪を乾かしにかかった。


「………死にたくないな」


「は?」


 静かに吐き出されたその言葉を、俺は最初聞き間違いかと思った。だって、未だ成人すらしていない俺達にとって、その言葉ほど縁遠いものはなかったからだ。


「私はもうすぐ死ぬんだよ」


 今度こそ聞き間違い出ないと分かり、俺は息を呑んだ。ただ、火がはぜる音と窓の外で雨の降っている音だけが聞こえる。惰性で俺の手は彼女の髪をすき、タオルで拭いていた。


「明後日あるお祭りって、収穫祭でね。収穫の一部と、十七歳の女の子を神サマに捧げる。私がその、十七歳の女の子」


「まさかそんな……」


 風習が、未だに残っていたなんて………。そりゃあ昔はそんなこともあったんだと、聞いたこともあったかもしれないけど、実際にあるという人がここにいる。


「仕方ないね。神サマは私達を助けてくれるけれども、代償を求めるの。昔からずっとやってたことだし。くじ引きで決まったことだし」


「じゃあもしかして、作ってる喪服って……」


「そう、私の葬式に着てもらう服。変でしょ? 自分の葬式のために村人全員に喪服を作るなんて。村の人は私の気が狂ったんじゃないかと疑ったわ。でも、最後の仕事だったから、どうしてもしたかったのよ」


 スプーンでジャガイモをすくって口に含んだ。


「普通、捧げられる人は一人なんだけど、それにも例外があってね。『一緒に死んでください』と、女の子が頼んで、相手も了承したら二人で逝くことになる」


 話の流れで仕立屋がそれを誰かに頼みに行ったのだと分かった。


「付き合ってた人がいたの。優しい人でね。羊飼いをしていて、ちょっと優柔不断なまでに優しい人だった。それが優しさのためだって知っていたから、その優柔不断さも嫌いではなかったの。でも。やっぱり駄目だったの」


 彼女が喋るのを邪魔しないように、髪を拭く。濡れた髪はいつもより少し色が濃く見えた。


「一緒に死んでくれって、頼みに行ったのよ。そのために今日は、私が死ぬと決まってから初めて村の中心に出た。人の視線がこっちに集まるのが厭わしかったわ。同情する目がうっとおしかったわ。同情だけするくせに、決して私の身代わりにはなってくれないのだもの。すっごくイライラしながら彼の家に行った。彼にも、私の用件が分かったのね。だって、彼に会いに行ったのは死ぬと決まってから初めてだったから」


 仕立屋の指先が震えて、スプーンと皿がカシャンと音を立てた。


「彼も、死にたくなかったのよ。怯えられてしまった。ちょっと二人で歩いたけれど、彼が私の一言一言に緊張をしているのが分かると、喋れなかった。彼も私に掛ける言葉がなくて喋れなかった。ずーっと。ずーっと無言で。彼は死にたくなかったけど、優しさゆえに自分が断れないことも知っていた。だから、私が何も言わないことだけを望んでいた」


 髪を乾かす手を止めて、皿を取り上げる。このままでは皿を割ってしまうことが目に見えるくらい手が震えていたからだ。その時に仕立屋が泣いていると始めて分かった。声を震わすこともなく、嗚咽を漏らすこともなく、ただ、涙腺が壊れたかのように大粒の涙を絶え間なくこぼしていた。そしてその涙は手に持っていた皿にこぼれ落ちる。きっと、そのスープは俺が作ったのとはほど遠い、きつい塩味と絶望の味がするのだろう。


「とてもじゃないけど言えなかったわ。だから『別れましょう』とだけ言った。『ごめん』って言われたわ。私が望んだのはそんな言葉じゃなかった。ただ、一緒に死んでくれると言って欲しかった。昔から聞く夢物語なんて、望めるわけがないのね。一緒に死んでくれる人がいるわけがないのね」


 多分彼女自身は淡々と言葉を紡いでいるつもりなのだろう。だけど、その声は段々と揺れ、そのうち確実に震えるようになっていた。 


「怖いよ………神サマの御許に行くなんて言ったら聞こえはいいけれど、私はまだそんなところに行きたくない。これからまだまだしたいことがあるのに。……死にたくない。一人で死にたくないよぉ」


 火のはぜる音と、雨の音に紛れてしまいそうな擦れた言葉は、俺が聞いた初めての仕立屋の心からの慟哭だった。


 仕立屋がゆっくりこちらを振り仰ぐ。泣いている顔を無理矢理笑みの形に歪ませて言った。


「一緒に死んでくれない?」


 髪をすく俺の手を、仕立屋はその華奢な手のどこにそんな力があったのだと思うような強い力で掴んだ。


 音が聞こえなくなる。耳鳴りがしているときのように、何の音も聞こえなかった。仕立屋の流す涙の音さえも聞こえそうなほどの沈黙だった。


 俺だって死にたくはない。だけど、仕立屋が嫌っていた同情と、曲がっていることが嫌いな性分が、こう答えさせていた。


「一緒に、生きてくれと言われれば。俺はあんたを連れて自分の町に逃げるよ?」


 その返答に、仕立屋は一瞬虚を突かれたような表情をして、その後すぐに苦笑した。


「出来るわけがないじゃない。私の足じゃ山道を越えられない。何よりも、神サマから逃れられるわけがない。ごめんね。こんな変なこと聞いてごめんね」


 俯いた仕立屋は、服の袖で目元を強くぬぐった。そうして次に俺の方に向けた顔は、ぎこちないながらも精いっぱい笑っていた。


「それじゃあ、葬式に間に合わすために作業をしますか。今日は晩御飯食べられそうにない。ごめんね」


 ようやく少しだけ乾いた髪の毛を翻し、いつもよりはぎくしゃくした杖運びで作業室に向かった。そうして彼女は今晩も、自分の葬式のために喪服を作り続ける。


「冗談だったわけじゃないんだけどな」


 溜息をついて、彼女が残したスープを少しすする。思った通り俺が味付けたより少ししょっぱい気がした。


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