ぺんてる 4

 その日の夕飯はいつにも増して豪勢だった。ハンバーグをナイフで切り分けながら、僕は兄が父親に殴られるのを待っていた。

 だけど、なんだか父も母も、兄が帰ってきたことを喜んでいるようだった。東京に出てからは一度も帰らなかったから、大学を辞めたことなんかより、無事に帰ってきたことの方が嬉しかったのかもしれない。僕の家は金だけはあるから、大学をやめたくらいの立て直しは十分に効くのだ。高い授業料を払ったと思えばいい。


 「今日からは優も晴も居て、また家族四人で暮らせるわね」


 母は笑う。そんなこと言ってる場合じゃないのになあ、と僕は小さくつぶやいて、切り分けたハンバーグを口に放り込んだ。僕の人生は、いつも少しだけうまくいかない。


 席替えがあるらしい。青山のグループの男が教室に報告した瞬間、どっと歓声が上がった。

 廊下側の一番後ろの席で、僕は机に伏せて寝ていたのだけれど、その声で目を覚ましてしまい、寝起きの目を擦った。

 一時間目のロング・ホームルーム。入ってきた担任の中野が席替えの事実を告げる。「センセ、今回はクジですかー?」と戸羽紅音さんが真っ先に手を挙げる。この前クジだったから今回はちげーんじゃねえのとどこかから声が上がる。

 楽しいはずの席替えだったが、担任の次の言葉で、教室は凍りついた。


 「えー、今回の席替えは中間テストの成績順に席を決める。悪かった順に読み上げるから、名前が呼ばれた奴から廊下側に縦に座れ」

 「え、俺一番前かもしれねー」


 一瞬時が止まった後、バスケ部のエースの柏野が、冗談らしく笑う。すると周りもざわつきはじめ、成績順ってやばくね、なんて声が各地で上がり始めた。僕は、この前の中間テストで何点取ったっけ。最初あたりに名前を呼ばれたら、公開処刑じゃないか。どうか、せめて一番廊下側の席にはなりませんように。

 教室の後ろの方に、荷物を持って全員立たされる。こんな席替えは異例で、またクラスに緊張が走る。それでは発表するの担任の声に、生唾を飲み込む。


 「……瀬戸。瀬戸京乃」


 一番最初に、瀬戸さんの名前が呼ばれた。つまりこのクラスで一番成績が悪かったのである。「やっぱ、やめたほうがいいんじゃねえの、これ」と、さっきまで威勢が良かった柏野がぽつりと呟く。クラスの中でもおちゃらけている柏野や、勉強嫌いで有名な戸羽さんの名前が呼ばれたのなら、それなりに盛り上がっただろうに、このなんともリアルな空気感に、ついに教室は押しつぶされそうだった。


 「あ、あはは、私が一番下かあ」


 瀬戸さんは、無理やり浮かべたような笑顔で、荷物を持って歩き出し、廊下側の一番前に座って、こっちを見てまた力なく笑った。

 きっと、泣きたくて、消えたいに違いない。でも僕は、瀬戸さんを助けられない。無力すぎる自分を責めたくなった。僕は、瀬戸さんにたくさん幸せにしてもらっているのに、僕が瀬戸さんを幸せにすることはできない。


 「次。どんどんいくぞー。柏野、戸羽、笹島、餅田、中重、倉持」

 「ビリじゃなくてよかったー! ま、前から三番目なんだけどねー!」


 戸羽さんが心底ほっとしたような顔で席に向かう。あっという間に廊下側は埋まった。僕の名前はたぶん、中盤くらいで呼ばれるだろうけど、僕の事なんかどうでもいい。瀬戸さんが心配で仕方ない。


 「相沢、野村、渡辺、真野」


 瀬戸さんの友達の、相沢梓さんが、廊下側から二列目の一番前に座る。隣の瀬戸さんに何か話しかけているようだけれど、どうか僕の代わりに、慰めてあげてほしかった。


 「えー、次。江藤、榎本、矢桐、斎藤」


 半分くらい名前を呼ばれて、教室はやっと、普段通りのムードを取り戻した。僕の席は真ん中の列の後ろから二番目で、まあ、いたって普通の成績である。後ろを見ると、もう残りは十人くらいしかいなくて、真面目そうな男女が黙って立っている中に、青山と小南さんもいた。

 あいつらが、瀬戸さんの代わりに廊下側の一番前に座ればよかったのに。人生はいつも、僕の思い通りにはいかない。青山も小南さんも、席に座っている僕らを見て、嘲笑っているみたいな表情を浮かべている気がした。


 「はい、ラスト五人。佐倉、泉、小南、青山、八巻。以上」


 窓側の五人は、どこか自慢げな表情で、席に座る。僕もこの五人に入れていたら、たぶんあんな顔をしていただろう。羨ましくないわけでは無かった。


 「センセ―! 青山と柚寿ちゃん前後ですよ、いいんですかー? いちゃつかれても困りますよー!」


 廊下側の前から二番目の、柏野が抗議する。その後ろの戸羽さんも、「そうだそうだー! 瀬戸さんと柚寿の席交換しよー!」と叫ぶ。たぶん戸羽さんは、瀬戸さんとは話が合わないから、仲のいい小南さんと近くの席になりたいんだろう。瀬戸さんを一ミリも青山に近づけたくない僕としては、その案は反対である。


 「成績順で並べた時こうなるんだから仕方ないだろ。悔しかったら小南と青山くらい点数を取るんだな」

 「それは絶対無理ー」


 柏野と戸羽さんが顔を見合わせて笑う。青山と小南さんも一緒に笑っている。教室のど真ん中で僕は、青山を蹴落とすことも出来ず、瀬戸さんを助けてあげることも出来ず、ただここに座っている。限りなく無力だった。

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