ぺんてる 3

 瀬戸さんと駅で別れてから、電車が来るまでの間、何回も頭の中でさっきまでの会話を回想した。あの時はもっと良い返しが出来たよなとか、話すのは苦手だからせめて聞き上手になりたかったなとか考えているうちに、ふわふわした幸せな気持ちは冷えていってしまった。駅のホームで、ただ風に吹かれている。やっぱり僕は、他のクラスメイト達みたいに青春真っ只中みたいな真似は出来ないんだと思い知る。

 でも、瀬戸さんは可愛かったなあ。柄にもなく空を見上げて、彼女の笑顔を思い出していた。


 「お帰りなさい、晴くん。お兄ちゃん帰ってきてるわよ」


 家のドアを開けると、玄関の鏡を掃除していた母が、ロングスカートの裾をひらひらさせて、僕に笑いかけた。その言葉通り、見慣れない革靴が綺麗に並べてある。僕は「わかった」とだけ返して、靴も揃えず脱ぎ捨てて、スリッパに履き替え、自室がある三階を目指して歩き出した。

 僕には、大学生の兄がいる。僕と似て、喋るのも聞くのも下手くそなくせに、普通を装おうとするから、見ていて痛々しい兄だ。東京の大学の医学部に進学してからは、会うことも思い出すこともなかったのに、どうしていまさら実家に帰ってきたのだろうか。

 応接室や客室、父の書斎を通り過ぎた先の、和室に兄はいるらしい。会いたくなかった。僕の事を何一つわかろうとしないから、兄は嫌いだ。

 途中で会ったお手伝いさんに適当な和菓子を貰い、自室の扉を開き、内側から鍵を閉めた。オンラインゲームをして、飽きたら睡眠欲に任せてただ眠るときと、瀬戸さんが笑っている時だけが僕の幸せである。窓から見える庭には、いつの間に買ったのか小さなゴルフコースが設備されていた。恐らく父のものだろう。金がたくさんあっていいな、と思った。僕の金は全部青山に取られてしまうから、自由に使える金がある事は、僕のあこがれだった。

 ああ、家でまで青山のことなんか思い出したくないな。大きなベッドに座って、そのまま寝っ転がって、真っ白の天井を眺める。

 無音の部屋で、瀬戸さんと話した、球技大会と文化祭の事を思い出す。笑顔がびっくりするくらい可愛い瀬戸さん。それに対して、作り物みたいな小南さん。僕の首を絞めて、無表情で金をポケットにねじ込む青山。遠い日の夏、きっと去年の事。僕の家を見て、大きな瞳を見開いていた青山は、あの時はまだ、ちゃんとしていたような気がした。僕が手遅れにしてしまったのだろうか。僕が責任をもって殺さなければいけないな。瀬戸さんが何回も僕の手を取って笑う。僕が普通の高校生だったら、普通の高校生の瀬戸さんと、普通に仲良くなる未来があったかもしれない。僕の青春を根こそぎ奪った青山に、また頭の中でナイフを突き刺す、一秒前、


 「……晴?」

 「う、うわっ」


 扉が開いた。確実に鍵を閉めていたはずなのに。飛び上がってベッドの隅に逃げる僕を真っ直ぐ見て、兄は笑っていた。

 見ないうちに、笑うのが随分うまくなった。私服が大人っぽくなった。久しぶり、と僕を見る。


 「……な、なんで」

 「あれ、母さんから聞いてなかったか? 僕、大学辞めたんだ」

 「やめたって……」


 僕が貰ってきた和菓子のパッケージを勝手に開けて口に運びつつ、兄は今日の夕飯でも知らせるようなノリで言った。

 僕はと言うと、驚いてしまって言葉が一つも出なかった。


 「父さんみたいに医者になろうと思ったけど、やっぱ無理だよ。血見るの怖いしさ。僕は、教師になる。医学部の人間になるんじゃなくて、医学部に送り出す人間になることで、日本の医学に貢献しようと思ったのさ」

 「でも、やめたってどういうことだよ……父さんも母さんも、納得するわけないだろ……!」

 「……そう、まだ父さんには喋ってないんだよ。殴られるかもなあ」


 その時は看病してくれよと、兄は冗談っぽく言って右頬を抑える。頭がくらくらしてきた。大学なんて、そう簡単にやめられるものではない。みんなそれをわかっているはずだ。母さんも、少しは僕に相談してくれたっていいのに。


 「まあ、なんとかなるだろ。ていうか、母さん、僕じゃなくてお前の事心配してたぞ。高校に入ってから、成績が下がる一方だって」


 ふう、と兄は息を吐いて、「タバコ吸っていいか?」と僕に聞く。そういえば、兄はもう二十歳になっていた。

 煙を吐き出して、少しだけ神妙な顔つきになって、兄は言う。


 「……お前さ、いじめられたりしてない? 母さん、晴が前よりも暗くなったって言ってた」

 「……してない」


 いじめられてなんかいないよ、殺そうとしてる奴はいるけど。そう言おうとしたけど、やめた。楽しみは後にとっておこう。犯罪者の家族として、このバカみたいな兄も一生好奇の目に晒されてしまえばいい。

 兄は嫌いだ。悪意しかない青山とは違って、悪気が無いのに僕の痛いところを突いてくる。生きるのが絶望的に下手なのだ。いつも、空回りばかりしている兄を、僕はずっとそばで見てきた。今回だってそうだ。きっと、心の奥底では医者になる夢を諦めていないんだろう。大学でくだらない人間関係のトラブルを起こしたに違いない。

 今日から浪人生だから、またここに住むことにしたよ。よろしく。兄はそう言って、少し寂し気な笑顔を浮かべる。僕の最悪な人生に、さらに嫌なものが追加されてしまった。早いところ青山を殺して、僕も死んでしまいたいと思った。

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