いちご 3
来なければいいのに、と思った。
憂鬱そうな面持ちで、駅地下のベンチにやってきた矢桐に、もはや労いの言葉をかける気はない。僕がなにか言ったところで、それは同情にしか聞こえないだろう。あとで会う予定の柚寿にはいくらでも優しい言葉をかけてあげるのにな。僕は矢桐の前では、青山瑛太でいることを諦めたのかもしれない。
「……青山」
ぼうっと人混みを眺めていたら、いつの間にかすぐ近くまで来ていた矢桐に声をかけられた。相変わらず、存在感が無い奴である。休みの日だというのに地味な服装をしている矢桐は、当たり前だけど酷く暗い表情をしていた。
もし、矢桐も僕への同情でここに来たとしたら、おあいこだろう。医者と大学教授のご子息が、生活保護でなんとか暮らしている僕に同情して、その桁違いな小遣いの一部を同情でばらまいているだけだとしたら、そんな矢桐に縋らないといけない僕は、どこまでも惨めだ。でも僕は、惨めでもなんでもいい。矢桐から金を貰わないと僕は、ご飯も食べられないし、友達とも遊べないし、服も買えないし、柚寿を満足させてあげられない。
矢桐がそれを望むなら、僕は土下座でもなんでもしてやるつもりなのに、矢桐はいつも、恐ろしく冷めた目で僕を見ているだけだった。矢桐がこんな感じだから、僕は調子に乗って金を取るのをやめられずにいる。矢桐はもっと僕の事を嫌うべきだと思う。少しくらい反抗してくれないと、僕は本当にやめられなくなってしまう。
人気が少ない路地裏に誘い、僕は矢桐に財布を出させた。矢桐は金持ちのくせに、身の回りのものにこだわりはないらしい。安そうな財布は、僕のせいでボロボロになってしまった。破れた穴から、不似合いな福沢諭吉が顔を出している。
「矢桐って、毎回こういうことされて嫌じゃないの?」
変な質問をしてしまったな、と我ながら思う。金を盗られて嫌じゃない人間なんかいない。それでも聞かずにはいられなかったのは、一度、矢桐を本気で怒らせてみたかったから。矢桐が僕を思いっきり殴ってくれたら、目が覚めるかもしれない。そんなことを頭の片隅で思った。
「……別に」
返ってきた返答は、いたってシンプルだった。表情がなくて、どうでもよさそうな声色が、僕ら以外誰もいない路地裏にぽつりと響く。
思い通りにいかない奴である。矢桐にとって、僕という存在や、金のことはどうでもいいのだろうか。僕は矢桐が居ないと地位も食事も失うというのに、矢桐からしたら、僕なんて「ちょっと迷惑なクラスメイト」程度に過ぎないかもしれない。
外が暗くなってきた。道を歩く人は、次々に鞄から折り畳み傘を出して広げる。どうやら雨が降ってきたらしい。
ぴこん、と僕の携帯から、気の抜ける通知音が鳴った。人といる時にスマホは弄らない主義の僕だが、僕は矢桐を人と認識しなかったみたいで、当たり前のようにスマホを取り出した。見ると、翔と戸羽さんから連絡が入っていた。
「俺たち、付き合うことになりました」と、写真付きの連絡。ふたりで手を繋いでいるその写真の背景は、見るからに安っぽいラブホテルだった。天気が悪化してきたのを口実に連れ込んだのだろう。本当に軽い奴らだ。
僕は、こんなところで何をしているのだろうか。矢桐は僕を、ただ怪訝そうな目でじっと見ている。しょうがないから、「戸羽さんがさ、僕の友達と付き合ったってさ」と教えてやっても、曖昧な返答しかされなかった。きっと戸羽さんには興味がないんだと思う。じゃあ、この前の放課後、一緒に歩いていたあの子ならどうだろう。何気ない気持ちで僕は聞いた。
「矢桐はさ、誰かと付き合ったりしないの? ……あー、たとえば瀬戸さんとか」
「な、なんで瀬戸さんが出てくるんだよ!」
「……へ」
僕はスマホの画面から視線を上げて矢桐を見る。驚いた、矢桐の人間らしい反応を久しぶりに見た。
矢桐は、「瀬戸さん」というワードを出したら明らかに動揺しはじめることに気づいた。金を搾取し続ける僕よりも、優しさの塊のような瀬戸京乃さんの方が好きらしい。当たり前だけど。
「へえ、なんか怪しいと思ってたんだよなぁ。瀬戸さんと仲良いしな、お前」
いじめられっ子とこんな会話をするいじめっ子なんて、きっとどこを探してもいない。でも、僕は矢桐の話に単純に興味がある。何を失えば矢桐は僕に、本気でかかってくるのだろう。
「な、なかよくなんか……」
「仲良いじゃん。この前も一緒に歩いてたし。好きなの?」
「……なんで、そんなこと……」
耳まで真っ赤にして、俯きながら強く手を振って否定を表す矢桐は、いつもよりかなり人間味があって面白い。僕の前では、ずっと無表情で、殴られても蹴られても痛そうに顔をゆがめるだけで、本心では何を思っているかはわからなかった。矢桐って、こんなにわかりやすい奴だったのか。なんで今まで知らなかったんだろう。
「……へぇ」
最高にいいことを思いついた。僕は適当に笑顔を作って、「がんばれよー」と上辺の言葉を述べる。矢桐はまだ、真っ赤な顔で俯いたままだ。
もし僕が、付き合ってもいない瀬戸さんを口説いて、セックスでもして、矢桐の淡い恋をぶち壊したら、矢桐はきっと僕のことを本気で許せなくなるだろう。人間らしい表情を、僕にも見せてくれるだろう。
雨が強くなってきた。時刻は午後五時半、僕を待っているであろう柚寿が、雨に濡れたら可哀想だ。早く向かってあげなくてはいけない。
僕は瀬戸さんに一件のラインを入れて、矢桐と別れることにした。
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